三  子供の名前    2017年 3月

 二〇一七年三月二十一日早朝、僕は産院で子供の誕生を待っていた。

「ロビー横の待合室でお待ち下さい」

 分娩室ぶんべんしつに入る美子を支えながら、看護師は病院玄関付近のロビーを目で示した。

 僕は待合室に向かう前に、美子の手を強く握った。その時、美子を励ましたはずだが何と言って励ましたのか憶い出せない。美子も憶えていないと言う。大して気のいた言葉ではなかったのだろう。

 その日、朝のお産は三件だけだと助産師は話していた。しかし、待合室に居た人間は僕を入れて二人だけだった。

 待合室の隅でゴルフウェアを着た中年の男が電話をかけていた。

 玄関のガラス戸から駐車場に駐めたアウディーが見える。恐らく彼の車だろう。送話口を手でおおい小声で話していたが、待合室が静まり返っていたので彼の携帯からは通話相手の女性の声が漏れて聴こえた。電話の相手はたぶん、彼の妻だろう。

「取引先の社長に、もう一日つき合えって言われてさ。今日もこっちに泊まるよ」 

 ……取引先って?

「ソウシュウ不動産って会社だよ」

  男は待合室の壁に貼ってあった相州そうしゅうタクシーという張り紙を見ながら言った。

 電話を切ると、男は「まいったな」と小声で言い、溜息をついた。  

 産声うぶごえが聞こえた。僕は立ち上がった。

 ……チャイヨー、チャイヨー

 女性の声が聴こえた。

「ありゃタイ語だな。万歳って意味だ」

 首を傾げる僕を見ながらアウディーの男が言った。

 看護師が待合室にやってきて確認するように室内を見渡すと、やっぱり来ていないなといった顔をして廊下を戻って行った。

「父親は日本人だな。日本くんだりまで来て独りで子供産んで独りで万歳か。つええなあ、女は」

 男は自分に言い聞かせるように言うと、苦笑いをした。

「あんた、子供は初めてか? 俺と大して歳が変わらねえみたいだけど」

 僕は黙ってうなずいた。

「そうか、初めてかい。カミさん?は若いのかい?」

「ええ」

「人それぞれ、いろんな事情があるさ」 

 男はつぶやくように言うと僕の顔を探るように見た。

 僕の顔……いい歳をして父親になろうって男の顔だ。気恥ずかしさと期待と不安を不均衡に含む、きっと情けないほど間の抜けた顔だろう。

 僕は四十八で結婚した。

 結婚はもう一生出来まいと僕も僕の母も諦めていた。二まわりも年下の若い婚約者を田舎の実家に連れて行った時、「ごーぎ見目めめの好い嫁さんでたまげたて。生きててよかったて」と母は田舎言葉まる出しで喜んだ。

 たぶん母は寝ていなかっただろう。夜中じゅう仏壇の前に正座して嫁の無事な出産を祈っていたはずだ。

「子供が生まれたら、直ぐ美子さんの実家に電話するんだよ」

 母は、自分への報告は後でいいからと二度も言った。

 母に言われた通り、先ず美子の両親に電話する。次に僕の母に電話する。美子の両親は「おめでとう、おめでとう」と大騒ぎして喜び、僕の母は何も言わず大泣きに泣くだろう。僕は、そう予想した。

 看護師がやって来て、僕を呼んだ。

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」

 二〇一七年三月二十一日午前七時三十三分、男児出生。身長五十センチ、体重二千九百グラム。

 待機室に入った僕は美子に「ありがとう」と言い、看護師から小さな命を受け取った。

 赤ん坊は泣き止んでいた。

 僕は黙って涙を流した。

「赤ちゃんを抱いたお父さんは笑うものよ」

 美子は静かな笑顔で僕を見上げた。

 その日の早朝、産院で生まれた子供は三人だけだった。

 生まれたての赤ん坊は新生児室の廊下側窓際に並べて寝かされる。

『ぼくのママは……』、『わたしのママは……』と、母親の名前を書いたカードがベビーベッドの手前に貼ってあった。

「父親の名前は無しか。まあ、俺みてえに名前がさらされたら困る男もいるだろうからな。それにしても、あんたそっくりだな、あんたの息子」

 ゴルフウェアの男は僕を見て笑った。

「貴方の娘さんにも貴方の面影がある。目もとがそっくりだ」

「俺の娘? そうか、俺の娘か。女の子だぞ。俺に似たら可哀相かわいそうだろ。でも自分の子供はやっぱり可愛いなあ。俺も、子供は初めてなんだ」

 彼の娘が生まれたのは隼人が生まれた二十分後だった。待機室の奥で看護師に笑われながら、不器用に赤ん坊をあやしていた。

「看護師さん、悪りいけど、涙を拭いてくんねえか。子供の顔がよく見えねえ」

 彼の声は待機室の外にまで響いた。

「事情」があって生まれた娘の為に彼は何でもするだろう。僕はそう思った。

「男親にできる事なんて、そんなもんさ」

 父の言葉が、再た頭の中を過ぎった。

 その日、テレビが桜の開花を告げていた。

 

 僕らが子供の名前を決めたのは隼人が生まれるひと月前だった。

 ハヤブサの人と書いて「隼人」が好いと僕は何の気なしに言った。

「いい響きだわ。ヒーローの名前みたい。それに決めましょ」

 決まるまで三分もかかっていない。

 自分の名前がたった三分で決まったと後で本人が聞いたら呆れるだろうから、適当な命名のエピソードをでっちあげ夫婦で口車くちぐるまを合わせようと言って、美子は紙と鉛筆を用意した。名前の候補を三十も挙げたとか、それぞれの名前の字の画数をすべて調べたとか、名前選びに苦労したというストーリーの創作には二時間を要した。

「この命名ストーリーはジジババへの根回ねまわしにも使えるわ」

 何の相談もなしに勝手に決めたら美子の両親も僕の母も気を悪くするだろうから、巧く根回しして「隼人」を承認させよう。僕ら夫婦はそう謀議ぼうぎした。

「『ゼロ戦はやと』のハヤトか。かっこいいじゃないか」

 舅殿しゅうとどのは『ゼロ戦はやと』という漫画のファンだったらしい。『ゼロ戦はやと』を僕も知っていた。隼人という名前を思いついたのは戦闘機乗りを描いたその漫画の記憶があったからかもしれない。

「ハヤブサのハヤト?」

 小惑星探査機ハヤブサの帰還に感動して相模原のJAXAまで実大模型を見に行ったという姑殿しゅうとめどのも、一も二も無く賛成してくれた。

「ハヤト?」

「母さんが士族しぞくの出だからね。侍らしい名前に決めたんだ」

「士族? そうだね。いい名前だ。ハヤトか、いい名前だねえ」

 母は電話の向こうで「いい名前だ」を繰り返した。 

 士族の家系を内心誇りにしていた母は、侍らしい名前を付けたいと言えば決して反対しない。

 隼人が生まれた日、僕は市役所の出張所に出向いて出生届を出した。

 平日の朝だったせいか、その時市役所の出張所を訪れた者は僕だけだった。

 出生届を出しに来たと窓口で伝えると、四人いた職員全員が席から立ちあがり、口々に「おめでとうございます」と言った。

「出生届を受け取るのは一週間ぶりなんですよ」

 窓口に座った中年の女性が書類を僕に渡しながら、「赤ちゃん、可愛いいでしょ?」と笑った。

「赤ちゃんは可愛いいだけでいいのよ。子供は年金の財源なんかじゃないわ。あら、御免なさい」

 その通りだと思った。このまま少子化が続けば人手不足に歯止めがかからない。何れ国の財政も破綻する。そんな現実的な理由を挙げて子供を増やすべきだと説く学者や政治家がいる。逆効果だろう。納税者や年金拠出者ねんきんきょしゅつしゃを生み育てようとは誰も思わない。人は子供が可愛いから子供を欲しがるのだ。かけがえのない希望だから子供を育てるのだ。

「私の孫の名前もハヤトなんですよ。午年うまどしに生まれたから駿馬しゅんめのシュンという字の駿人なんですけど、その年の一番人気の名前だったんですって。響きがいいわよね。アニメのヒーローみたいで。いい名前だわ。今年が酉年だったからハヤブサの人って名前にしたんですか?」

 その年が酉年とりどしだったことに僕はその時気づいた。僕は何故「隼人」という名前を思いついたのだろう。出生届に書いた「隼人」という文字を見ながら僕は首を傾げた。

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