3-③

 その日の夜、私は山犬を伴って村の井戸へと向かった。最近は暑さにやられないよう、夜にばかり出かけている。雨は相変わらず降らず、夏の盛りを過ぎても日中は刺すような日差しばかり降り注いでいた。


 どこかから聞こえる蛙の鳴き声を聞きながら、私は山犬と共にのんびりと山道を歩いた。時折、がさりと木々の揺れる音がする。ぐるると獣の唸る声がそれに混じっても、私と山犬は構うことなく山を下っていく。こちらが無関心ならば、あちらも放っておいてくれることはもう知っていた。いちいち怯えて足を止めていた頃が懐かしい。


 しばらくすると、村の入り口が見えてくる。深夜の村はしんと静まり返っていた。足早に井戸へ向かい、私は手早く水を汲み上げていく。釣瓶を引き上げるからからという音が夜の闇に響いていた。


 ――じゃり。


 ふと、釣瓶の音にまじって砂を踏む音が聞こえたような気がして、私は釣瓶を引き上げる手を止める。足元の山犬を見れば、彼はじっと一点を見つめていた。私は音を立てないようにゆっくりと釣瓶を落としながら、山犬の見つめる方へ視線を向ける。確か、あちらには神社があるはずだ。


 見つめた先は暗闇だった。何も見えない。けれど、砂を踏む音は確実に近づいている。それは確かに、人の足音だった。誰かがこちらに向かってきている。私は息を殺しながら井戸の影に身を隠した。


「――姉さん?」


 暗闇の中から聞き覚えのある声が響く。しばらくすると、そこにぼんやりと人の姿が浮かび上がった。


 その姿に、私はごくりと喉を鳴らす。


 逃げなければならない。会ってはいけない。


 特に、あなたとは。


 心臓がどくどくと早鐘をうつ。耳の奥で響く心音は警鐘のように思えた。


「気のせいかな……」


 ぼんやりとしていた人の姿が明らかになる。そこには私の予想していたとおり、血の繋がらない妹がそこにいた。妹はきょろきょろと周囲を見回している。


 どうして、妹が私を探しているのだろうか。そう思いつつも、私はかがみながら一歩後ずさる。早く、山へ、社へ。鬼の元へ、帰らなければ。


 じゃり。


 砂を踏む音が響いたのは、私の足元からだった。


「誰!?」


 妹がそれを聞き逃すはずもなく、鋭い声と共にこちらへやってくる。月明りが私と妹の姿をお互いの眼前に照らし出す。彼女は私の姿に気づくと、息をのんで硬直した。大きな黒目が零れ落ちそうなくらいに目を見開いて、妹はこちらを見つめている。


「……姉さん」


 困惑しているのがわかる声音で妹が私の名前を呼ぶ。彼女がこちらに向かって一歩踏み出すと、そばに控えていた山犬が妹と私の間に割り込んで低く唸った。妹はびくりと立ち止まり、戸惑いをあらわに私と山犬を交互に見る。


 山犬が大きく吠える。その声に我に返った私は、よろよろと立ち上がって山へ向かって走り出す。


「待って、姉さん! 行かないで!」

「――っ、」


 後ろから聞こえる妹の声に、足が勝手に止まってしまう。縋るような、悲鳴のような声。そんな声で妹に呼び止められたら、無視なんてできない。けれど、意気地のない私は振り返ることもできなかった。


「そのままでいいから話を聞いて」


 静かに響く妹の声に、私は振り返らないまま目を伏せる。


「……村に神社を建ててから、井戸の近くに女の幽霊が出るって噂が立つようになったんだ」


 私が立ち去らないことを肯定と受け取ったのか、妹はゆっくりと語り始めた。


「獣を伴った女の幽霊。村人たちは、姉さんの魂なんじゃないかって噂してた。だからあたし、たまにこうして井戸を見に来てたの。姉さんに会えるかもしれないって思って。あたしだけじゃないよ。父さんも、春嗣はるつぐさんも……こうして、姉さんに会いに来てた」


 春嗣とは、私の元婚約者である商家の息子の名前だった。


 生贄になると決まり、婚約解消を申し出たときの彼の顔を、私は今でも覚えている。端正な顔立ちをこれでもかと歪ませて、彼はぼろぼろと泣いていた。


 ――そんな、どうして。いや、すまない。ああ、でも、澄子さん、俺は君に……何もできないのか。


 悲痛に呻く声が、途切れ途切れに言葉を紡いだのも、全部覚えている。私のために泣いてくれた人。あの時、私は彼のために泣けなかった。


「生きてて、良かった」

「……え?」


 妹の言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。振り返ろうとした体を寸前で押しとどめる。信じられない。聞き間違いかもしれない。


「……また会えて、本当に良かった」


 我が耳を疑った刹那、妹の泣きそうな声がまた言葉を重ねる。私は両手で口元を覆った。そうしないと、引き攣れた声が漏れてしまいそうだった。


 私は雨乞いの生贄として捧げられたのだ。こうして生きていることは、許されないことなのに。それなのに、妹は今、私が生きていて良かった、と。


「どう、して……?」


 とうとう私は問いかけてしまった。だって、別れ際に彼女はあんなに憎しみに瞳を燃やしていたのに。私は今でも、妹の私を糾弾する声を覚えているのに。


 ――あんたなんて、死んだって許さない。


「私は、生贄として死ななきゃいけなかったんだよ? それに、涼子は私のことを憎んでいたんでしょう。いなくなってほしかったんでしょう。それなのに、どうして、そんなこと言うの?」


 言いながら、私はゆっくりと振り返る。泣きそうな顔でこちらを見ている妹を見て、私は「ああ」とため息をついた。


 泣きそうな顔だった。妹は、普段であれば勝気に輝く瞳を潤ませて、私に縋るような視線を寄越していた。


「ごめんなさい、姉さん」


 嗚咽まじりに妹は言う。


「全部、素直になれなかったあたしが悪いの」

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