誠実 二〇二〇年 八月九日 ②

 ジョッキを当てながら、俺たちの声はよく通った。

 飲み会の楽しさ自体はいつもと変わらなかった。話のネタが尽きても適当に騒いでいるだけで楽しいということがどれだけ貴重か、噛みしめなくてもわかっている。じゅーじゅー、この肉焼けた、あっついあっつい、飲み物足りねー。肉とタレの匂いと油が跳ねる音と拓実たちの笑い声で、全てを埋め尽くす。ここには見えない怖さなんてものは、存在しない。

「まじであの面接官意味わかんねー。『小山さんは、御家族や御友人からどう思われていますか?』じゃねーよ!面接終わる前の逆質問で『じゃああなたの奥さんはあなたのことをどう思ってますか』って訊いてやりたかったわー!どうせ落ちるんだったらあの山羊みたいな顔、真っ赤にしたかったわー」

「なあ!」と大樹に訊くと、「おう!」勢いよくジョッキを置いた。男にしては少し高い声が上がると小型犬みたいで面白かった。

「俺の時なんか一番最後に『あなたを色でたとえてください』って言われて答えられなかったら、パソコンがフリーズしたのと勘違いされたわ」

 拓実は俺たちの話に手を叩いてずっと笑っていた。

「ははっ!言ってやればよかったやん!僕は真っ青です。何故なら今、あなたの質問で顔が青くなったからです」

「真っ赤の間違いだろ!隣で見てたけど、終わった後は茹で蛸みたいだったぞ」

 今日のこともよくある失敗として、酒と笑い声で全部一緒に流してしまえと思った。

「健太郎大丈夫かー?トイレ行くか?」

 終わる頃にはすっかり潰れかけていた。

「酒弱いのは相変わらずやな」

「大丈夫。歩けるから、立たせるまで手伝って」

「俺やるわ。拓実、会計よろしく」

 最近筋トレ始めたんだよね、と元基が楽しそうに姿勢を正して上腕筋を見せつけてきた。というか、隣から毎日トレーニングの声が漏れてくるんだよ。しかも、大樹も一緒になってやってるし。大樹は大樹で俺と同じかそれ以上に酔っていた。立ち上がって元基に言った。

「俺はもう歩けるから、大樹の方見てやってよ」

「ん、わかった」

 店を出ると夏の夜の空気が肺を満たす。俺たちのいた店は出るまで満席になることはなかったし、外を見渡しても人通りは寂しかった。

「久しぶりに飲んどったな!」

 隣に来た拓実が顔を真っ赤にしながら声を上げた。部屋の中でもへらへらしてて声の高い拓実だが、今は声量も店にいるときより大きかった。後ろには五メートルくらい空いてふらふらの大樹と、それを支える元基が付いてきていた。

「これすると蒸し暑くてかなわんな」と拓実はマスクを指す。夏の夜は気持ちいいくらいなのに、鼻の下はもうぽつぽつ汗をかいていた。俺は顔の下半分を覆う不快さに、諦めのため息を吐いた。

「仕方あらへんな」

 今年に入って、拓実の口から一番聞いた言葉かもしれない。舞台が中止になった時も、拓実は困ったように笑って、同じ言葉を吐いた。同じことが四ヶ月続いて、拓実はその度に言って、部屋のテレビで映画を観た。

仕方がないと、誰もが言った。誰のせいでもない。だから、対面授業ができなくて人に会えないのも仕方がなくて、留学が中止になるのも仕方がなくて、大樹や元基のところも含めたほとんどのサークルの活動が自粛しているのも仕方がない。

「しゃーないよな」

 だからこうして嫌なこと忘れて四人で飲んだのに、見えない怖さがいつだって近くで首筋を撫でる。

 拓実が見上げた渋谷の空は、真っ黒な雲に沢山の光をかき混ぜていてとても明るい。上京してきた時は明るすぎて、夜がないと思ったくらいだ。帰って風呂入ったらどうせ大樹が復活するから、朝までボードゲームでもやろうと歩きながら思った。

 スクランブル交差点を渡ると、ハチ公前で足が止まった。ここに人が集まるのは全く珍しくないが、プラカードや横断幕を掲げているその集団に目が留まった。彼らの後ろの横断幕や旗には『コロナは風邪』『マスク危険』『密になろう』と書かれており、とても涼しそうな口から唾をたくさん飛ばしていた。

「まだやっとったんか」

 俺にだけ聞える声で、拓実は呟いた。

「何あれ?」

 よく駅前で活動している人とは違う、自分にはまったく理解できない生き物が動いているみたいで怖かった。

「健太郎は渋谷で降りなかったん?」

 降りたには降りたが、人混みを無意識に避けて別口から降りていた。拓実は呆れた様子で「クラスターフェスやろ」と肩を竦め、言葉にすっぽりはまった人たちを俺は少しだけ理解したつもりになった。

「ニュースでやってた人たちね」

「いやいや、寮から三キロと離れてないところで起きてるんやけど。ここ現実ね」

元々細い拓実の目がさらに細まって、マスクが大きく膨らんだ。マスクを鬱陶しそうにつけて歩く人たちも、それ以上の鬱陶しさで彼らを一瞥して、地下に吸い込まれていく。

 ぐらぐら、ひょい。

 前を見ないとぶつかりそうな場所で、横断歩道の白線がまばらに浮かぶ。

 小学校の頃、放課後に遊ぶ約束がない日の帰り道は下校班の友達と道路の白線から出てはいけないゲームがあった。白線の外は溶岩だったり鮫がうじゃうじゃいたりして、とにかく落ちないようにといつもより緊張感のある帰り道だったが、今ではなんでそんな遊びをしたのかとくだらなさが先行する。そう。あの遊びは途中からつまらなくなってくる。地味だし。ズルはするし。白線は途中で切れる。

 けれど、一番冷めるのは、勝手に降りられて、自分たちのやってる遊びがいかにくだらないものかを見せられるときだった。

 やめようぜ。

 あの時と同じように、そんな声が聞こえた気がした。その白線から降りるのは、多分、ゲームと同じかそれ以上に簡単なことだ。けれど、くだらないと、誰が言えるのだろうか。

「外に出ないから実感なかったわ」

「そりゃあそうか」

 きっとほとんどの人も、外には出せない怒りを燃やしている。違うじゃん。違うじゃんって、思っているはずだ。

 拓実はまた仕方がないと言うのだろうか。

「これも仕方がない?」

 俺は顎を後ろに向けて、今も続けていた彼らを指す。少し意地悪をした。俺は拓実の口から「仕方ない」以外を期待しているのかもしれない。もっと言えば、怒って欲しかったのかもしれない。こいつはあまりにも内側で溜め込んでしまうから、それがたとえ処理しきれないものだとしても。

 拓実は「わからん」と首を振り、俺は理由を訊く。信号が青になって前を向いた。横にいる拓実の顔はよく見えない。歩きながら拓実は答える。

「自分の中で百人中九十九人があれはあかんと思っとっても、一人は答が出えへんのや。僕だって夏なのにマスクつけて歩きたくない。劇団のみんなに会いたい。帰省して高校の友達と遊びたい。ゼミの合宿だって山中湖であったんや。それもこれもみーんな、なくなってもうた。それを腹ん中だけでぐっと溜め込めるほど僕はできてへん」

「お前はずっと溜め込んでるじゃねーか」

「映画観たりして適当に発散してるよ。ていうか、今日の飲み会もそうや」

「……そうか」

 俺はそれ以上の言葉が出なかった。

「だったら、あの人たちも同じちゃうんかって思ったんよ」

 渡りきると、拓実は横断歩道の向こう側にいる彼らを指差した。

「あん中にいる人たちでも、前に立って喋ってる人たちと、端っこで旗持ってる人たちじゃ温度が違うと思うねん。一人一人違うねん。じゃあ、その端っこの人と僕がどれだけ違うかって考えて、『わからん』って言ったの」

 俺は拓実の言っていることの全部がわかったわけじゃなかった。大体、目の前にいる拓実と、あの人達じゃ全然違う。

 エスカレーターに乗ると、俺より大きい拓実の靴がずっしりと乗っていた。

「行動に移してる時点で、俺は自分の足の置き場を決めている気がするんだけど」

「そうかもしれへん」

 でもさ、と拓実が片足を一段上に乗せた。

「僕の足は二本あるんよ。で、足って結構遠くまで伸ばせるんよ。そしたら、自分の立ち位置って結構変わってくると思わん?」

 黒いハーフパンツの裾を少し持ち上げ、「ほら。僕の足って長いから」と言うので、頭を軽く叩いてやった。

「いつ終わるんやろうな」

 拓実は俺に向かって言ってはいなかった。でも答えずにはいられなかった。

「誰もわかんねーよ」

 誰もわからないから、不安になる。マスクももうすぐなくなるから早く買わないといけない。値段が下がってればいいけど。

「お盆は実家戻る?」

「お盆が過ぎたらかな」

 親戚の集まりはないが、顔だけ見せろと言われた。

「じゃあ、帰る前にちゃんと今日の飲み代出してな。そうしないと、女装メイクで実家帰らせるかんな。レパートリー増えたから、今度はもっと上手くやったるよ」

 親に返信するため起動させたスマホを、危うく落としそうになった。

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