第14話 地下室の少年

 アンシュリーは、ガリオネ卿に引っ張られて地下室へと下っていた。

 地下には一条の光も差さず、蝋燭の弱弱しい灯がうっすらと足元を照らす。壁も床も、冷たく無機質な石を寄せ集めて作られており、どう歩いても足場がうまく安定しない。

 その上、一歩階段を下るごとに温度を奪われて冷やぐ。最後の階段を降りる頃には内臓まで冷めきっていた。


 最下層の廊下には石造りの檻が並び、中からは地を這うような唸り声が聞こえてくる。狭い地下に、獣の吠える声や石を引っ掻く爪の音が木霊する。どうやら見世物の獣を収めるための場所らしい。

 これから見世物にされる生き物の、声の群像が一塊になって押し込められている。闘技場の観客席には届かない、生きた音だ。

 アンシュリーは下を向いて、努めて自分のつま先だけに意識を集中させた。間違っても前を歩くガリオネ卿を頼ったりなんかしたくなかった。


 くぐもった叫び声が冷たい石の間を縫って大きく響く。アンシュリーはつい視線を向けた。すると、すぐ隣の牢の中で、ハイエナが共喰いをしているところだった。

 体の内部独特の、粘っこくてくすんだ赤が床に垂れている。喰い破られた腸は、石と石の間まで浸みこみ始めていた。


 アンシュリーは頭を振りかぶって急いで目を逸らしたが、心臓はばくばく叫んで騒いだ。考えるなと念じても、その光景は瞼にこびりついて離れない。

 痩せ細ったハイエナの、薄汚れた毛並みや生気のない目。あの暗い目は、生命の最後の瞬間にアンシュリーを映したはずだ。

 

 そう思い至った途端に胃液がせり上がってくる。嫌悪でも恐怖でもない、その正体は罪悪感に近かった。


 ガリオネ卿はそんなこと気にも留めず、鼻歌交じりにさっさと進む。まるで、ここには何者もいないかのようだ。どうしてここまで無関心になれるのか、アンシュリーは甚だ理解できなかった。

 その上、さっきまでの激昂ぶりが嘘のように落ち着いた足取りである。この男はいつでもそうだった。機嫌の上下がひどく激しいのだ。突然に温厚になったり、突然に怒鳴り散らしたり、嵐のようで忙しない。


 そのまま歩き進めると、ガリオネ卿は一際巨大な石牢の前で足を止めた。

「アンシュリー、ご覧」

 例の甘ったるい声だった。好々爺のような声色でさえある。暗く静かな地下とは不釣り合いな、上機嫌な声だ。

 アンシュリーは警戒しながらも、恐る恐る檻に顔を近づけた。

 その瞬間、巨大な牙が勢いよく檻に食らいついた。アンシュリーは咄嗟に仰け反った。眼前には、視界一杯に巨大で獰猛な牙が音を立てて勢いよく打ち付けられている。子供の頭なんて軽々と喰い千切ってしまえそうな牙だ。

 寸でのところで仰け反ったが、ほんの少しでも触れていたらどうなっていたか分からない。尻もちをついたまま、アンシュリーは震えあがった。

 血よりも赤い舌が、獲物を確認するようにして檻をべろべろと舐め回していた。荒い鼻息がふぅふぅと熱風になって吐き出されている。そうして、ようやく獲物を捕らえられていないことに気が付いたのか、不機嫌そうに一声吠えた。


 石牢の中では、口に収まり切らないほどの巨大な牙を生やした虎が、悪鬼の形相でこちらを睨みつけていた。石のそこかしこが削れており、爪や牙の研ぎ跡がこれでもかと刻まれている。

「…プーシェ島の火山虎…。ガロン島にはいないはずだ」

 アンシュリーはへたり込んだ足を震わせて、ようやく口を開いた。冷たい汗が背中を滑り落ちていく。

「物知りだね、アンシュリー。取り寄せたんだよ、本当は10匹買ったんだけど、9匹は海に沈んだらしい」

 ガリオネはアンシュリーの頭を分厚い手の平で撫でた。指輪が髪に絡まって痛い。

 見上げて睨みつけるが、その抵抗は弱弱しく滑稽でさえあった。アンシュリー自身もそれを自覚していた。

 たった一人の子どもに、この地下室で何ができようか。しかし、意識的に何かをしなければ、アンシュリーは心を保つことができなかった。

 それでもアンシュリーは懸命に、敵意と侮蔑を込めてガリオネを糾弾し続けた。

 心まで囚われるのだけは、絶対に。

 真珠層のように絡み合う光が、奴隷の少年の瞳の中で息をしながら渦巻いた。

 それこそが、この暗い地下で唯一の色彩だった。

「ところでね、ジオの次の相手を迷っているんだ」

 アンシュリーの瞳から、ふっと光が揺らいだ。蝋燭の火が風にくゆるように。

「それで、どうだろうか。プーシェ島の虎は世界で最も獰猛で強い生物だと名高いだろう?」

 アンシュリーは呼吸も止まるほどに息を詰めた。

 ガリオネの口が開く度、粘っこい唾液が上下の歯を繋ぐのが見える。

「それにね、ジオの槍にちょっとしたプレゼントをあげたんだよ。久しぶりに戦うとなると刃こぼれも気になってね。切れ味がよくなるようにいい油を塗ってやったんだ。火山虎が大好きな油なんだけどねぇ」

 ガリオネ卿は、その後も何事か言葉を続けた。

 

 しかし、アンシュリーにはもはやそれを認識することはできなかった。

 少年は、ただ、ジオの傷跡を思い起こしていた。首にぐるりと回った傷跡、肩や胸につけられた焼きごての跡、胸から下へまっすぐに振り下ろされた深い切り傷。


 ふとした時に現れる、へつらうような卑屈な目。


 アンシュリーは縋るように天井を見上げた。が、星なんて見えようはずもなかった。暗い石造りの天井が、アンシュリーをきつく押し込め、見下ろしているだけだった。

「アンシュリー、語りなさい」

 とどめを刺すように、ガリオネ卿は少年に言った。

 少年はやがて口を開いた。虹色の瞳に宿っていた光は、いまにも消えそうなほど弱弱しかった。

「ガロの話が聞きたいなぁ、何しろここはガロン島、誇り高いガーデル人の島だからね」

 舌の根まで乾いたまま、アンシュリーは口にした。

「ガロの書」

 心臓が縮こまっている。

 指先は冷え、身体は所在を失っている。


「第1章」


 アンシュリーは、とうとう語り始めた。

 それは、リリアナの掟に背くことだった。

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