僕の彼女は立ち止まれない

雪子

僕の彼女は立ち止まれない

 僕の彼女は、普段から時間というものに突き動かされている。

 例えば、彼女は歯磨きをすることができない。歯磨きをしながら、もう片方の手で耳かきをする。

 例えば、彼女はお風呂に入ることをすることができない。お風呂に入りながら、英語でニュースを聞いている。

 例えば、彼女は料理をすることができない。料理をしながら、アニメを見ている。

 もちろん、休日に暇を持て余すことなんて得意であるはずがない。彼女の苦手なことナンバーワンは「何もしないでゴロゴロすること」だ。

「たまちゃん、そんな生活してて疲れない?」

 僕が彼女に尋ねると、

「うん!全然疲れないよ。頑張ってないと不安でたまらないの!一度に色々できたらその分時間ができるし!」

 と、最高の笑顔を僕に向けてくれる。

 確かに、彼女が普段の生活で辛そうにしているようにはまったく見えない。だけど、時々危うく見えるときがある。

 彼女は、立ち止まることが苦手だ。昔から正義感が強く、正しいことに忠実でありすぎるところがある。一度決めたことは最後までやり切ることが正しいと思っているから、やり切るまでは止まれない。

 そんな彼女は、みんなから好かれていて仕事もよくできる。仕事を多く任されると、僕の彼女は俄然やる気を出してしっかり成果を残せる優秀な彼女だ。

 だけど、たまに無理をしすぎて体調を崩してしまうこともある。辛いと思ったところからもう一歩が踏み出せる彼女は止まることを知らない。彼女が休むのは熱が出たときだけだ。体が動かなくなるまではどんなに辛くても基本止まらない。

「マグロみたいだね」

 と僕が言うと、

「マグロってすごいよね!寝ながら泳げるんだよ。私もそうなりたい」

 なんて軽く冗談も言えるかわいい彼女なのだ。

「ハハハ、たまちゃんがマグロになったら僕が困るなあ。冗談だよね」

「え、ちょっと本気だったよ」

 …本気だったらしい。

 そんな彼女が、今日過呼吸で倒れた。仕事中の出来事だったらしい。

「ねえねえしゅんくん」

 家に帰ってくるなり、彼女は僕の背後を取って、腰に手を回してきた。言いにくいことがあるとき、彼女はよくこうする。

「ん?どうしたの?」

 僕は少し身構えて尋ねる。

「今日ね、職場で倒れた」

「へ!?」

 思っていたよりも一大事で、僕は慌てて彼女の手をほどいて向き直る。まっすぐ目があった彼女は、少し気まずそうに目をそらした。

「ちょっとした過呼吸で…しゅんくん知ってる?過呼吸になると体がしびれて、手とかこんなになっちゃうんだよ!!」

 彼女が気まずさをごまかすようにおどけてみせた。手を影絵を作る時みたいに複雑な形にして僕に見せてくる。

「しゅんくん顔怖い」

「だって…」

 僕は、職場で倒れた彼女を想像して指先が冷えていくのを感じていた。呼吸が乱れて苦しそうに息を吸う彼女。手が変な形になって動けなくなる彼女。

「…今は、何ともないの?」

 ふり絞っても、こんな言葉しか出てこなかった。

「うん、何ともない」

 彼女は即答した。でもそのあと、すぐに目をそらして僕にしがみついてきた。彼女がこうして甘えてくるのは珍しい。きっと職場で何かあったのだろう。

「何ともなくない人、見っけ」

「見つかっちゃった」

 僕が彼女の腰に手を回して捕まえると、彼女は僕の胸の中でケラケラ笑った。

「どうしたの?」

 ひとしきり笑った後、僕はそっと切り出した。

「倒れた後、ツボさんに怒られた」

 ツボさんとは、彼女の職場のお局さんのことだ。お局さんと呼ぶとちょっと感じが悪いのでツボさんと親しみを込めて呼んでいる。

「なんで怒られたの」

「『珠美ちゃんのよくないところはここよ。無理して、もう動けないところまで休まない。倒れたらみんなに迷惑がかかるじゃない。あれもして、これもしてっていろんなことに手を出すからキャパオーバーしちゃうのよ。自分のキャパを過信しすぎるのはやめなさい』って怒られたー--」

「うーん」

 僕の胸に頭をグリグリしてくる彼女の背中をさすりながら、僕は考える。たぶん、ツボさんは彼女のことを心配してきつくもとれることを言ったのだ。

 頑張ることは無条件に素晴らしくて、そうあるべきだと考えている彼女は、少し頑固なくらいに努力する。努力することは正しいから、なかなか彼女を止めることはできない。だけど、努力することは時に無理をすることとイコールになる時がある。例えば、今日みたいな時だ。

「分かってるよ、みんなに迷惑かけちゃいけないって。それは『正しくないこと』だ。ツボさんも、私の為に怒ってくれたんだよね。でもね」

「うん」

「私、やめるとか、手放すとか、ちょっと手を抜くとかそういうことがとっても苦手なの」

「え…」

 思わず阿呆な声が出た。彼女に自覚があったとは驚きだ。

「たまちゃん、自覚あったの?」

「あったんですー」

 彼女がまた頭をグリグリしてくる。僕はそれに合わせて彼女の背中をサスサスする。

 ここで、そんな根詰めた生き方はもうやめろというのは間違っていると思う。無理はしてほしくないし、過呼吸にもなってほしくない。だけど、彼女はそうやって正しさを追い求めてここまで頑張ってきた。努力の尊さを信じて、ここまでやってきた。

 努力をすることは難しい。努力し続けることはもっと難しい。正しさは綺麗なものである分、後ろ指も刺されやすい。だから、ここまで私生活でも手を抜かずに努力してきた彼女は褒められこそすれ、否定されるべきではない。

「…僕は」

 しばらくグリグリサスサスしあった後、僕は口を開いた。

「たまちゃんのそういうところが素敵だと思ってるよ」

「…ありがと」

「僕は、休日ゴロゴロするの大好きだし、できればずっと寝てたいくらいだから尊敬してる」

「ありがと」

「だけど、無理して倒れてほしくはないんだ」

「心配してくれて、ありがと」

「ありがとって言いすぎじゃない?言いすぎると薄っぺらく響くんだぞ」

 彼女が、僕の胸に顔をうずめてくぐもった声で「ありがと」と繰り返すのは、泣きそうになっているのを隠すためだと気づいて、少し茶化して見せる。

「わ、しゅんくんおバカさんだねえ。何回言ってもいいんだよ。感謝の言葉は!大事なことは何回も言わなきゃ。ありがとありがとありがと」

「おいこら、ありがと星人。僕の話はまだ終わってないぞ」

 僕は、軽く彼女の背中を叩く。彼女がケラケラ笑った。

「たまちゃんの生き方は、常に二刀流って感じで超かっこいいよ」

「きゃ、照れちゃう」

「そこは『ありがと』だろ」

「アリガトアリガトアリガト」

 努力するのがやめられないなら、無理をしない努力の仕方を考えればいい。

「頑張らなきゃって思うから、無理しちゃうんだ。根詰めちゃうんだ。過呼吸になっちゃうんだ。だからもっと力を抜いて『二刀流の私超かっこいい!!』って、もっと気楽に生きればいいと思うよ」

「…しゅんくん天才?」

「そうだよ」

 再び彼女がケラケラ笑う。僕の胸がだんだん熱くなってきた。さてはこやつ、笑いながら泣いてるな?

「泣いてる?」

「泣いてない」

「そう」

「うん」

 彼女が深呼吸をした。

「私ね、『頑張ることは正しい。正しいことはやり切るべきだ!義務だ!』って思いながら生きてきたの。でも、頑張ることをやめられない自分が嫌になることもあったの。だってしんどいし。倒れたらみんなに迷惑かけちゃうし。だから、そんなふうに『二刀流超かっこいい!』みたいに考えたことなんてなかった」

「そりゃそうだろうね」

「ちょっと肩の力が抜けたよ。そうやって考えたら頑張ることが楽しくなりそうだよ。私武士大好きだから!」

 彼女は首をクイっと上げて、僕の目を見た。赤くなった目じりが、たまらなく愛おしい。

「しゅんくん、ありがとう」

「どういたしまして」

 そういって、僕たちはまた抱き合った。

 それから彼女はあまり無理をしないようになって、以前より仕事を楽しむようになった。

 僕の彼女は、相変わらず時間というものに突き動かされている。

 僕の彼女は、相変わらず立ち止まれない。

 だけど、二刀流の考えた方を手に入れた彼女は、前よりずっと気楽に見える。

 僕はやっぱり頑張る彼女が大好きだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の彼女は立ち止まれない 雪子 @1407

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ