七  オフィーリア

宗片むなかた先生から電話があったわよ。ハムレットを上演するから観に来なさいって」

 宗片先生は修士課程の指導教授だった。英文学者だが、シェイクスピアの作品を能に翻案ほんあんして上演し、自ら舞台に立ち観世流かんぜりゅうを舞う。

「英語でやるのかな」

「今回は日本語だって」

 癌を宣告されそうになったことがある。結婚する三年前だ。

 僕は大学院に社会人入学するため、手続きに必要な健康診断書を受け取りに病院に行った。

 話がある、と若い医師は言った。

「今日、ご家族はご一緒ではないですか?」

 若い医師は、レントゲン写真を一瞥いちべつしてから、深刻そうな顔を僕に向けた。

 健康診断書をとりに来ただけなので、と僕は答えた。

「申し上げにくいのですが」

 医師はディスプレイのネガ画像に眼をった。一円硬貨大の白い影が肺の下部に写っていた。

「癌ですか?」

「多分」

「どのくらい保ちますか」

「癌だとすれば、保ってあと半年です。治療にもよりますが」

 癌告知を希望する……を丸で囲んだ書類に医師は静かに目を落とした。

 CTスキャン画像診断を三日後に予約して、僕は病院を出た。

 どうやって自分の部屋に戻ったのか憶えていない。

 死にたくないと思った。母の面倒は弟が見ている。でも僕が死んだら母は悲しむだろう。それに、五十前に死ぬなんて早すぎる。

 死の不条理について考えたことは何度もあった。何時死んでも構わない、覚悟はできていると人に話したこともある。病気ひとつしたことのなかった自分には所詮しょせん他人ごとだったのだ。どんなに恰好かっこつけていても、いざとなったらこのザマか。ただ狼狽ろうばいするだけの自分を僕は鼻で笑った。 

 リビングテーブルの上に置いてあった大学院の入学案内を何気無なにげなしにめくっていたときだ。「死」という文字が目に入った。

 宗片教授が学科の内容を説明していた。

『能は生と死を区別しない。死は肉体の死に過ぎない』

 少し救われた気がした。


「どう見ても癌じゃないね。素人が見てもわかる」

 CT画像を読影どくえいした年配の医師は若い医師にあきれ顔を向けた。

「白い影の原因は不明ですが何の心配もないから安心して下さい」

 年配の医師が診察室を出ると、若い医師は僕を見て気まずそうに笑った。

 僕は大学院の志望学科を心理学専攻から宗片教授が教える文化専攻へ変え、研究テーマを「能楽のうがく」にした。


「お前はオフィーリアを愛していなかった。尼寺あまでらへ行けとまで言った」

 ハムレットの後悔を地謡じうたいが重くうたう。

 見所けんしょの隅で、僕は隠れるようにその能を観る。

 ハムレットの親友ホレイショウがワキとして登場する。

 ハムレットの霊は今「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」という迷いを抱いて宇宙を漂っている。そのハムレットをこの場へびたいと、ホレイショウは観客に告げる。やがてシテ、ハムレットが登場する。彼は恋人オフィーリアの死を知り、彼女の墓前で激しく後悔する。

 オフィーリアの亡霊が現れる。

 オフィーリアの亡霊は、ハムレットを許し、祝福する。

 オフィーリアが橋掛はしがかりを通って去り、「今を生きることが唯一の生き方なのだ」と悟ったハムレットは悟りの舞を舞う。

 後場でハムレットが舞うのは救いの舞だ。

 To be or not to be: is no longer the question.

 生きるべきか死ぬべきか、そんなことはもはや問題ではない。人の一生など「ひとつ」と数えるほどのものでしかない。覚悟さえしていればそれでよい。いまこの時に生きること、それが唯一の生き方なのだ。オフィーリアの墓前でハムレットはそう謡う。

能は、彼岸ひがん此岸しがん夢幻ゆめまぼろしうつつを区別しない。神仏しんぶつと人、自然と人間、死者と生者しょうじゃは、京間三間四方きょうまさんげんしほうの舞台の上で自由に言葉を交わす。能の世界では生と死が対立していない。

 橋掛はしがかりを通って僕のオフィーリアが帰ってくる。僕をゆるすために帰ってくる。僕を救うために帰ってくる。そして、彼女は僕を祝福する。

 結婚したの? おめでとう。

 若くて綺麗な奥さんね。おめでとう。

 子供が生まれたの? おめでとう。

 心から祝福するわ…………

 見所けんしょの隅で、僕は息を殺して泣き続ける。

 オフィーリアの小面こおもてに僕は誰の面影を重ねているのだろう。

 美子ではない、と思う。

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