第15話 「ガロの書 第1章 蛇神の慈愛と渦の起こり」

 ベラの子どもの中で、最も力強く、立派な体格をしていたのは三男のガロだった。ガロは、上半身は人間、下半身は蛇の姿をした巨体の大男である。美しい鱗は陽の下の水面のように清く光り、鍛え上げられた肉体は彫刻と比べても見劣りしない。

 彼は母の言いつけを従順に守り、長男クシェルから割り当てられた小さな島を治めることに決めた。


 ガロは誰に対しても穏やかであり、その温厚さこそが、彼の強さの証明でもあった。

 強さと優しさを兼ね備えた彼の元には、やがて身体の小さな商人の一族がやってきた。

 人々は初めてガロを見つけ出した日、平穏を求めて追い縋ったという。一族は獣に怯え、身を寄せ合って暮らしていたのだ。

 ガロは彼らの脆さすら愛し、大切に守り暮らすことにした。ガロの厚い庇護のもと発展してきた商人の一族、これこそがガーデル人の始まりである。


 大風が吹けばガロはその身を盾として家屋を守り、病が流行れば使いの蛇と共に森へ薬草を探して歩いた。

 ガーデル人は蛇神ガロを愛し、ガロもまた彼らの穏やかな日々を守ることに幸福を感じていた。


 その安寧にひびが入ったのは、かのバラバリアの大戦が始まってしばらくした頃である。バラバリアはリリーとベラを唯一絶対の女神とし、人間の男との間に生まれ落ちたベラの息子たちは穢れた存在であると貶したのである。

 バラバリアの軍勢は、次々に凶悪な兵器を開発し、国中にその戦火を広げんと躍起になっていた。

 バラバリアは、リリーの四男シャルルが治めていたシャル島と、そこに暮らしていたシャリア人に非道の限りを尽くした。


 そうして、次に狙われたのが、ガロの治めるガロン島である。バラバリアはガロの容貌を奇怪な化け物と貶め、四人の将軍と千の兵隊が海を渡ってやってきた。そして、あらん限りの兵器で以てして、ガーデル人に襲いかかったのだ。


 ガロは火炎のごとく怒り狂った。

 一度太い尾を鞭のようにしならせると、地面は粉々に粉砕し、一声咆哮すれば竜巻が巻き起こった。

 そうして、三日と経たない内にバラバリアは追い詰められたのである。


「なんということでしょうか。あなた方の身勝手な思い込みのために、わたくしを慕ってくださったガーデル人が、その生命を奪われました」


 蛇神は血よりも赤い涙を流して、嗚咽混じりに言った。

 その大樹のように太い腕の中には、赤ん坊の亡骸が抱かれていた。ガロの小指の爪よりも小さな赤ん坊である。慈悲深い瞳は悲しみの一色に染まりきっており、涙が止まる気配すらなかった。


「母と伯母はあなた方を含めて人間を愛しておりました。人間に別などない。わたくしも同じ心持ちですのに」


 将軍の一人が、ガロを「半獣の化け物」と口汚く罵った。

 ガロは、四人の将軍の内、最も体の大きな黒ひげの男を指で摘まむと、顔の高さまで持ち上げた。

 将軍が空中で足を忙しく蹴り上げる。


「あなた方を殺したくはありません、しかし、このまま許してしまっては奪われた子どもたちが哀れでなりません」

 

 ガロはしばらく将軍の反応を辛抱強く待っていた。しかし、彼は喚き散らすばかりで、ガロの沈痛な声など聞いていないらしい。


「あなた方に役目を与えましょう」


 ふぅと息を吹きかけると、黒ひげの将軍の身体は捻じれ始めた。紐を組むように、手と足が胴体に張り付いていく。

 やがて、髪は禿げ上がり、口は裂け、最後には一匹の巨大な白い蛇が姿を現した。


 ガロはほんの数分前までバラバリアの将軍であった蛇を、海へと投げ飛ばした。蛇は空中を力無く漂いながら大きな弧を描き、ガロン島の沖合へと落ちた。


 すると、彼は意志のない伽藍洞の目で自分の尾に食らいついた。そして、そのままぐるぐると回転を始めたのだ。回転は、その内に巨大な渦潮を巻き起こし、轟轟と唸りだしたのである。


 ガロは残りの将軍も同じように蛇へと変えると、島の四方へと投げ飛ばした。彼らもまた、巨大な渦潮を生み出した。


「そこで、わたくしの子どもたちをお守りなさい。わたくしの子どもたちを傷つけた代償に、わたくしの子どもたちのために働くのです」


 バラバリアの兵士たちは、上官の変貌に恐怖し、震え上がった。

 これを好機と武器を取るガーデル人に、ガロは穏やかに向き直った。


「バラバリアの命を奪うことは許しません。許す日まで、彼らはわたくしたちと共にあるのです」


 これが現在に続く————』


 そこまで語り、アンシュリーは絶叫した。

 突如として頭の内部で火花が弾け飛んだのだ。

 それは両眼が焼け落ちるような激痛だった。後ろから、桐で眼球を突き抜かれたかのようだ。


 あまりの激痛に、アンシュリーはのたうち回った。無意識に鼻血が流れ出し、嘔吐を繰り返す。胃液が涎と一緒に顎をぼたぼたと濡らす。

 そのまま目を瞑る。固く、固く、もう二度と開かないように。


 途切れゆく意識の中で、アンシュリーは父親の真っ黒い目を思い出した。覗き込むと、宇宙の最果てを思わせる。あの、暗い空洞のような目。

 父さん、父さんもこんなに痛い思いをしたの?

 僕のために?

 何度呼びかけても、遠のいていく背中は何も語らない。


 そこで、ふわりと身体が浮き上がった。柔らかい引力に吸い上げられているような心地がする。

 腹の下には小さな太陽が触れている。


 あたたかい。

 

 瞼に閉ざされた暗がりの中に光が差した。じんわりと視界が光に照らされている。

 ほとんど無意識に、アンシュリーは固く瞑った瞼をゆっくりと開いた。目を数ミリ開くだけでも、チクリと刺されるような痛みが尾を引いている。


 しかし、そんな痛みを忘れるほど、目の前の光景は信じ難かった。世界は眩かったのだ。

 カメラのフラッシュを炊いた瞬間が、連続して起こり続けているかのように、世界は照らしあげられていた。

 蝋燭のような、人が作った光ではない。

 

「—————ジオ」


 石牢に星屑が飛び散っているのを、アンシュリーは確かに見た。

 そこに立っていたのはジオだった。


 その、大きな掌がアンシュリーの腹を抱き上げていた。

 触れる肌から熱が上ってくる。冷めた内臓がゆっくりと温められて、指先に色が帰ってきた。


「アンシュリーさん」


 地下室に星が降りこめていた。

 辛うじて繋ぎとめた意識が見せた幻覚かもしれない。

 しかし、アンシュリーの瞳の中には、間違いなく星が降り注ぎ続けていた。


「一緒にこの狭い島から出ていこう」

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