第二章 潤一

第18話

今日は、遅くなってしまった。

駅から、自慢の足で細くて暗い路地を一気に走り抜ける。

高校の入学祝いに買ってもらったリュックは、安定感抜群でどんなに走って揺らしても身体に負担がかからない。

いっぱいに詰まった教科書や楽譜も重さを感じなくていい。

同級生には、登山にでも行くのか、と揶揄されたりするけど、全然気にしない。

大きい弁当箱も入るし。

細い路地を抜けると住宅地になって、すぐ目に入るのは錦古里病院、立ち並ぶ日本家屋の一つが俺たちの家だ。


「ただいまー」

垣根のある門を入る。築50年立つこの家の水回りと玄関は防犯のために新しいものに変えたらしい。

居間の前を通るとヨシくんが卓袱台の前に座って、台本を読んでいた。

ヨシくんは大学で演劇をやっているんだ。

「おかえり。遅かったじゃん。寄り道か?」

「ちゃうよ。電車が遅延してたんや」

時計を見ると、8時を過ぎていた。

台所からまーくんが顔を出した。

「おかえり、潤。すぐ夕飯食べるか?」

「うん。お腹すいたー。博人くんは?」

「今日は遅くなるってさ」

また、美味しいもの食べに行ってるんだよ、とちょっと拗ね気味にヨシくんが答えた。

「仕事の一貫だろ。潤、着替えて来いよ」

博人くんは大学を出たあと、飲食店専門のコンサルタント会社で働いている。

まーくんは、元々、モノを作るのが好きだったので、大学で建築を学び、いつもパソコンと向き合っている。在宅勤務が多く、たまに会社や現場に行く生活スタイルだ。

家事は分担制だけど、料理はまーくんが中心になることが多い。俺ができるのは掃除と洗濯ぐらいだ。

とはいえ、この古い平屋の日本家屋は広いし、庭には大きな梅の木があって手入れも結構大変。

廊下は、どんなに静かに歩いてもぎしぎしと音を立てる。

でも、裏は山だし、両隣に住んでいるのは老夫婦なので、俺がいくらピアノを弾いても文句は言われないから、すっごく助かる。

ガタが来始めているこの家も、そのうちリフォームしたいと、まーくんは言っていた。



8年前、まーくんが突然、家を出て東京の大学に進学し、鎌倉に住むと言い出した。

博人くんも、次の年には鎌倉へ行くという。

俺とヨシくんは泣いて引き止めたが、

「後から、二人もくればいいよ」

と、その場は博人くんに上手く丸め込まれてしまった。

ふたりが家を出てからは、夏休みはこっちから鎌倉に行き、年末には二人が帰ってくるというサイクルになった。

それから5年後、ヨシくんが受験生になり東京の大学を受けたが、第一志望の大学を落ちてしまった。

ヨシくんは、ふたりのところに行かせて欲しいと両親に土下座して頼みこみ、しぶしぶだが了承されてヨシくんも家を出てしまった。

東京に行く条件は国公立に受かることだったけど、滑り止めの私立大は受かっていたからだ。

そして、俺だけが取り残されてしまった。俺が3人のところへ行くには、まだ4年も先だ。

そんな時、ピアノの先生が音楽科のある高校を進めてくれた。

音楽科のある高校一覧の中に、東京の高校もあって、すぐに行きたいと思ったけど言い出せなかった。

ただでさえお金がかかるのに、わがままなんて言えない。

だって、俺はこの家の子じゃないから。

土下座して鎌倉行きを許してもらったヨシくんが少し羨ましかった。


そんな時、博人くんが実家の近くのお店に車で来たついでだと行って立ち寄った。

「潤一、音楽科に進学するんだって?」

いつものように、にこにこしながら聞いてくれたけど、俺はすぐに返事できなくて、もごもごしてたら、甘いもの食べに行こうと連れ出してくれた。

博人くんが運転する車の助手席に座るのは初めてだった。

「お母さん、嬉しそうだったよ。コンクールも入賞したし、先生にも進学を進められたって」

自慢の息子だね、と笑う。

けど、俺はまともに返事ができなくて、うん、とか、そう、とか言うだけだった。

「―――潤一、ピアノ、もう弾きたくないの?」

「え…! そんなことないよ!」

慌てて顔をあげると、博人が運転席から横目で見ていた。

「そう? もし、言い出せなくてイヤイヤやってるんだったら…」

「ちゃうよ! そんなことない! ピアノは好きや!」

「……でも?」

続きを促すように、博人くんが言葉を繋ぐ。

俺は、再び黙り込んでしまった。この心の葛藤をどう説明していいのか分からない。

「俺は潤一の先輩だからね。なんでも言っていいよ」

俺の考えてることなんて、博人くんにはお見通しなのかな。

「……ピアノは好き。音楽科に進学したい」

「うん」

「………東京の学校、行きたい」

博人くんは、急に左折すると、よくあるファミレスの駐車場に入った。

連れて行ってくれると言った甘味処ではない。

「ちょっと、ゆっくり話そうか」


席に着いて注文を済ませると博人くんが切り出した。

「最初から説明して」

まっすぐ見つめられて、もう逃げられない事を悟って、つっかかりながらも、今の自分の気持ちを正直に博人くんに話した。

音楽科に進学したい、東京の学校に行きたい、三人のいる鎌倉に行きたい、でも、おばちゃん達には言えない。

「行きたい高校が具体的にあるの?」

俺はケータイに保存してある高校リストを見せた。行きたいのは、有名な芸術家を多数輩出している大学の付属高校。でも、一番の難関校だ。

博人はそれに目を通すと、いつもの優しい表情と口調で俺を褒めてくれた。

「すごいな、潤一は。俺が中3の時は、先のことなんて何も考えてなかったよ」

「博人くんは、どうやって高校を選んだん?」

「俺は真幸について行っただけだから」

簡単に言うけど、まーくんと博人くんの高校は、学区内でも一番の進学校だ。努力なしで入れるところじゃない。

子どもの俺の目に映るまーくんは、器用で頭が良くて、優しくて強い。

いつも、その長い脚と軽い身体で、どんなモノもひょいひょいと飛び越えて行ってしまう印象だった。

そして、その横には、ぴったりと博人くんがいた。

まーくんに着いて行くには、並々ならぬ努力が必要だったと思う。

だから、まーくんの隣に博人くんがいるのは当たり前で、誰も割って入れない。あのヨシくんでさえ。

「潤一は、コツコツと努力できる才能を持ってるよ」

「努力も才能?」

「そうだよ。どんなに頭が良くて才能があっても、それを維持し続けるための忍耐力がなかったり努力ができなければ、それは宝の持ち腐れだからね」

博人くんの濁りのない目を見る。

「俺達はそれを知っているから、潤一にどんなことでもしてあげたいと思うんだよ。いい加減な子だったら、そんな気にはならないから。ね、この事は俺に任せてくれる?」

任せる? 首を傾げると同時に頼んだ期間限定のパフェが運ばれてきた。

博人くんの気持ちは、もうパフェの方に移ってしまったので、この話はここまでになった。


その数日後、今度はまーくんと博人くんの二人が一緒に帰ってきて、夜遅くまでおじさん達と話し込んでいた。

俺の進路の事を話し合っているんだ。俺は自分の部屋で何を話しているのか、そわそわしながら待っていた。

しばらくして、声がかかり居間に行くと、まーくんに手招きされて二人の間に座る。

「潤一の覚悟を聞こうか」

「覚悟?」

「この家を離れて知らない土地で暮らす覚悟。友達も一から作らないといけないし、鎌倉に住むなら自分のことは自分でやらないといけないし、家のことは当番制でやらないといけない。学校と両立できるか?」

「できるよ!」

ここで躊躇なんて出来ないし、する理由もない。

二人が家を出てから、ヨシくんと家事は分担してやってたし、おばさんのお手伝いもしてきたから一通りの事は出来る。

知らない土地に行くのも友達から離れるのも、小さい頃、母親に振り回されて散々経験した。今更、なんとも思わない。俺はどこででも生活できる。

ただ、3人と一緒にいたいんだ。

必死に訴えると、まーくんがぽんぽんと背中を叩いた。

「お父さん、潤一を引き取ってもいいかな」

おじさんが無言でうなずき、おばさんは少し寂しそうな表情を見せた。

俺、合格? 鎌倉に行けるん?

博人くんに頭を撫でられて、涙がぽろぽろこぼれてきた。

「まだ気が早いぞ。高校に受からないとダメなんだからな」

「分かっとるよ」

まーくんにしがみついて、ありがとうと、やっとの思いで言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る