6-220日 月曜日 

しばらく、二人は会うことができなかった。

 主人であるマートレッドが、休暇をとっていて、日中も屋敷に滞在していたからである。


 ラットは訳もわからぬまま、イェーゴーからの『部屋の外に出ない様に』という言いつけに従っていた。

 きっとお偉いさんが来るんだろうとラットは思っていた。自分の様なものが屋敷を彷徨いていたら困ることがあるのだろうと。


 その間、ラットは部屋でひたすら本を読んでいた。

 文字を読めないと言うと、イェーゴーが文字表を作って持ってきてくれたのだ。

 子供向けの文学集は、ラットにとっては中々面白かった。

 ラットはそうやって、イェーゴーのことを考える自分を振り払おうとしていたのだった。


 そして、一週間が経った。日付は27である。


 日中に外に出ることを再び許可すると、召使の伝言で聞いたラットは、イェーゴーを探しに部屋を出た。もう二週間ほどこの屋敷にいるのに、ラットはこの屋敷の内装をほとんど知らないままだった。


 どこまでも続いていそうな長い廊下の左右の壁に、ドアがついている。

壁に埋め込まれたチョコレートチップのように。

 ラットはどこまでも続く青いカーペットの上を遠慮がちに歩いていきながらイェーゴーの姿を探す。


 彼に会ったら話したいことが山ほどある。ラットの目は、少しの緊張と期待を帯びていた。


 調理室を通り越した。ドアの向こうから包丁を研ぐ音や骨を削る音が聞こえていた。

 悪臭のする倉庫のドアを二つ通り過ぎると、廊下の突き当たりまで来てしまった。


 最後のドアがラットの目の前に現れた。

 二階にはいないのかもしれない。

 ラットはそう思いながらも、なんとなくドアノブに手をかけた。回す。


 すると、ギギ、という音の後に、抵抗力がなくなった。

 なんとドアが開いてしまったのだ。


 ラットは、室内をぐるりと見回した。奥の方に黒いピアノが置かれてあった。

 蓋が上がっている。

「・・・なんだろうあれ」

 ラットは、それが楽器であるとも知らずに部屋に入ろうとした。

 しかし、急に足が止まった。金色の髪が視界の端に映ったのだ。

 どくどくと鳴り始める心臓を鷲掴みにする勢いで抑え、ラットは大急ぎで部屋の入り口に駆け戻る。


 ラットが一週間焦がれ続けてきたイェーゴーは、眩しすぎた。

 顔だけを出してそっと音楽室を覗き込む。イェーゴーがピアノの椅子に座った。


 鍵盤からぽろんと音色が生まれた。ラットはギョッとして目を見開いた。

 イェーゴーの指が単純なワルツを奏で始めた。


 決して多くはない音の羅列が、ラットの奥にある感傷を翻弄する。

 音が跳ねればラットの心も舞い上がり、音がしっとりと沁みればラットは笑顔になった。


しかし、どうにもイェーゴーの背中が寂しいものに見えた。


 そして曲が終わる気配がし、ラットはイェーゴーに話しかけようとした。

  それを轟音が妨げる。

 ラットは急なことに飛び上がって、演奏者の背中を見つめた。

 鍵盤がたたき割れそうなほどきつく叩きつけた指は、次第に広がり、地が響く様な低音と天を呼び寄せる様な高音に生まれ変わっていく。


 体の中を血流が駆け巡る様な情動。

 音の全てがラットに襲いかかる。捕食者の様に、喰らい付くように。

 イェーゴーの背中が今まで見たことがないほど大きく盛り上がっている様に見えた。

 それはまるで、悪魔だった。


 とうとう恐ろしくなったラットは、叫ぶ。必死に、イェーゴーの名を。

 イェーゴーに、こんな曲を弾いて欲しくなかった。

 

 ぴた、と指が止まる。

「おや」

 イェーゴーがゆっくりと振り返った。

「ラット君、お久しぶりです」


 その微笑みは完璧だった。










この一週間はどうでしたかとイェーゴーが尋ねた。

 彼は再び、穏やかな曲を演奏し始める。


 ラットは恐る恐る答えた。

「貸してくれた本、とても面白かった。最初の頃は暗号みたいだったけど、文字の読み方も少しわかってきたよ」

 するとイェーゴーがクスリと笑う音がした。ラットは安心した。

 やっぱりこの人はこの人じゃないか。何を心配していたんだろう。そう思った。


 ラットは身を乗り出し、ピアノの鍵盤が指で押されていく光景を眺めた。

 すると、

「ご覧になりますか」

 突然イェーゴーに言われてびっくりした。


 遠慮がちなラットが、ゆっくりとイェーゴーの脇までくる。

 鍵盤の上で踊るイェーゴーの指は美しく、ラットを赤面させる。


「こ、これはなんなんだ?」

ラットがピアノの黒いボディにそっと掌を置く。冷たくてしっとりした感触だ。

イェーゴーは奏でながら答える。

「ピアノという楽器です」


ピアノ。

その言葉の響きは、ラットにとっては非常に高級感があって上品だった。

まるで、自分の目の前にいる執事のような。


ラットは近くなったイェーゴーの横顔をマジマジと見つめる。

金色の髪はよく手入れされている。服にも皺ひとつ見られない。

ラットにはこのような人間と関わり合う機会など無かった、本来は。


「弾いてみますか?」

揶揄うように、ラットの手を持って、イェーゴーは微笑んだ。

「ふえ!?」

急なことに飛び上がったラットは、自分の手が鍵盤に誘導されるのをドキドキしながら見守った。

「どうぞ」

イェーゴーの大きな掌がラットの手に重ねられる。二つの手は一つになって鍵盤を押す。イェーゴーに導かれる、いや操られるようになりながら、ラットは短いワルツを指で体感した。

そしてイェーゴーはラットの日に焼けた指をちらりと見、目を細めるのだった。

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