第17話 不在の水底

 

 目を覚ますと、其処にはいつもと変わらない暗闇があった。

 清潔な香りがするベッドは柔らかく、シーツに頬を押しつけたままぼんやりとしたフィーネは、静かに呼吸を繰り返すと、ゆっくりと上体を持ち上げる。


「アステリアス?」

 

 眠る前、彼はベッドの側の床に座り込んで眠っていたが、部屋の中に姿はない。

 この場所はメイシアの魔法で外からは開かなくなっているけれど、内側から開けてしまえば魔物達に襲われてしまう確率は格段に高くなる。

 オブリクアのように、狂気に満ちていて誰彼構わず傷つけたがる魔物ならば、直ぐにその気配を嗅ぎ取って近づいてくるだろう。

 考えて、背筋がぞくりとするのを感じ、フィーネは急いでベッドから飛び降りる。


「アステリアス、何処にいる? ……っ、アステリアス!」


 慌てて部屋を飛び出し、廊下を走りながら彼の痕跡を探そうとするが、焦りからか、一向に思考がまとまらない。

 どうしよう、どうしようどうしよう。

 彼に何かあったなら。彼が傷ついていたなら。彼がこのまま消えてしまったなら。

 考えれば考える程、泥濘に足を取られていくように身体が重くなっていく。

 呼吸すら覚束ず、次第に息が荒くなっているのに、指先や足先から体温が奪われるように冷たくなっている。

 今までこんな事は起きなかったのに。

 震える手を押さえて立ち止まると、眼の奥が熱くなっていて、視界が滲んでいた。

 何かが少しずつ、確実におかしくなっている。

 身体の中を今までとは違う何かに作り変えられているようだ、と瞼を閉じ、息を整えていると、不意に頭に鋭い痛みが走って、視界が一瞬、真っ白に、なる。

 遠い遠い廊下の向こう。手を伸ばす誰か。一面に広がる真っ赤な、何か。

 両手で頭を抱えるように蹲り、頭の片隅でじりじりと焼き付いてしまいそうな痛みを堪えて、目の前に走る記憶を見つめていた。

 全てを押し流すかのような雨の音。真っ赤に染められた世界。伸ばされた無骨な指。手にした白銀の短剣。暗く澱んだ森の中。

 誰かが呼んでいる声がする。

 そう、誰かが。名前を。誰かの。彼女の。私の。



「リーニエンフィ、」



 弾かれるかのように顔を上げ、フィーネは音にならない悲鳴を上げた。

 涙が勝手に溢れてくる。息が荒くなり、胸の鼓動が驚く程早い。

 足元から得体の知れない何かが這い上がってくるかのような気持ち悪さに、フィーネはその場に崩れ落ち、地面に蹲った。

 今のは、一体、何なのだろう。

 見たくもない、聞きたくもない、思い出したくもない、言いようのない恐怖心に、全身の震えが止まらない。

 此処に来る以前の記憶なのか、それとも、グラムストラに拾われた時の記憶なのか。


「……、アステリアス、」


 暗闇に、思わず彼の名前を呼んでも、応えは返ってくる事はない。

 まるで、一人きりみたいだ。

 考えて、真っ白になるまで手のひらを握り締め、フィーネは瞬きを繰り返す。

 冷たい床は、自らの体温で少しずつ温くなっている。

 何も知らなかったら、こんな恐怖も知らなくて良かったのに。

 そう思いながらも、きっとそれが出来たとしても、今更その選択をする事はないだろう、とフィーネは頰を濡らしていた涙を、そっと手で拭った。

 守りたい、と思えたのだ。

 その理由は、今の自分にはまだ理解できないけれど、それは確かに、今までとは違う、自ら選んだ一つだ。

 それが、自分の願いなら。

 怯える自らを叱咤するよう頭を振り、大きく息を吐き出して立ち上がると、フィーネは再び廊下の向こうを目指して走っていく。


 暫く全ての部屋の扉を開け、アステリアスを探していたが、痕跡ひとつ見当たらず、見慣れた部屋の前へと辿り着いていた。

 静かに扉を開ければ、其処には猫足のバスタブがひとつ、置かれている。

 いつもと変わらない海の香りに、フィーネはそっと息を吐き出して、部屋の中央へと足を向けた。

 無数の腕が蠢くように揺れていて、ごぽりと泡が浮き出てくると、腕の隙間から長い髪の女が顔を出している。


「嗚呼、可愛い子」 「可哀想な子」


 クエラドはフィーネを見ると、慰めるようにその無数の腕の中からそのひとつを彼女の頬へと押しつけた。

 走り回っていたので、いつもより少し冷たく感じる水の温度と、静かなさざなみにも似た声音に安堵して、フィーネは胸底に押し込めていた息を吐き出した。


「クエラド。アステリアス……、此処に連れてきた人間を知らないか?」


 問い掛けに、彼女は金色の瞳でじっと見つめ返している。


「可愛い子、どうか泣かないで」 「泣かないで」

「大丈夫。私は泣いてないよ」


 いつもとは違う自らの様子を、クエラドはきっと感じ取ってしまったのだろう、とフィーネは考えて、眉を下げて笑った。

 彼女は感情を露わにする事はないけれど、いつもこうして身を案じて擦れている。

 クエラドはバスタブから生える幾つもの腕を蠢かせ、はっきりとしないのに、反響する、不思議な声で、言う。


「嗚呼、始まってしまう」 「終わりが来てしまう」


 始まりと終わり。

 それが何を意味するのかわからなくて、フィーネは口の中でその言葉を転がした。

 何が始まって、何が終わるのか。

 わからないけれど、金色の瞳は静かに見つめ返している。


「クエラド。一体、何を言っている……? 何かを知っているのか?」


 心臓の鼓動が少しずつ早くなっていく。

 皮膚が粟立つように騒めき、身体が震える。


「可愛い子」 「可哀想な子」

「きっと貴方は選択する」 「世界は貴方を選択する」


 バスタブに満たされた暗闇よりも深い黒色をした液体に、無数の腕が次々と落ちていく。

 まるで終わりのように。


「可哀想な子」 「可愛い子」

「どうか迷わないで」 「悲しまないで」


 そうして最後の腕が沈んでいき、彼女の頭もバスタブの中へと消えていくと、フィーネは縋るように手を伸ばした。

 最後に見えた彼女の表情が僅かに寂しげに見えたのは、この先に起きる出来事を知っているから、なのだろうか。


「クエラド、待ってくれ! クエラド!」


 バスタブの縁を掴み、何度呼びかけても、彼女はもう現れようとはしない。

 その直後、何処か遠くで何かが壊れたような大きな破裂音がして、まるで自分が自分でないかのように、フィーネはその音に怯えて身を竦めた。


「……、アステリアス、」


 胸がひしゃげて押し潰されそうに、なる。

 どうして側にいてくれないの。

 呟いて、フィーネはその場に崩れ落ち、地面に蹲っていた。

 小さく丸まった背中は、頼りなく、震えている。

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