第7話 生誕と終焉


 迷いなく前へ前へと駆けて行くアステリアスに手を引かれ、少女は酷く狼狽していた。

 目を覚ましたばかりの時、彼はあんなにも怯えていたというのに、今の彼は何を気にする事もなく、平然と薄暗い屋敷の中を進んで行ってしまう。

 その背中には、何の不安も恐れも感じられない。

 それどころか、彼は健やかで明るく、屈託のない笑顔を浮かべているのだ。

 この場所へ連れてこられてから、魔物達はそうして笑う事はなかったので、少女は酷く動揺したが、それが、初めて見るものに対する畏怖なのか、それとも彼に対する好意からなのかは、少女にはよくわからなかった。


「ま、待ってくれ、アステリアス」


 戸惑いながら声をかけると、彼は振り返り、楽しげに笑っている。

 何故、そんなにも底抜けに明るく、笑っていられるのだろう。

 この薄暗い屋敷の中で、彼のような人は見た事がない。

 再び前を向いて走る彼の後ろ姿に合わせて、その耳につけた飾りが音を立てて揺れている。

 廊下を僅かに照らす、ほのかに発光している緑色の明かりに耳飾りの石が鈍く反射して光ると、頭の奥底が酷くぼんやりとして、いて。



 雨の音が、聞こえる。

 覚束ない思考が雨と共に地面へと流れ落ち、泥で汚れた裸足の爪先を見つめたまま、深い木々に囲まれた暗闇を見つめている。

 濡れた髪の間から、止め処なく雫が零れ落ち、体温と思考を、少しずつ、そして確実に、奪い取っていく。

 何もかも失われてしまったかのように、呆然と立ち尽くしたその場所で、誰かが、手を、白い指先を、差し出している。

 何かを告げる声が、流れる水音に掻き消されていて。

 雨の音が、聞こえる。

 雨の音が、酷く、煩い。

 それは、まるで、誰かが泣き叫んでいるかのよう、な———。



「なあ、次はどっちだい?」


 道の続きを問われ、ぼんやりしていた少女は弾かれるように顔を上げた。

 今のは一体、何なのだろう。

 此処へ連れて来られる以前の記憶、なのだろうか。

 少女は戸惑いながらも、アステリアスに促されるまま、屋敷の中央へと道を指し示した。

 屋敷の中は増改築を繰り返したかのように酷く入り組んでいて、一度や二度通った程度では憶えられないが、魔物達の中には少女を傷つける事を愉しむ者も多く居るので、少女にとって、この屋敷の構造は非常に都合が良かった。

 それらの魔物達は大抵自らのテリトリーを決めていて、その場から外れて動き回る事はなく、それを避ける為の迂回路が多々存在するのだ。

 今ではもうそれらの道をくまなく探索し、見つけ出した少女は、日々使用している。

 示した道へと惑う事なく走っていくアステリアスに手を引かれて走りながら、少女は突き当たりにある大きな扉へと視線を向けた。

 誰一人として近づこうとしないその場所は、たった一度だけ足を踏み入れた事のある、グラムストラの私室だ。

 此処に連れて来られた時、そのたった一度きり。

 それなのに、少女は何度も何度も、この扉の前まで足を向けていた。

 この扉を開く事は、決してなかった、というのに。

 扉は首を持ち上げなければ見えない程に大きいけれど、それはそれは質素なもので、とてもではないが、この国を統べる者が使用する部屋とは思い難いものだ。

 アステリアスは三回扉をノックするが、中から返事がしない事を確認すると「入るぞ」と声をかけてドアノブへと手をかけていた。

 少女が戸惑い、躊躇して入る事の出来なかった扉は、アステリアスによって、いとも簡単に開いてしまう。

 部屋の中は広々としてはいるけれど、暖炉と大きな椅子が一つ置かれたきりで、他は何もありはしない。

 黒い鎧の男は窮屈そうに身を丸めて椅子へと腰掛け、暖炉へ静かに薪を焚べている。

 この場所で寒さは感じる事はなかったけれど、少女が此処へ連れて来られた時、彼は同じように、暖炉に火をつけていた。


「あんたがグラムストラか?」


 問い掛けに彼は言葉を発する事はなく、視線を向ける事すらしない。

 けれど、アステリアスは何の躊躇もなくグラムストラの側へと歩み寄っている。


「俺はアステリアス。なあ、この子、名前がないんだって? あんたが拾ってきたんなら名前をつけてやってくれよ」


 会話をする気のないグラムストラに、少女は焦燥感を覚えて、掴んでいたままのアステリアスの手を引いた。

 それは、彼がグラムストラの怒りを買ってしまうからではなく、此処にいられなくなってしまうのではないか、という不安からだ。

 それが、彼の事なのか、自分の事なのか、それとも二人の事なのか……、解らずに行動に移してしまい、思わず少女は肩を震わせて、彼の手のひらを振り払ってしまう。


「アステリアス、私は、」

「大丈夫。心配しないで良いよ」


 何もいらない、今のままでいい。

 両手を握り締め、そう言おうとした言葉は、彼の柔らかで優しい笑顔と言葉に依って掻き消されてしまった。

 そうして彼は再び手を繋いでくれるけれど、どうしてだろう、頭の奥が嬲られるように、重く、痛い。


「此処に人間が一人だからいらない、っていうなら、俺がいるんだからもう一人じゃない。だから名前をつけてやってくれよ」


 アステリアスはそう言うと、頭を傾けて、肩を竦めた。

 目の前にいる鎧の男は、ただの一言も発しはしない。


「なあ、名前っていうのは、大事なものだよ。それ一つで、確固たる自分を決めるんだ。彼女は此処にいるたった一人の彼女だろう? それなら、その証をやってくれよ」


 それが此処に彼女を連れてきた奴の責任だろう、と告げた言葉に、金属が擦れ合うような、軋んだ音が部屋の中に響いている。

 グラムストラがゆっくりと顔を上げ、椅子から立ち上がると、部屋の中に大きな影が揺らいでいた。

 襲い掛かるかのようなその大きな影にも、アステリアスは臆する事はなく、ほんの僅かも怯えていない。

 どうしてなのだろう。

 これでは、まるで、今までの彼と自分とが入れ替わってしまったかのようだ、と少女は思い、緩やかに頭を振った。

 暖炉の隅で、炎が爆ぜている。

 煤けた匂いと、薪を飲みこむ炎のまろやかな明かり。

 見据えた彼の瞳は、夜の明けた空の色をしている。


「……、それがお前の、覚悟ならば」


 グラムストラの言葉に、アステリアスは決して視線を逸らす事なく、真っ直ぐに彼を見つめていたが、緩やかに瞬きを繰り返すと、小さく頷いた。

 その様子に少女はアステリアスの手を強く握り締めるけれど、彼は酷く優しい眼差しで、少女をグラムストラの前へと押しやった。

 大丈夫だよ。

 繰り返し言われるその言葉は、けれど、内側を酷く掻き回されているようで。

 もどかしくて、堪らなく、なる。

 目の奥が熱くなり、胸の底が騒めくような感覚に、思わず両手を重ねて握り締めると、少女はグラムストラをそっと見上げた。

 彼はいつも、少女を見ているようで何も見ていないような、目の前に居るのに存在を認めていないような、曖昧な視線を向けていたが、今は違う。

 まるで、森の中で拾われた時のように、青い炎のような瞳を向けられ、少女はぼんやりとその瞳を見つめる。

 彼はいつも何も望まない。

 そして、少女も彼に望む事はない。

 けれど、この手を取ったのは間違いなく彼であり、そして、此処へ連れて来られた事を拒まなかったのも、少女である。

 何も望まないし、望まれない。

 それはとても穏やかで優しく、そして、孤独だった。

 なのに、それが続くように願っているかのように、祈るかのように、両手を握り締めているのは、何故なのだろう。


「フィーネ」


 苦しげに押し出されたような声にが、ひとつの言葉を吐き出して、いて。

 少女はその言葉を、確かめるように呟いている。


「……、フィーネ?」

「そう、だ。それが、お前の名だ」


 肯定する彼は、それ以上言葉を発する事はなく、再び椅子に腰掛け、暖炉へ薪を焚べていて。

 繰り返し名前を口にすると、身体の外側だけが異常に冷たく感じるのに、内側は少しずつ熱を持ち始めている。

 まるで元々あったものに息を吹き込まれているかのような、不思議な感覚だ、と少女は感じ、それが消えてしまわぬよう、胸元をそっと手で押さえた。


「良かったな」

「ああ、ありがとう。アステリアスのお陰だ」


 不安だったものが、今ではもう、少しも見当たらない。

 彼の言う通り、大丈夫だったし、心配など要らなかった。

 穏やかで優しい心地に、少女が笑みを浮かべると、アステリアスは嬉しそうに笑って頷いてくれている。

 握り締めてくれている体温は、互いの温度が溶け合い、どちらのものなのかも、分からない。

 そのあたたかさに酔いしれるように、少女が瞼を閉じれば、炎の爆ぜる音が聞こえて、いて。


「……、そう。それが、あんたの覚悟なんだな」


 暖炉を見つめ、静かにそう呟いたアステリアスは、泣き出しそうな顔で笑っていた。



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