3-④

 一瞬だけ泳ぐ瞳に違和感を覚える。妹の目は、こんなにも頼りない色をしていただろうか。私の知る彼女は、いつだって勝気で溌溂とした光をそのつり目がちな瞳に湛えていた。それなのに、今の彼女の黒目はどこか曇って淀んだ色をしているように見える。


 妹は眉を下げてこちらを伺うように見つめていた。まるで、叱られるのを待つ子どものような表情だ。


「姉さんのこと……本当は、憎んでなんかない」


 恐る恐るといった様子で開いた唇が紡いだ言葉は、やはり私の予想とは異なるものだった。


「でも、そう思われて当然だと思う。避けていたのは本当だし、羨んでいたのも本当だから。……姉さんがいなければ、父さんと母さんはあたしだけを愛してくれたのにって、思わなかったわけじゃないもの」

「……ごめんね、涼子」

「謝らないで! 違うの。それでも、あたし、姉さんを憎んだことなんてなかった」

「憎んでいないのなら、どうして私を避けていたの?」

「そ、れは……」


 言い淀んだまま妹は俯く。また瞳が陰る。


「姉さんのことを……愛していたから」

「え?」


 じゃり、と砂を踏む音。妹が一歩前に出る。


「あたし、姉さんのことが好きなの」


 山犬が牽制するように唸る。それでも、妹はさらにもう一歩踏み出してくる。


「涼子? な、何を言っているの?」


 問いかける私の声は震えていた。後退った私に、妹はハッと息をのんで歩みを止める。その瞳に少しだけ、傷ついたような色を滲ませながら。


「ごめん。そうだよね。でも、逃げないで。お願いだから……話をさせて」


 縋るようにこちらを見つめる黒目に戸惑う。あの鬼の元へ帰りたいと思う心とは裏腹に、体は妹の言葉に耳を傾けようとしていた。


「あたし、姉さんのことが好き。誰よりも優しくて、きれいな、そんな姉さんを愛しているの」

「でも、それは家族だからでしょう?」


 私の問いかけに、妹は唇を噛んで首を振った。震える唇が「そうじゃない」と泣きそうな声を吐き出す。


 耳の奥で自分の心臓が暴れるような音がした。どくどくと皮膚のうちから血の流れが脈打つ。妹が私を避けていたのは、私を愛しているから。村にいた頃の私ならば、妹の言葉の意味がわからずにただ困惑していただろう。しかし、今の私にはわかってしまう。その気持ちは、私も痛いほどわかるから。けれど、それでは、妹は──


「あたしは、姉さんに恋しているの」


 とうとう妹の瞳から涙が零れた。頬を伝うそれを隠すように、彼女は俯く。


 対する私は「ああ」と嘆息した。


「ごめんね。こんなこと言われても、困るよね。気持ち悪いよね。家族なのに。……女同士なのに」

「涼子、」


 それは違う。そう続ける筈だった私の言葉は、妹の震える声に遮られる。


「最初からそうだったわけじゃないんだよ。あたしだって、自慢の姉に対する独占欲とか、自分よりも優れている姉さんへの羨望とか、そういう感情だって思ってた。でも、姉さんが村の人たちと話しているのを見ると、心がざわざわして落ち着かなくなった。町に行ったとき、色んな人から親しそうに声をかけられる姉さんを見て、胸が締めつけられるみたいだった!」


 妹は胸の前でぎゅっと手を握り締める。その白い手はかたかたと震えていた。


「あたし、姉さんに群がる人たちが嫌だったの。あたしが一番、姉さんの良いところを知っているのに。あたしが一番、姉さんのきれいな表情を見ているのに……あたしが一番、姉さんに愛されているのにって! あたしの姉さんなのにって!」


 血の気をなくした手に、同じく白くなった爪が食い込んでいく。ああ、そんなことをしたら、傷ついてしまう。妹の方へ踏み出した私の前に山犬が立ち塞がる。緑色の瞳がこちらをじっと見据える。「行くな」と言われているようだ。


「姉さんと春嗣さんの婚約が決まったとき、あたし、やっと姉さんへの気持ちに気づいた。お嫁になんかいかないでって、ずっとあたしの傍にいてって、思った。あたしに一番きれいな微笑みを向けてほしい。あたしに一番優しくしてほしい。あたしに……触れてほしい。こんな欲、家族に向けて良い感情じゃない」


 ゆるゆると妹が顔を上げる。


「だからあたし、姉さんを避けたの。姉さんのことを見なくなれば、こんな気持ち、忘れるんじゃないかって。でも、忘れられなかった」


 どんよりと淀んだ瞳で、私を見る。


「ごめんなさい、姉さん。あたし、あなたが好き」


 じゃり。砂を踏む音。妹が近づく。


 じゃり。山犬が吠える。


 じゃり。光のない目が、私を見る。


 体が動かない。この感覚を私は知っている。確か、あの狐の。


 ――じゃり。


「涼子!!」


 少年の鋭い怒声が闇を裂くように響いた。私と妹は同時にはっと我に返り、お互いから距離を取る。勢いよくのけぞったせいか、涼子は尻もちまでついていた。


 私と妹の間には、少年の姿をした山犬が立っていた。


 彼はすっと緑色の瞳を細めて妹を睨む。


「いい加減にしなよ、みっともない。君、もう澄子のことは諦めてるんだろう。今さら縋るようなまねして、見苦しいったらないよ」

「誰……?」


 妹は呆然としたようすで、突然現れた少年を見上げていた。そんな妹を見下ろしながら、山犬はふんと鼻を鳴らす。


「君、狐の匂いがするよ。どこで誑かされたの? 澄子を探しにきたのも、あいつに言われたから?」

「え、狐……? あたし、井戸の幽霊は姉さんだって、あの人が言ったから……」


 ぶつぶつと呟く言葉は半ばうわ言のようだ。徐々に小さくなっていく声が完全に沈黙した後、ぱちりと妹が大きな目を瞬かせる。


「あの人って……誰だっけ」


 呆然と呟く妹に、山犬が呆れたようにため息をついた。

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