第10話 虚空の瞑目


 暗闇に覗くものなど何ひとつありはしない、というのに、アーチ型に作られた天窓を、その男は静かに見上げている。

 遮る事の出来ない天空の、繋がりばかりは信じたとしても許されるだろうか……、されど孤独である事には違いない、広がるばかりで掴む事の出来ぬそれは、ただただ暗闇に埋め尽くされている。

 まるで祈りのように両手を合わせて握り締めた、アステリアスよりも遥かに背丈の高いその男は、概ね人間に近い容姿をしているけれど、目に当たる部分からは幾つもの角が生え、口からは大きな牙が生えている。

 神に仕える身の上でもないというのに、立ち襟の黒い祭服を身に付け、その背中に生えた骨で出来た羽根を微かに震わせると、フィーネ達が来た事を悟ったらしい、手を離した男——サンセベリアは静かに二人へと顔を向けた。

 サンセベリアは、屋敷の中でも一際高い位置にある、天窓があるこの部屋から動く事はない。

 部屋の中はがらんどうで、中央に石で出来た大きな台座だけが置かれている。

 台座には、細かな模様のようなものが彫られていて、メイシアが言うところには、それは星座、と呼ばれるものらしい。

 フィーネは星座と呼ばれるものを知りはしなかったけれども、アステリアスはそれを見ると、懐かしそうに目を細めて指先でなぞっている。

 台座の隅には、小さな青色の蛙が跳ねていて、指先でその背を押さえ、跳ねるのを止めた蛙が慌ててじたばたと動くのを見たアステリアスは、指を離して再び跳ねるのを眺めて楽しそうに笑っている。

 その様子を見咎めたサンセベリアは、小さな麻袋に蛙を放り込むと、フィーネに手渡していた。

 何も言わずに手渡されたそれに、驚く事はない。

 ミストポルカは全てを須く理解した上で対価を要求するのであり、いつであったか、所詮は子供のお使いですから、と皮肉げに赤く濡れた唇から零したものである。


「それがお前が拾ってきた人間か」

「ああ、アステリアス、という」


 彼の声は沈むように低いのに、滑らかで穏やかだ。

 答えたフィーネは瞬きを繰り返し、残念そうに肩を竦めて蛙の入った袋を見つめたアステリアスに、小さく笑みを零した。

 興味を再び台座に戻したアステリアスが触れる台座に描かれたものは、時間や方角からどの星座が見えるのかわかるものなのだと彼は言う。

 けれど、この場所にある大きな天窓からは、星はおろか月さえも一向に見る事は出来ず、暗闇がぽっかりと浮かんでいるだけで、無用のものでしかない。


「此処、星も見えないんだな」


 アステリアスは天窓に腕を伸ばしすと、ぽつりとそう呟いた。


「星も月も、眩いものは全てこの場所には存在しない。この森に存在する光は“此れ“のみ」


 そう言って、サンセベリアが顔を向けているのを、フィーネは静かに唇を噛み締めて俯いた。

 それは、自らが孤独であるという比喩なのだろうか。

 身の内にある光が何なのかは、今も尚、わからない。

 けれど、その力があるからこそ、アステリアスが自分から離れられないのだろう、という事も、フィーネは理解をしているのだ。


「人間はこの森に入り込むだけで狂気に包まれる」


 そう言うと、サンセベリアはフィーネに問いかける。

 皮膚をひりつかせるような空気に、自然と握り締めていた手のひらが白くなっている。


「そのように籠の中に閉じ込めて、どうするつもりだ」


 名前を与えられて以来、フィーネはアステリアスが側にいてくれる事を快く思っていて、アステリアスもまた、この屋敷から出ていこうとする様子は見られなかった。

 グラムストラや館の中にいる魔物達はその事を一切口に出さずにいたが、人間が一人増えた所で何も変わるわけがない、と考えているのかもしれない。

 アステリアスは黙ったまま二人を眺めると、空を仰ぐように腕を伸ばしている。

 暗闇でしかない夜空へと伸ばされた腕の、その哀れさに、眼を逸らしたのは、一体誰であったか。

 けれど、彼はそれを憐れむ事はなく、優しく笑って手を伸ばしていてくれるのだ。


「此処に居ていいのなら、俺は此処に居るよ」


 それが望まれたが故の願いなのか、願いそのものを彼が望んだのかは、解らない。


「俺も、もう、居場所なんてないから」


 繋ぐ手の温度、感触だけは、確かだけれど、立ち尽くしたこの場所は、いつか見た景色によく似ている、と。

 暗闇の中、確かに二人は思うのだ。

 意味も無く、ただ、この景色だけを共有し、信じて、いる。


「目に見えるものだけが真実ではないと、何故に解らぬのか」


 呟きはけれど、二人には届かない。

 無機質な床へと落下して、闇の中へ溶けて消えていった。


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