第5話ニンフ

 なんとも言いようのない奇妙な晩餐を経験して、家令スチュワードに導かれて部屋に戻ってきた本村は、疲れ切っていた。体の疲れというよりは、精神的なそれだと感じた。


 家令が、何か飲み物はと言うのを断って、シャワーを浴び、早々に寝ることにした。


 部屋の隅に設えられた、ふかふかのベッドの上には、絹の夜着も準備されていて、毛足の長い毛布の肌触りも良く、なかなかに寝心地が良かった。


 緊張して眠れないかもしれないと心配していたが、布団に潜り込んですぐに、心地よい眠りの中に落ちていった。



「眠っているみたいね」

「眠っているみたい」

「いるみたい」

「みたいね」

「……ね」


 彼はまどろみの中で、声がするのを感じていた。それでも、すぐに目覚めたわけではない。どこか、遠くの方でささやいているように感じていただけだった。


「なぜ、食べてくれなかったの」

「食べてくれなかったの」

「くれなかったの」

「なかったの」

「……の」


「アミルスタン羊」

「アミルスタン」

「アミル」

「スタン」

「羊……」


 アミルスタン羊の名が彼の頭の中で反芻されたため、彼の本能的な嫌悪感が湧き上がり、急に意識が覚醒した。


「なんだ」

目を開けると、暗闇の中に、何か上からのぞき込んでいるのに気づいた。


「あ、起きたわ」

「起きたわ」

「起きた」

「起き」

「……わ」


 本村があわてて起き上がると、上にいた何かはスーッと下に下りて、彼の寝ているベッドを取り囲んだ。

「誰だ」

彼が言うと、まわりからクスクス笑いがもれた。


「焦ってるのね」

「焦ってるの」

「焦ってる」

「焦って」

「……のね」


「明かりをつけたわ」

「明かりをつけた」

「明かりを」

「明かり」

「……たわ」


 声が言う通り、暗かった部屋の中に、五つの光が点った。

それは、ともったというのは正しくない。声の存在そのものが光っているのだった。


 彼のまわりには、白いローブの少女が五人、床から五十センチほど浮き上がっていた。エントランスの絵に描かれていた、ニンフに似ていた。


 「まさか、ニンフ?」

夢を見ているのかと考えつつ、寝ぼけまなこの本村が問うと、また彼女たちのクスクス笑いが起こった。

それぞれに浮き上がって、フワフワと動きまわり、くるくる回る者もいた。


「ねえ、なぜ食べてくれなかったの」

「ねえ、なぜ食べてくれなかった」

「食べてくれなかった」

「くれなかった」

「……の」


「だって、あれは人間が食べてはいけないものだ」

本村が答えると、またひとしきりクスクス笑いが続いた。


「あれを食べないと連れて行けない」

「食べないと連れて行けない」

「連れて行けない」

「行けない」

「……ない」


「連れて行くって、どこへ? できれば、誰か一人で喋ってくれないか、混乱するから」


「いいわ、私が話す」

リーダー格なのだろうか、一人だけ金色のティアラをつけた少女が、彼の目の前に立って、にっこり笑った。


「仲間になって、私達と行きましょう」

「だから、どこへ?」

「いいところ」


「だから、はっきり……」

本村は要領を得ない会話に苛立ってきた。

「もういい、俺は食べないし、どこへも行かない。元の世界に戻る」

布団を被って目をつぶった。


「あら、怒っちゃった」

クスクス笑いが続き、彼女らが近くを飛び回る気配がした。

「ねえねえ、起きて」

布団をめくり上げられて、ティアラの少女がのぞき込んできた。


「こら、やめろ、もう寝るんだから、消えろ!」

「ふふふ」

彼女は意味ありげに笑った。

「ねえねえ、こっち見て」

本村がしかたなく、布団から顔を出すと、少女は彼の寝ているベッドの端に腰掛けた。


 彼が黙って見ていると、少女の着ているローブが、徐々に黒に染まっていく。

驚いて、顔を見ると、それまでの清純な姿から様変わりして、大人の姿に変わっていた。


 長く渦巻いた髪は、風もないのに激しく揺れていた。大きな目は、ややつり目に、強いアイラインが引かれていて、激しい気性を感じさせた。


 そして、輝くピンクだった唇は、晩餐に出た黒トマトの果肉のような赤黒い色で、笑っている口の両脇には、尖った牙のようなものが見えた。


 それぞれにちゅうを飛び回っていた他の少女たちも、下りてきて並ぶと、どの子もすでに少女とは言えない成長した姿だった。


「な、なんだ、その姿は」

本村が叫ぶと、今度はふふふと、含み笑いが起こった。


「食べる?」

ティアラの少女、いや、すでに妖女とも言える黒いニンフは、寝ている彼の顔に、顔を近づけながら言った。


「食べない!」

本村が叫ぶ。

「あら、残念」

さらに、息がとどくほどまでに近づいた顔が、ニイと笑った。

「たべるわよね、アミルスタン羊」


「嫌だぁ! 絶対食べない!」

本村は絶叫して、飛び起きると、履き物も履かないまま部屋の外へ出ようとドアに手をかけた。


 黒いニンフたちは、妖艶な笑みを浮かべたまま、フワフワ浮かんで追って来た。

彼は、追いつかれないうちにと、急いで外の通路に出て、ドアを閉めた。


 通路は暗闇で、寒々としていた。高い天井のアーチ形の梁の影から、何かが出て来そうで不気味な感じがした。


 深夜か、それともすでに夜明けになっているだろうか、館の中にいると、時間の感覚がなくなってくるようだ。

はやく日が昇るといい。本村は願いながら、これからどうするべきか考えた。


 ドアに背をもたせかけて、息を整えていると、闇の中から、白い手が伸びてきた。

ぎょっとして、横を見ると、黒ずくめの服だったので、白いエプロンと手だけが強調されて見えたらしい。


顔はよく見えないが、部屋にお茶を運んでくれたメイドの女性らしかった。

「いかがされましたか、こんなところで」

「ええと」

本木が、何と答えればいいのかわからず、口ごもっていると、彼女は何か察したらしく、穏やかな声で言った。

「ああ、食堂にご案内しましょう」


「だから、いらない、食べないって!!」

本村は叫んで駆け出した。


 どこへ行こうとも考えてはいなかったが、とにかく逃げなければならないとだけはわかっていた。

 裸足の足に床が冷たかった。つま先の感覚がなくなるほど冷えてきて、やがて、体全体が小刻みに震えてくるのを自覚した。


 実際のところ、黒いニンフやメイドが追いかけてきているわけではなかったのだが、彼の混乱した精神が、逃げないではいられなくなっていた。


 追い立てられるように、闇雲に走っていると、前方に何か、ゆらめく影のようなものが、立ち上っているのが見えた。


「おや、本村様、どうされました」 

家令の声が聞こえた。

ハッとして見ると、家令と、当主のマクア・スレフトスメが、微笑んでいて、そのまわりには、メイドと黒いニンフが、ふわふわ宙を飛んでいた。


「いやだ。食べない! 助けてくれ!」

本村は頭を抱えて、もと来た通路を引き返した。


 しかし、何故か、辿ってきたはずの通路は消えていて、切り立った崖のような亀裂が口を開けていた。


 当主のマクア・スレフトスメと家令の足音が、彼に向かって来ているのを感じた。

もう逃げられない。

本村は覚悟を決めて、足許の裂け目に飛び込んだ。



※ ※ ※ ※ ※



「あ、意識が戻ったようです」

彼が目覚めると、明るい部屋のソファに横になっていた。

上から二人の男がのぞき込んでいて、どうやら制服から警察官のようだった。


「助かったのか……」

本村がつぶやくと、警官の一人がうなずいた。


 彼らの話によると、彼は繁華街の道の真ん中に、立っていたらしい。不審に思った警官が声をかけたら、立ったままで熟睡していたという。

『念のため、病院で診てもらってください』という声に送られて、交番の外に出た。


 会社へ戻ろうとしていた時から、さほど時間が経ったとは思えない。あたりは相変わらず行き交う人のざわめきに満ちていた。

(終)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪趣味な晩餐 仲津麻子 @kukiha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ