誠実 二〇二〇年 八月九日 ①

    二〇二〇年 八月九日

    東京都感染者 三三一名


 新型コロナウイルス感染症という目に見えないものが、見えるものまでも変えてしまった。武漢で発見された時も、ダイヤモンド・プリンセス号内で感染者が発見され、横浜で下船できなかったことをニュースで知った時も、自分と自分の周りの現実を、ウイルスが塗り替えていくとは思っていなかった。

 しかし、感染者が日本で十人、二十人と増えて、小中学校・高校が休校となり、大学の春休みが伸びて、バイト先の客が減っていくと、今までとは違うことにようやく気がついた。ゴールデンウィーク明けに始まった大学は原則オンライン講義で行われ、学内のサークル活動は自粛。一回目の緊急事態宣言やオリンピック延期の傍らで、大学生のキャンパスライフはひっそりと踏み躙られていった。

 待ち合わせは、渋谷駅から歩いて数分の焼き肉屋だった。入り口に置いてあったアルコール消毒液に手を伸ばす。相変わらず煙の匂いが鼻につくけれど、充満した人の匂いが強かった冬に比べると、今日はほとんどしない。

「健太郎おそーい!」

 いち早く気づいた拓実が手を振ると、拓実の前の二人が俺の方を向いた。背が小さくて姿勢のいい方が大樹で、大きくて猫背なのが元基だからわかりやすい。四人で食べに出るのは久しぶりだった。「わりーわりー」と適当に返して拓実から注文用のタブレット端末を受け取る。

 大学で初めて知り合ったのが、学生寮で同部屋の拓実だった。そのときの拓実は今よりも前髪がずっと長くて、バンドのボーカルにいそうと思った入学前の俺は「バンドやってるの?」と訊くと声を上げて笑われた。それは田舎から出た俺が、多様な恰好が認められている大学生になりきれていない証拠だった。

 大樹と元基の部屋は俺たちの隣だった。大学になってまでクラスと絡むのがあまり好きではなくて、学部が一緒だった俺たちはすぐに結束した。当時から大樹はおどおどしててチワワっぽかったし、元基は猫背だった。俺は「健太郎はワックスつけすぎ!髪先が松の針みたいになってる!」と言われた。

「お疲れー。彼女?」

 正面の元基が大して興味なさそうに訊いてきて、俺は拓実がビールをあおっている横顔を一瞥した。

「ん~就活の面接。で、多分だめだった」

「え、今の時期からもうやんの?まだ三年の夏だし早くね?」

 公務員志望だからそこらへん聞きたいんだよなー、と元基は軽く笑う。自分が失敗した時、どうしても人に話して楽になりたかったけど、自分がそういう話題を答える時は、相手を選ばなければいけない。そのへん、元基みたいな奴が嫌な顔しないのは、少し声が軽い。

「どーだろ。周りと連絡取ってないからなー。会う機会もないし」

 俺は自分が早いとは思っていなかった。七月に説明会を受けたとき、Zoomの小さい枠に並んでいたのは、間違いなく俺と同じ学年の学生だった。その時はZoom上に大学名と名前の記載が義務づけられていて、同じ大学の生徒は五十人中三人いた。彼らは俺よりもずっと優秀そうで、もしこの場で採用試験が始まったら、受かる自信は全くなかった。

「夏休みだけど、バイトくらいしかやることねーからな。ゼミの先輩もこの時期からやってたし、俺も受けとこうと思ってさ」

 三年の夏。大学に入って二十九月目。二十九回分、俺は自分を塗り替えられていない。

 就活を始めようと思ったのは、先輩に倣ってだけじゃない。塵も積もれば山となると言うが、ゴミは幾ら積もってもやはりゴミだ。高校生の俺は、大学生二十九月目の俺が当時と比べてほとんど成長していないことを想像できなかっただろうし、大学受検に失敗するとも思っていなかっただろう。

 勿論、面接に落ちたせいで、飲み過ぎてしまうことも想像してないはずだ。

「大樹も先月渋谷でスーツ買ったんだよな?」

「うぇっ⁉」

 大樹は驚いて大きく咳き込んだ。大樹の後ろにいるおっさんが睨んだ目と合って、ばつが悪くなった。「まじ?」と拓実に見つめられた大樹は観念したように言った。

「なんで言っちゃうかな」

 自分が就活をやっているのを、周りに見られたくないのだろう。俺も同じことを考えていたから、大樹には同情した。

「別に隠すことでもないだろ。どうせみんなするんだから」

「そうやそうやー」

 スーツを買いに行ったのなら、予定が立ったのだろうか。説明会はほとんどがオンラインなので、スーツが義務化されてなかった。

だが、行くとこ決まったの?と訊くと、大樹は首を振った。

「全然受かんねーの。ESはさ、何個か通ったんだけど、面接で全落ちくらった」

 しょぼれたように項垂れる大樹の表情は本当にわかりやすい。昼飯から何も食べていない胃が唸りを上げる俺の横で、拓実は大きく笑っていた。

「そんくらいでへこむなって。僕なんかまだ何もやってへんし。『俺はみんなよりやってるから!』ってドヤ顔でいてくれへんと、僕がへこむわー」

 へこむな、か。

 拓実は舞台などでメイクの手伝いをしていたが、今の状況では講演するのが難しく、舞台がない間はかなり気落ちしていた。代わりに部屋で動画配信サービスを利用する時間が増えたり、寮の調理室を借りて昼飯を作り合ったりしていた。元から拓実には開演が近づくにつれとそわそわすることがあり、その気持ちを落ち着かせるために、前日は腰をどっしりと落ち着かせて映画を観るという俺たちのジンクスがあった。拓実は「一人だと飽きやすいから」と、俺を置物のように隣に座らせる。

 舞台を再開する話が拓実に来たのは、今週のことだった。

「本選考よりインターンは通過するの大変だから、今通らなくても大丈夫だって先輩も言ってたしあまり気にすんなよ」

 俺は大樹だけではなく、自分にも言い聞かせたつもりだった。

「マジか!失敗してもいいんだったら、なんかやる気出てきたわ!」

 大樹の声に元気が戻ってきた。犬に餌をやるみたいに、反応がわかりやす過ぎる。そこへ若い女性店員が飲み物をもってきた。

「お待たせしました!生ビール四つ!」

 いつもの店、いつものビール、だけどテーブルには仕切りがある。乾杯をするために真ん中が切り抜かれていた。

「じゃあ、健太郎もきたっつーことで、もう一度乾杯!」

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