第5話




「まだライラちゃんが生まれた時は、他の兄弟の皆も含めて、お世話するだけの余裕が私達に無かったんです。恥ずかしい話ですが……なのでSNSを通じて、里親さんになってくれる方を呼びかけました」


 早瀬さんは申し訳なさそうに視線を落としながら、ぽつぽつと語る。


「当時はこの子の親に、去勢手術を受けさせておくべきだったのかも知れないと、ほんの少し、後悔もしていました。飼い主である私が管理しきれない事を、他の人へと丸投げするのは……あまりにも無責任だったんじゃないかって」


 一旦そこで言葉を区切ってから、彼女は「けれど」と継ぐ。

 私の部屋をゆっくり見回してから、やがて視線は変わらず部屋の隅から視線を注ぐ、ライラの方へと戻る。それから柔らかく微笑みかけた。


「篠垣さんは時折、ライラちゃんの姿をSNSに上げていました。この部屋を見ても思います。ライラちゃんと篠垣さんが出会った事を、否定してしまうのは……ダメだなあって」


 今この瞬間まで、私の心には黒い靄が立ち込めていた。まるで霧が晴れるように、早瀬さんの言葉で、音もなくそれは失せてしまった。沈黙する部屋の中で、早瀬さんの言葉だけが浸透してゆく。


「幸せそうなんですよ。カメラ越しの、ライラちゃんが、いつも。あとで大家さんにもお見せしますね」

「あらやだ、気になるわね……ぜひぜひ、見せてね」


 それまで早瀬さんの言葉に頷きながら沈黙を守っていた大家さんは、急に口元へ手を当ててそわそわとし出す。

 早瀬さんは仕方ないとして、知人にSNSのアカウントを知られるのは気恥ずかしい心持ちがあるのでやめて欲しい……という気持ちもあったが、悲しきかな今の私はそれを止めるべく口も無い。


 ……──幸せそうだったと言ってくれるのか。


 それを無かった事にしなくていい、という言葉が、私にまとわりついた重りを事も無さげに取り払う。きっと私に身体があれば、その場で膝から落ちていただろう。

 私とライラは出会って良かったのだと、そう思わせてくれた。きっと私に身体があれば、涙を流していたのかも知れない。

 今はただ、心の内へ集まって収束していくような安らかさと共に、早瀬さんの言葉へと耳を傾ける。ありがとう……と伝える事はままならないから、祈りに似た想いを湛えて。

 早瀬さんはライラに向き合ったまま、今度は真面目な表情で語りかける。


「ライラちゃんにとっては環境も変わるし、篠垣さんがいなくなって辛い事ばかりだと思う。けれど、だからこそライラちゃんは生きなくちゃいけないんだ……この先も」


 早瀬さんも、泣きそうなのを必死で堪えているように見えた。


「だから……身勝手で本当に申し訳ないけれど、また私達と一緒に暮らして下さい。今なら、ライラちゃんを護っていくだけの準備もあるから……」


 ライラに深々に頭を下げながら、それを言い切った辺りで、ついに早瀬さんは限界を迎えた。

 頭を下げたまま嗚咽を噛み殺し、絨毯へと雫が落ちる。

 早瀬さんは再び顔を上げ、涙を服の袖口で拭いながら続ける。


「篠垣さんが……護り続けてきた命を……どうか私に、繋げさせて下さい」


 誰も言葉を発しない。大家さんも、無論ライラも何も言わずに見守っている。

 当たり前だが、人と猫の間で、言葉のやり取りは出来ない。

 だからこれは無駄な事だと、果たして言い切れるだろうか。

 猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢いのだから。それを知っているからこそ、彼女は彼女なりに、ひとつの魂ある命どうしとして誠意を尽くそうとしている様に見えた。

 もちろんライラは表情を変えることも、異議を唱えることも出来ない。

 ただ身体を丸くまとめて縮こまっているだけだ。


「きっと今からすぐにはライラちゃんも困っちゃうだろうから、連れて行くのは明日にするね」

「そうねえ……明日だったら私も空いているし、今日は一旦お開きにして休みましょっか」







 大家さんと早瀬さんが去ってから、部屋はまた漆黒に包まれた。

 エアコンが吐息を響かせ続けるだけの、無情なまでの静けさが時を送り出していく空間に、再びライラは置き去りにされている。

 ライラは基本的に、夜はリビングのソファへと陣取って眠る。もちろんゲージには、小さくもふかふかな絨毯を敷いて、寝床になるよう考えてはあるのだが……どうもそこがお気に入りらしい。

 朝になって起きてみれば私の布団へ潜り込んでいたりする事もしばしばあったが、基本的にソファが彼女にとって不可侵の陣地だ。


 しかし今日は珍しく……大家さん達が去ってからしばらくした後、ライラはおもむろに私の寝床へと向かい、そこに腰を下ろした。

 今日はまるで私を呼ぶように鳴かない。代わりに私の布団を小さく可愛い肉球でこねながら、一心不乱に喉を鳴らし始める。まるで一生懸命に、親猫へと甘えるような姿だ。


 私はライラにとって、一端でも親で在れただろうか。

 たとえ腹を痛めて生んだ子でなくても、彼女にとっての親で在れただろうか。

 ほんの少しでも、彼女を幸せに出来たのだろうか。

 人同士ですら、心根は分からないのだ。それに応えるべく誰かも居る訳がない。

 けれど今、私の本心だけは分かる。


 ──ライラ、私は君が居てくれて幸せだったよ。


 初めてこの部屋へと来てくれた日、抱き寄せて耳へと胸元を当てた時に聞いた、君の鼓動。命がここに生きていると実感した瞬間を、決して忘れはしない。

 君が必死でミルクを飲む姿も、カリカリを食べる姿も、微笑ましく見守ったものだ。

 疲れ果て残業から帰った時も、不貞腐れたように素っ気ない態度の君を見て、疲れも忘れて慌ててご飯を用意したものだ。

 一番最初のお気に入りだった、ネズミを模している毛玉がついた玩具は、件のネズミちゃんが取れちゃって壊れちゃったね。実は、あのネズミちゃんは今も押入れの奥に隠れているんだ。

 君が休日の朝日を浴びる姿は、どうしようもなく背中を撫でたくなるんだ。君は訝しげな顔をするけれど、僕の手の平から逃げようとはしない。小さな鳴き声を上げて、目を細めながら頭を撫でさせてくれる。

 ずっと、ずっと私を見守ってくれていたね。

 そのお月さまのような、透き通った真っ直ぐな瞳で。


 ライラも身体を丸くして眠り、夜は更けていく。

 死んでしまった事は悲しい。けれど私の人生は決して、不幸ではなかったよ。君という家族と共に過ごせた人生は、決して不幸なんかじゃあなかったよ。

 だからライラも、今は悲しくても、どうか私の分まで命を繋いで欲しい。そして、いつでも見守っているから……ひとつでも多くの幸せな笑顔で、その人生を満たしてくれ。

 心のなかで繰り返す。月明かりに照らされ、音も立てずに呼吸を紡ぐ、私にとってかけがえのない命へと向けて。愛しい気持ちを、どうかひと欠片でも贈ることが出来るようにと、暗い部屋の中で祈りながら見守る。

 私はもう、救われたから。







 死者が生者へ想いを託す事ほど、残酷な事は無い。


「さてと……ひと通り運び終わったねぇ」


 ライラが愛用していたソファの毛布や、ケージにトイレ、カリカリを入れる器など、結構な数はあったと思う。ひと通りを旦那さんの運転する車へ運び終えてから、早瀬さんはライラに語りかけた。

 リビングには、まだ午前の穏やかで、少し暖かい陽が差している。

 早瀬さんの隣には、大家さんがどこか寂しげな微笑みで佇んでいた。


「それでは」


 早瀬さんがおもむろに放った言葉で、大家さんも彼女へと向き合う。


「ライラちゃんは、私が責任を持って、連れて行きます」


 早瀬さんは深々と頭を下げ、大家さんもそれに応じる。

 頭を上げてから、大家さんは何度か頷いて、名残惜しげに言う。


「篠垣さんの分まで幸せにしてあげて頂戴ね」

「……ええ、ええ! 勿論です……!」


 ライラは玄関先に居て、早瀬さんと大家さんのやり取りを見守っていた。

 そして早瀬さんがライラを、持参していたペット用のリュックへと誘う直前の出来事である。

 ライラは賢い子だ。今日の受け渡しが終わる時も、こうして自ら玄関先に──意図しているのかいないのか、分からないが──ちゃんと待機している。

 けれどライラは部屋の奥の方へと向かって、確かに一度だけ鳴いた。




「にゃあん」




 程なくして、ライラの姿に戸惑っていた早瀬さんが、苦笑しつつも代弁した。


「……まるで『行ってきます』って……言っているみたいですね」


 この部屋にはもう、誰もいない。

 けれど大家さんも早瀬さんも、私が在る方へと向かって深々にお辞儀した。

 それから早瀬さんはライラを柔らかく抱きかかえ、ペット用のリュックを、ジッパーを開き中へと誘った。ライラは一度だけ部屋の方へと振り返ったが、恐る恐るリュックの中へと頭を滑り込ませる。

 それからリュックに誂えられたプラスチック製の窓から、部屋の中を……或いは、見えないはずの私を見つめていた。

 ライラと見つめ合いながら、私は祈るように、声にならない声を返した。


 がちゃん。と。

 黒いドアが閉じてから、大家さんによって鍵の閉まる音が響く。

 部屋には、リビングから朝日が差し込んでいた。音もなくフローリングを照らしている。


 死者が生者へ思いを託す事ほど、残酷な事はない。

 託された者は、その思いをも背負って生きていくしか無いのだから。

 だからせめて君が生きている限りは、きっと見守っているよ。


 私と出会った事を、無かった事になんて出来ない。

 それでも良いから、どうかこれからも生き続けて下さい、ねえ、ライラさん。


 そして君が永く疲れ果てるような歩みを終えた時は、暖かな日だまりの中で、君を撫でよう。そして隣で、寄り添っていよう。それまではいつまでだって待っていてあげるから。

 いつまでだって待っているから、焦らずに、ゆっくりと生きるんだよ。


 閉じた玄関のドアを名残惜しく眺める。

 それから私の視界は、瞳を瞑るように閉ざされてゆく。朝日が夜の闇を溶かしていくように、陽光が照らす空へと沈んでいくように、私の意識は撹拌されてゆく。

 そこに絶望は無かった。

 ただ意識が消える間際に、君がこれからできるだけ多くの楽しい事、嬉しい事、幸せな事に出会えるよう願っていた。

 そして黒いドアが閉じる直前の、私が声にならずとも祈るように想った言葉を、繰り返す。


 ──いってらっしゃい、ライラさん。




死んだ私とライラ・了

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死んだ私とライラ 緑川蓮 @viridis0921

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