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 自転車で移動するのは久しぶりだ。もう少しサドルを上げても良いかと思ったが、面倒なのでそのまま跨がる。使う分に支障はないし、また今度の機会に調整すれば良い。

 幸いなことに、今日は追い風だ。風を受けながらペダルを漕ぐのは心地良い。畑の側を通ると、つんとした堆肥のにおいがする。こういったにおいを臭い臭いと言う同級生は多いが、俺はあまり嫌いじゃない。この前仙台に行ったばかりだから、余計に地元だなあ、という気持ちになる。

 晴れているからか、田んぼに張った水がきらきらと反射している。青々とした稲は見慣れたものだけれど、これがいずれ自分の知る白米になるのだと思うとなんだか感慨深くなる。必ずしも自分の口に入るとは限らないが、無事に育ち実ることを願ってやまない。何様なんだって感じだけど。

 そんなこんなで、俺は無事待ち合わせ場所までたどり着いた。申し訳程度の遊具が設置されている、小さな公園。そこには既に宝井の姿があって、俺は駆け足で自転車を押しながら彼女のもとに近付いた。


「早いんだな、宝井。待たせたならごめん」

「おはよう、磐根君。そんなに経ってないから大丈夫。むしろ休憩できて助かった」


 宝井はちょうど水分補給をしていたようで、自転車の籠に水筒を戻しながら答えた。青葉城址を訪れた時と同じように、宝井の首筋には汗が伝っている。あの時よりも暑くなったから、今回ばかりは俺も水を持ってきた。家を出る時は寒いかとも思ったけど、半袖で来て良かった。

 いかにも暑そうな宝井はというと、Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織っていた。あまりじろじろ見るのも悪いとわかっているが、つい視線は腕へ向いてしまう。あの長袖の下にある腕は、今も青黒いままなのだろうか。


「……何」


 案の定、宝井から睨まれてしまった。鋭い眼差しを向けられると、直接的に攻撃される訳ではないとわかっていても身が竦む。

 こういう時、功一みたいに無表情で堂々としていれば話をややこしくせずに済ませられるのだろう。しかし俺はそこまで感情をコントロールできないので、反射的にごめん、と口をついて出た。


「痛そうだったから、気になって。具合は大丈夫なのか?」

「今も痛いよ。でも磐根君が気にすることじゃなくない?」

「それは……たしかにそうだけど。けど、やっぱり心配だよ。来週から体育、バレーだし」

「……磐根君って、普段はびっくりするくらい鈍感なのに、そういうところは気が付くよね」


 はあ、と溜め息を吐き、宝井は先程よりも荒っぽい手付きで汗を拭う。


「憂鬱ではあるけど、バレーならまだまし。サーブさえポカしなかったら、あとはなんとでもなるし」

「そうか? 他にもやることあると思うけど」

「磐根君ならね。でも、私は下手に手を出したら邪魔になるだけだから。必ずやらなきゃいけないサーブが終わったら、気配消して気付かれないように立ち回るの。バスケとかサッカーだと動き回らなきゃいけないからそうもいかないけど、バレーはチームごとにコートが分かれてるでしょ。私としては人の背中に隠れやすいから割と楽」

「頑張るところが違うなあ……」

「そりゃそうだよ。私は磐根君みたいにスポーツ得意じゃないから、ちょっとのミスでも目を付けられるの。サボってるんじゃなくて、責められないように配慮してる訳」


 本当は試合したくないんだけど、とこぼしてから、宝井は自転車に跨がった。公園で延々と駄弁っているつもりはないらしい。

 目的地──呉井璃左衛門の墓までのルートは確認したものの、正確に覚えているとは言い難い。ここは宝井の先導に付いていくのが良さそうだ。

 以前仙台で出くわした時と同様に、宝井は髪の毛を下ろしている。肩口に届く長さのそれは、風を受けるとふわっとなびく。その度に汗の浮かぶうなじが見えて、何故か俺のうなじもざわざわとする。

 自転車に乗っている宝井の背筋はぴんと伸びている。何となく猫背のイメージがあったけれど、こうして見るとお手本みたいな姿勢だ。剣道では正座する機会も多いというし、知らず知らずのうちに矯正されている──なんてこともあるのだろうか。


「宝井はさ、好きなスポーツとかってあるのか?」


 無言で自転車を走らせているのもなんだかなあと思ったので、真っ直ぐ伸びた背中に向かって問いかける。当たり障りのない質問を選んだつもりだけど、答えをもらえるか若干不安ではあった。


「あると思う?」


 幸いなことに無視はされなかったが、お世辞にも機嫌の良い回答と言えるものではない。ずっと背中を向けられた状態ではあるけど、きっと宝井は笑っていないだろう。


「ないってことはないだろ。体育の授業だけが運動する機会って訳でもないし」

「まあ、それはたしかに。そうだなあ……泳ぐのは結構好きかも」


 お互いいつもより声を大きくしながら受け答えする。ない、の一点張りで会話が終わらなくて良かった。

 梅雨時の体育は屋内でできる競技をすることになるが、梅雨が明ければ間もなくプールが解禁される。俺としても、暑い中泳ぐのは好きなので、早く水泳の授業が始まって欲しい。次の授業で眠くなるのだけが困るけど、致し方のないことだ。せめて手を動かすことの多い科目が回ってくることを祈るしかない。

 それにしても、宝井が水泳を好ましく思っているのは驚きだった。少なくとも児備嶋の女子はプールを嫌がっているのが多数派なので、女子は水泳の授業を嫌がるというイメージが縫い付けられてしまっていた。


「宝井、水泳好きなのか?」


 会話を途切れさせたくないので、続けて問いかける。同じような質問ばかりで呆れられないだろうか。


「どちらかと言えばね。でも、すごく好きかって聞かれたら返事に困る。正直、あのクラスでやるってなったら、何しても楽しくないし」

「楽しくない、のか」

「だって、何かミスをしたり、手際よくできなかったりしたら、一斉に責められるでしょ。単純に走ったり泳いだりだったら、個々で完結するからまだ良いけど……チームプレーになると、責任を追及される。ろくにやり方も教えてもらえないで、試合までほったらかしなのに。教師も生徒も、サポートなんてひとつもしないくせに、こっちの責任ばかりあげつらうじゃない。それが、すごく嫌」


 そんなことない、とは言えなかった。返答に困り、俺は口をつぐんでしまう。

 たしかに、体育の授業では準備体操が終わると、特にこれといった説明もなくグループごとの練習が始まる。基本的なルールややり方は知っているのが前提なのだ。体育教師の伊藤は良く言えば──良いのかどうかはわからないがオブラートに包めば──放任主義、悪く言えば責任感に欠ける。よっぽど大きな怪我人でも出ない限りほったらかしで、その上大層な気分屋だ。ちょっとしたことで不機嫌になって授業を放棄し、学級委員が職員室まで謝りに行く──なんてことも少なくない。

 宝井のようなタイプにとって、伊藤とは非常に苦手な部類に入るのだろう。運動神経が良い生徒には甘いのに、真面目にやっているが運動はあまり得意でない生徒にはできないというだけできつく当たる。俺はどうかと思うけど、クラスメートの大半はそんな伊藤の気質を受け入れているようなので、これまで問題として取り上げられたことはない。

 宝井が心から体育の授業を楽しめる日は来るのだろうか。我ながらとんだお節介だが、考えずにはいられなかった。せめてどこかで、宝井が報われて欲しい。具体的にこう、とは言えないけれど──なんだか、不公平な気がする。


「バレー、バレーかあ……。練習、しとかないとな。モルテンだったら良いんだけど」


 そんな俺の胸中はさておき、宝井は何やらぶつぶつ言っている。独り言なのだろうけれど、何となくスルーする訳にもいかず、モルテン? と疑問を投げ掛ける。


「ああ、使うボールのブランドの話。赤と白と緑のボールの方ね」

「そういえば、二種類あったよな。青と黄色のがミカサだっけ」

「そっちはわかるんだ」

「皆色違いのバッグ持ってるから。それよりも、なんでモルテンの方が良いんだ?」

「うーん、気のせいかもしれないけど、そっちの方が腕に当たった時痛くないんだよね。ミカサのボールの方が硬いイメージあるから、手負いの身には堪えるなと」

「本当に主観だな……」

「だから言ったじゃん、気のせいかもって。まあ、どっちを使おうが、私の運動神経は変わらないんだけど」


 相変わらず宝井は言葉のチョイスが独特だ。手負い、なんて学校生活でなかなか使わない単語だと思う。

 ボールの硬い柔らかいの話はさておき、だ。先程の独り言で気になった点も聞いておかなければならない。


「そういえば宝井、練習するとか何とか言ってたけど、一人でするのか?」

「は? 当たり前でしょ」


 タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど赤信号にぶつかったので自転車が止まる。そのまま宝井はこちらを振り返り、お馴染みの刺々しい視線を向けてきた。今にも舌打ちしかねない不機嫌そのものといった顔つきである。


「磐根君だって知ってるでしょ、私に友達はいません。一人以外の選択肢があると思ってるの?」

「そ、そういうことを聞きたかった訳じゃなくて……。どうしてわざわざプライベートでまで練習するのか気になったんだよ。自主トレなら、練習時間にできなくもないだろ」

「……迷惑かけたくないんだよ。それに、いちいち槍玉に挙げられるのもしんどいから。できることからやって、嫌な思いしないようにしようかと思っただけ。何もしないまま文句だけ言うのって、おかしいでしょ」


 信号が青に変わったので、宝井はさっと前を向いて再び走り出す。俺もその後を追いかけながら会話を続ける。


「宝井、そういうとこ真面目だよな。隠れるとか何とか言ってた割に、練習はやるんだ」

「周りからは何かと真面目にやれって言われてるけどね。私にできる範囲なんてたかが知れてるけど、それでも何もしないよりは良いかと思って。一応やってるって体にはなるし」

「理由はどうあれ、得意じゃないって思ってることに自分から取り組もうとする姿勢はすごいよ。宝井は努力家なんだな」

「努力家じゃないよ」


 間を置かずに返ってきた言葉に、俺は目を瞬かせる。

 努力家じゃないと宝井は言うけれど、俺から見た彼女は誰よりも努力家で頑張り屋だ。そうでなければ、他人に迷惑をかけたくないという理由でやりたくないことに手を出そうとはしないだろう。少なくとも、俺は宝井以外にそういう奴を見たことがない。

 反論したい気持ちがない訳ではなかったが、どのように言い表したものかわからずに俺は黙り込む。そうしている間に、宝井が再び口を開いていた。


「満足がいくまで努力したら、自分はこんなにやったから大丈夫だって確信できるはずなんだ。でも、私はいつまで経っても自分を信頼できない。絶対上手くいくなんて思えないし、いつもどこかに失敗の可能性があって、プレッシャーを感じずにはいられないの。それって努力が足りないからだよね」

「そんなことは……」

「そんなことあるよ。私の頑張りは質も量も足りてない。いつまでも失敗を怖がって、自分を信じられないうちは、努力家なんて言えない。こんなだから皆の前で弱いところを晒してる。……どうにかして変わりたいと思ってるけど、思うだけじゃダメだよね。全部、私が至らないってだけ。違う?」

「……じゃあ、さ。宝井は、どういう風になりたいんだ? 宝井の目標とする自分って、どんな感じ?」


 ぴくりと、前を走る宝井の肩が跳ねる。キッ、と短く音を立ててブレーキをかけ、彼女は一時停止した。俺もペダルを漕ぐ足を止め、黙して返答を待つ。


「……誰にも弱みを見せない、自分の力だけで欲しいものを手に入れられて、どんなことがあっても意志を曲げない、強い人。それが、なりたい自分」


 周囲に走る車はなく、風と鳥の鳴き声くらいしか音はない。そんな中だからこそ、聞こえた言葉だった。

 一度もこちらに顔を向けることなく、宝井は再び自転車を走らせる。それから目的地に到着するまで、彼女が言葉を発することは一度としてなかった。

 

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