第6話 存在と証明
アステリアス・ヴィリーと名乗った男に、少女はことりと首を傾けた。
随分と長い名前なのだな、と感心したように告げる彼女は、ファミリーネームという概念を知らず、そもそも、家系や家族というものを知らないのだと言った。
アステリアスはこの洋館に連れて来られて以来、記憶が酷く曖昧であやふやだ。
解るのは、何らかの事情でこの国に足を踏み入れてしまった事、そして魔物達に追われている内に気を失ってしまった事、そして、目を覚ましてから起きた事と、自らの名前だけ。
自分が何処からやってきたのか、どのような存在なのか……、それら全ては、限りなく近い場所にある筈なのに、決して触れる事が出来ない。
記憶が無い、という意味では、彼女と今のアステリアスは同じものであった。
けれど、少女の場合は人としての生活や知識までをも極端に欠如していて、これではまるで、頑是無い子供のようだ、とアステリアスは思う。
狂気に包まれてしまう筈のこの森の中でも、彼女はあまりにも純真無垢、軽やかに歩みを進める人であって、側に居るアステリアスにも、彼女の身の内にある、溢れんばかりの光を感じている。
少女は決して誰にも穢される事がなく、奪われる事のない、美しく澄み切った光を、その身に内包している。
そして、この場にいる自分自身が狂気に呑まれる事がないのは、そんな彼女と共に居るからなのだろう、とも。
彼女自身はそうした事を理解していないのか、ただ不思議そうに、家族とはどのようなものなのか、と問いかけている。
「家族って言うのは、ずっと一緒に居るって約束している人達の事、かな」
これは自分なりの考えだけど、と付け足したアステリアスに、彼女は理解が及ばないのか、眉間に皺を寄せながら、難しい関係なのだな、と呟いたものである。
「そういえば、君の名前を聞いていなかったな」
「私の、名前?」
問いかけに、彼女は酷くぼんやりと空中に視線を向けていた。
何かを確かめるように、それでいて、其処には何もない、と知っているかのような。
砂を噛むような違和感を感じて、アステリアスは慌てて彼女に問いかけた。
「そう、名前。魔物達に……、いや、メイシアでもいい。彼女に呼ばれている名前だよ。教えてくれないか?」
「そんなものは存在しない」
「え?」
名前など自分には存在しないし、必要もない、と事も無げに言ってみせる彼女に、アステリアスは絶句した。
彼女曰く、この場所には魔物以外のいきものは彼女だけしかおらず、彼女は人間だ。必要があれば『人間』と呼ばれるだけの事。その事に、彼女は何の疑問も浮かばなかったらしい。
そもそも魔物達は家族という概念を持たず、深淵より生まれ出で、確固たる自己を形成していくだけの存在である。弱ければ消えていき、強ければ弱い者を従える事もままあるけれど、それらを家族や仲間とは決して呼ぶ事はなく、その必要を感じる事もない。
その事実に、彼女は何の違和感も疑問も感じていないようだった。
「だから、私に名前は必要ない」
魔物達にはそういった概念が無く、他者を庇護する事は無いのだろう。
その例外が先程のメイシアであり、彼女は特に魔物達の間でも、一際変わり者と言われているらしい。
そのメイシアでさえ、名前の必要性を感じていない、と言うのだから、少女が同じような考えになってしまうのは、致し方ない事なのかもしれない。
だけど。
考えて、アステリアスは手のひらを握り締めた。
だけど、そんなの、まるで居ても居なくても構わない、と言われているようではないか———。
「そんなのはおかしい。名前がないっていうなら、拾ってきた奴がちゃんと名前を与えるべきだ!」
アステリアスの主張に、少女は大きな瞳を瞬かせると、戸惑ったように首を振っている。
「アステリアス、君には名前があるから区別はつく。だから、私は別に構わない」
「構うに決まってるだろう! 君という存在を決める、大事な事だ。それを蔑ろにしてはいけないよ」
アステリアスが両手を握り締めてそう言うと、彼女は狼狽し、そして、何故だか少し悲しそうに、視線を逸らしている。
思いもよらなかった事で、きっと不安に思っているのだろう。
アステリアスはそのほっそりとした白い手を揺らして、優しく笑いかけた。
どうしてだろうか。彼女を見ていると、そんな風に、不安そうな、悲しそうな顔をして欲しくはない、と思ってしまう。
「メイシアが君を此処に連れてきたのか? 彼女が君の保護者かい?」
問い掛けると、彼女は躊躇うように口を開きかけては閉ざしていたが、アステリアスが視線を逸らす事なく真っ直ぐに見つめていると、観念したように小さく息を吐き出した。
「いや、此処に私を連れてきたのは……、グラムストラ、という男だ」
彼は魔物であり、この屋敷の主人であり、この国と全ての魔物を統べる者。
彼女の言葉に、アステリアスは何度か小さく頷いて、首を傾けた。
その男が少女を此処へと連れてきたというのならば、その責任がある筈だ。
「グラムストラ?じゃあ、そいつに名前をつけてもらおう!」
さあ、と掴んだ手を引き、暗い廊下を飛び出すと、少女の戸惑うような声が聞こえる。
酷く懐かしく、それでいて、そんな事があるわけがない、という、曖昧で矛盾した気持ちに、アステリアスは耳元で揺れる石飾りをそっと撫でていた。
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