十一 賢者の贈り物 2017年12月
僕や弟がベビーカーに乗った写真は一枚もない。僕の田舎は豪雪地帯だったから、ほとんどの家がベビーカーを持っていなかった。家に車があって子供が一人だけならベビーカーは必要ないと佳子さんにアドバイスされ、僕らはベビーカーを買わなかった。抱っこ紐とおんぶ紐、どちらがいいのか、僕らはそれも佳子さんに相談した。
「子供を抱っこして歩く
雪国の母親は赤ん坊をおんぶして雪道を歩く。抱っこだと足元が見にくく両手が自由に使えないからだ。親は子供をおんぶし、歩幅を狭めて前かがみで歩く。仰向けに転ばないためだ。雪国でなくても、特に冬は、抱っこよりおんぶの方がいい。振り向いて子供をあやす母親の姿は見ている人を癒してくれるし、子供は親の背中の温かさを一生忘れないから、と佳子さんはおんぶを勧めた。
我が家では隼人の首が座るのを待って、抱っこ紐からおんぶ紐に替えた。
隼人を連れて外出するとき、僕と美子はジャンケンをする。勝った方が隼人をおんぶし、敗者は二人の斜め後ろにつき、見守りながら歩く。これも佳子さん推奨のフォーメーションだ。
クリスマスイブの前日、僕らは近くのショッピングモールで買い物をした。
ショッピングモールは隼人のお気に入りだ。美子の肩越しにあっちこっちに視線を遣りながら、隼人はきゃっきゃきゃっきゃと笑う。賑やかな色彩と陽気な音響を、子供は好きなんだろうと思う。
買うものは決まっていた。先ず、子供用品の店に行く。
「見て、見て、私が言ったとおりでしょ。これ、先週は四千円したのよ」
ベージュのオーバーオールだ。クリスマス間際になったら、きっと半額以下になると美子は予想していた。四千円を訂正した千八百七十円という値札がついている。
「中途半端な値段だと思うでしょ?」
店のロゴが入った手提げ袋に商品を入れながら店長がニヤッとした。
「賢者の贈り物ですか?」
「ご存じでしたか。私、オー・ヘンリーのファンでしてね。毎年クリスマスシーズンには、赤字覚悟でこの
一ドル八十七セントは、オー・ヘンリーの短編『賢者の贈り物』の冒頭にでてくる金額だ。夫のジムにクリスマスの贈り物を買うための金がわずかしかなくて、妻のデラは悲嘆にくれる。その時のデラの所持金が一ドル八十七セントである。
「よかったね。これで君も髪の毛を売らなくてすんだ」
僕と店長が笑うと、美子は怪訝な顔をして首を傾げたが、すぐ、
「あっ、あのお話ね」
と笑みを浮かべた。
上の階のジュエリーショップに行く。婚約指輪を買った店だ。
サイズが判っていない場合、エンゲージリングは近くの店で買った方がいい。直しに出すのに都合が好いし、近所の
「この小箱に指輪を入れてプロポーズするんですよ。彼女の前に跪いて箱を開けるでしょ。すると……」
BGMが流れるって寸法です……
以来、美子の誕生日やクリスマスのプレゼントはこの店で調達している。
「ご予約のお品です」
店長は三つの小さな包みを僕らの目の前に置いた。それぞれに、「奥様からご主人様へ」、「ご主人様から奥様へ」、「お二人からお友達へ」とタグがついている。
「お支払いはご一緒でいかがですか?」
まとめて払えば割引の対象になるというので、僕らは承諾した。
「シめて、一万八千七百円でございます」
「えっ? そんなに割引してくれるの?」
定価で三万円は超えるはずだ。
「その店の店長、私の身内なんです」
店長は、オーバーオールの入った手提げ袋を指さした。
「これで、あなたも大切な時計を売らなくてすんだわね」
三人の笑い声につられたのか、駿人も腕を振りながら笑った。
二十四日は日曜日だったが、重原綾が我が家を訪れたのは夜の九時過ぎだった。隼人はもうとっくに寝たわ、と美子は人差し指を唇に当てながら彼女を迎え入れた。
高さ四十センチのクリスマスツリーをテーブルの隅に飾り、それに巻き付けた五十球ほどのイルミネーションと一本のキャンドルを灯しただけの細やかな照明のもとで、三人は静かにクリスマスイブの夜を過ごした。隼人を起こさないようにとジングルベルも讃美歌も歌わない。テーブルの上には、小さなホールケーキと三つのワイングラス、馴染みの喫茶店で受け取ったピザの大皿が載っている。
「メリークリスマス」
囁くように言って、三人は乾杯した。
「学校をやめたいと思った時、私、青木先生に相談したのよ。人生なんて成るように成るし成るようにしか成らない。青木先生にそう言われたの。退学しないで頑張れとか言わないのよ。カウンセラーのくせに無責任よね。でも、中退してよかった。綾にも会えたし、結婚もできたわ。隼人も生まれた」
最初の高校に入学した年に、美子は仲の良かった友人を亡くしている。拒食症だったその親友を自分は救えなかった。思い悩んだ美子は引きこもりがちになり登校する気力を失った。青木は美子に無理をしなくていいと言い、退学を勧めた。
「悩んでいるとき、ケセラセラって言うと気が楽になるわ。今は無理しなくていいんだって思うの」
人生なんて成るように成るし成るようにしか成らない。一部上場企業のエリート社員だった青木から会社を辞めたいという相談を受けたとき、僕はそう助言した。以来カウンセリングをするとき、青木は僕に無断でこのフレーズをよく使う。
夜の十二時が過ぎた。
「さあ、クリスマスプレゼントを開けよう」
三人とも、丁寧にリボンの結び目を解き、それを束ねてテーブルの上に置いた。
「プレゼントの包み紙をきちんと畳んでいる私たちって
「事実、貧乏なんだから、ちっとも不思議はない」
三人とも笑いながら包装紙を綺麗に畳んだ。確かに貧乏くさい。
綾からのプレゼントはベージュのオーバーオールだった。前の日に僕らが買ったオーバーオールと全く同じものだ。僕は美子に目配せをした。
「ありがとう。こんなオーバーオール、隼人に着せてみたかったんだ」
美子は、嘘を言っていない。隼人に着せてみたかったから、昨日、美子はそれと同じものを買っている。
僕らがジュエリーショップで買ったプレゼントは三つともオルゴールの小箱だった。同じメーカーの製品で、外観は一緒である。
僕が美子へ贈ったオルゴールの曲は『スマイル』だった。映画『モダンタイムス』で使われた曲で作曲はチャップリンである。エンゲージリングを入れた小箱以来、僕は美子へのプレゼントを映画音楽のオルゴールで統一している。エンゲージリングの小箱の曲はエンニオ・モリコーネの『愛のテーマ』だった。
綾へのプレゼントに美子は『見上げてごらん夜の星を』を選んだ。
綾はこの曲を聴くと必ず涙ぐむのだと、美子は教えてくれた。
美子が言った通り、蓋をあけた小箱からオルゴールの音が流れ出すと綾は目を潤ませた。
僕もオルゴールの蓋を開けた。
「曲名を知らなかったから、私、ハミングして店長さんに聴いてもらったの」
『スウィートメモリーズ』という曲名をジュエリーショップの店長は知っていて、オルゴールのメーカーに注文してくれたという。
「いつもハミングしてるから。好きな曲なのかなって思って」
「いつもハミングしてる?」
僕は首を傾げた。無意識にハミングしていたらしい。
若い女性が『スウィートメモリーズ』を歌いながら彼女の膝に頭をのせた誰かの涙を拭いている。オルゴールを聴いている間、そんな情景が頭を過った。
「はやタン、メリークリスマス」
寝室のドアをわずかに開け、美子は囁いた。
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