始動編

#1:猫目石瓦礫

 母子島。

 広島県は瀬戸内海にある小さな島である。本土から船で十分もかからないところに位置し、大小二つの島からなる個人所有の無人島。現在では浜岡奈央が管理人を務める母子島キャンプ場の敷地となっている。

 きたる八月一日。柳たち一行はまず名古屋から広島県新尾道駅まで新幹線で移動。その後、タクシーで尾道沿岸部へ向かい、そこの港で奈央と落ち合った。

 瀬戸内海の島々はしまなみ海道を中心とする橋によって陸続きとなっているものもあれば、船舶で移動しなければならないものもある。母子島は個人所有の小さい島ということもあり後者だ。管理人の奈央はクルーザーを所有しており、それを運転することもできた。

 柳たちが港に着いたのは、昼過ぎになってからである。

「本日はよろしくお願いします」

 クルーザーから降り、奈央はあらためて挨拶をした。

「こちらこそ、お世話になります」

 林檎は保護者らしく、こちらも丁寧に挨拶を返す。

 そんな大人同士のやり取りを横目に見つつ、柳はクルーザーを観察した。

(小さい……そしてずいぶん使い込まれている印象だ。まさか三年前の事件後にクルーザーを新しく用立てるわけもないから、キャンプ場を開いたときに足として買ったのをずっと使っているんだろうな)

 柳はクルーザーの種類に詳しくはない。ただ見た感じ、女性の奈央よりも男性が好みそうなデザインだと思った。これは納得の話で、奈央が持ち出したクルーザーはいわゆる小型のフィッシングボートである。漁船、というのとは少し違い、スポーツで釣りをする人が乗るような船だ。おそらく奈央の夫の趣味的な使用も考慮に入れた選定だろう。

(キャンプ場へ向かう客や荷物を運ぶのに適した大きさじゃないな……。あくまで個人で運用するものか)

 ただ、奈央とそれから柳たち客人を運ぶのには十分なサイズである。

「よろしくお願いします」

 柳も挨拶し、そして、自分の後ろに隠れている人間を無理に前に押し出した。

「ほら、挨拶しろ」

 彼の後ろにいたのは、小柄な少女だった。年のころ小学校高学年くらいである。柳とはあまり顔が似ていない。それはつまり父親の紫郎とも似ていないということだが、そんな少女の様子を微笑みながら見ている母親の林檎にはどことなく似ていた。父と息子のように分かりやすい相似ではない。ただ二人が並んだとき、漠然と彼女たちは母娘だということを直感するような、そういう気配の似方をしている。

 少女は長い髪を、母親が仕事中そうしていたように緑色のバンダナをリボン代わりにして結っている。今の林檎は逆に長い髪を下ろしているが。少女の丸く柔らかそうな頬は緊張と羞恥で赤みがさしている。

「こ、こんにちは……」

「ふふっ。こんにちは」

 おどおどと挨拶する少女に、奈央は優しく言葉を返し、膝を折って目線を合わせた。

「あなたが話に聞いていた、柳くんの妹さん? お名前は?」

「な……なつめです」

「棗ちゃんね。よろしく」

 自己紹介して、それで限界だったのかその少女――棗はまた柳の後ろに隠れてしまう。

「すみません」

 柳が代わりに釈明する。

「こいつ、人見知りが激しいもので。もう六年生なのにこんなんで……」

「まあまあ」

 愚痴っぽくなる柳を林檎が窘める。

「こういうのは人それぞれだから。私だって棗と同じくらいの頃は、人見知りが激しかったのよ?」

「母さんが人見知りだったってのはまるで実感がわかないな」

 なにせ今では喫茶店を切り盛りしているわけだし、柳の感想は素直だ。

(しかし……どうしてこいつがついてくることになったのだか)

 柳は思い返す。本来の予定では、林檎と柳だけでキャンプに参加する予定だった。ところがキャンプの話を聞いた棗が行きたがったのだ。普段は消極的というか、あまり自分からそういうことを言わないので紫郎と林檎は驚いていた。

 遊びでキャンプに行くわけではないのだが、と柳は嘆息した。

(いや、まさか三年前の事件が今回になって何か問題を起こすわけもないし、だったら遊びに行くのと大差ないか……)

 奈央から聞くところによると、若干名であるが女子の参加もあるという。女子コミュニティ内で何らかの問題が起きたとき、男子の柳では立ち入りにくい部分への干渉に棗が役立つかもしれない。そういうこともあり、最終的に連れていくことになった。

(人見知りのこいつが役立つとも思えないが……。とはいえ思春期の男子と女子なんて水と油みたいなものだしな。棗がいた方がスムーズに関係を構築できるということもあるかもしれない)

 柳は別段、思春期だからといって女子と距離を置いたり気にしたりするようなタイプではないと自負している。そんなに子どもじゃないのだ。とはいえコミュニケーションは相手あってこそのもの。自分がいくら気にしなくても、相手が気にしたら駄目だ。棗自身が関係を築くのは難しくても、彼女を緩衝材代わりに女子連中と関係を構築する端緒くらいなら掴めるかもしれない。そう思うことで、柳は棗の同行に納得することにした。

「さて、それでは行きましょうか」

 奈央たちはクルーザーに乗る。柳が船に飛び乗ると、ぐらりと大きく揺れた。

「気を付けて」

「……揺れるな」

 ふと、空を見る。鉛色の重苦しい雲が天上一面を覆いつくしている。柳は海に関しては素人だが、この荒れ具合と空の様子から、雨が近いらしいことくらいは理解した。

(せっかくのキャンプだってのに、あいにくの天気だな。曇りのままなら暑くなくていいんだが)

 港は海からの風が蒸し暑さを吹き飛ばし、真夏の今日にしては過ごしやすい気温だった。おそらくこれから向かう島も似たような気候だろうと想像できた。

 船に乗り、荷物も積みこむ。波しぶきで濡れないようシートを荷物にかぶせ、ロープで固定する。

「こいつが、どうも出っ張るな」

 固定に苦労したのは、柳が持っていた長細いケースである。釣り竿を収納するロッドケースのようなものだが、いかんせん他の荷物と形状が違うのできちんと収めるのに苦労する。

 クルーザーが港を出ると、やはり海が荒れているのがよく分かった。時折高い波が船を押し上げ、ぐんと跳ね上がる。

 奈央は気難しい顔で船を運転する。その様子をさすがに林檎が心配そうに眺めた。

「大丈夫?」

「え、ええ。……普段は波が高いときは運転しないようにしているので。もともと、船舶免許も念のため取ったようなもので、夫が亡くなるまでは運転も任せきりでしたし」

「それでも三年前からはご自分で運転しているのでしょう?」

「キャンプ場の管理人として雇っている人がひとりいるんですけど、その人も運転できるので任せることが多くて……。それに小型の船だと、波の影響も受けやすいですし」

「そういうものなのね」

 船は慎重に進む。それでも狭い範囲に大小さまざまな島のある瀬戸内海のこと。目的の島はすぐに見えてくる。というより、おそらくあの大きさなら港からも方向さえ知っていれば見えていただろうなと、柳はふと思った。

 海を船で進んでいくというのは、なんとなく、遠くの水平線から徐々に見えてくる島の形を見るような、そういう景色を想像していた。だが瀬戸内海は柳の中にある漠然とした「広大な海」というイメージを一新するものだった。

 島がひしめき合っている。

「島のキャンプ場というから万が一クローズドサークルにもでもなったらと考えていたが……。こう島と島が近いと杞憂だったか?」

 切り裂かれる波音の中、柳の呟きを聞いた棗が首を振る。

「海が荒れたらダメかも」

「荒れるって言っても限度があるだろ。台風が近づいているわけじゃあるまいし」

「瀬戸内海は島がたくさんあるから、海流が複雑になってる。鳴門大橋の渦潮とか」

「……ああ」

 確かに、棗の指摘には一理あった。さすがにここらでは渦潮こそ発生しないが、海流が複雑なのは言う通りだろう。だから奈央が運転を慎重にしているというのもありそうだ。

「とはいえ幸い、スマホの電波が通らないってことはないらしい」

 柳はスマホを取り出して確認する。完全防水仕様なので水しぶきも気にしない。内陸が近いし、周囲の島には人が住むほど大きなものもあるせいだろう。きちんと電波が通っている。

「キャンプ場にはWi-Fiも通っているらしい」

 棗もスマホを見ながら言った。

「そうなのか?」

「サイトに書いてあった。……お兄ちゃん、調べてないの?」

「必要もなさそうだったしな」

 兄が思っている以上に、妹はちゃんと今回のキャンプを仕事として捉えているようだ。普段、探偵の仕事に興味を示さない妹のそういう側面を見て、柳は意外という感想を抱いた。

 そんな話をしていると、すぐに船は目的の島にたどり着く。

「あれが、母子島か……」

 大小のふたつの島が隣り合っている。島同士は一本の大きなつり橋でつながっているのがここからでも確認できる。

「ふたつの島のうち、大きいほうが母島ははじまで、小さいほうが子島こじまと呼ばれています」

 奈央が説明する。

「船着き場は母島にしかありません。子島の海岸は切り立った岩場に囲まれているので、船では近づけないんです」

「海があるけど海水浴が楽しめるというふうではないのね」

 林檎が相槌を打つ。

「ええ。母島の方も岩場が多いので、海水浴を楽しめるような砂浜はありませんね」

 瀬戸内海にも海水浴場はある。だがこの海は岸からすぐ深くなっているようなところが多いのが特徴だ。ゆえに造船所や港として利用されることがあり、呉の軍港などはその代表的な例である。また開放的処遇施設として、造船作業に従事させる塀のない刑務所として有名な松山刑務所大井造船作業場も、愛媛側であるが瀬戸内海に面した海岸に存在するのである。

 そういうことも、あらかじめ調べれば分かっただろうかとふと柳は思う。どのみち遊びに来たという感覚の薄い彼では、海水浴ができるかどうかなど調べるはずもなかったが。

 すぐに船着き場は見えてくる。岩場にコンクリートブロックで整備された簡素なものだった。

 船着き場には既に二台、船が停泊している。ひとつは平べったく大きな船で、いわゆる水上バスとでも呼ぶべきものだろう。人員と貨物の運搬能力は高そうで、キャンプ場最盛期にはこれを使って客を運んでいたのだろうと容易に想像できる。現に、船体の横にはキャンプ場の名前も書いてあった。

 もうひとつは、中型のクルーザーだった。柳たちが乗っている小型で簡素な船と違い、しっかりとした造りで船室も快適なものが用意されていそうな雰囲気だ。釣りのために海へ漕ぎ出す船ではなく、ただ海に漂ってゆったり過ごすことを目的に用意されたような船だった。

(水上バスは見たままキャンプ場の所有物だな。だがもうひとつのクルーザーは……)

 クルーザーはいかにも道楽趣味の金持ちが持っていそうなものだ。三年前、事件のせいでキャンプ場を閉める羽目になり、その後の生活を保険金で賄っているような奈央が持っていそうな乗り物ではない。

「あの船は?」

「午前中に、他のお客さんを乗せてきた船です」

 柳の疑問に奈央が答える。

「今回の参加者のひとりにクルーザーの所有者がいたので」

「……とんだ金持ちもいるものだな」

 ともあれ、柳たちを乗せた船は無事船着き場に到着する。船を止め、荷物を持ってみんなは船を降りた。

「…………」

 島の外観を船着き場から見て、柳は少しだけ表情を固くした。

(どうにも落ち着かないな……。ただの島なのに、嫌な気配ってのを感じる気がする。三年前の事件だって概略すらさして知らないのに不思議なものだな)

 この島で二十人近くが殺された事件が、つい三年前にあった。その事件がこびりつかせて残した妖気のようなものが、島にただよっているような気がしてくる。

「まさか今回、また事件が起こるはずもないが……」

「どうしたの?」

 柳の後ろから林檎が声をかける。

「いや…………ん?」

 そのとき。

 がさりと。

 何か物音がした。

 柳と林檎はとっさに音のした方を見る。

 物音の出所は、午前中に人を運んできたというクルーザーである。その前方甲板に、誰かがいる。

 その誰かは、甲板の上に寝転がっていたらしい。ゆえに死角になっていて、今まで目に留まらなかったようだ。

「ふわあぁ……」

 その人物は、男だ。年の頃は自分の父親、紫郎と同じくらいだろうかと柳は思った。だが父親の元探偵としての訓練を積み、人を見る観察力も相応に備えている柳が年齢の測定をおざなりにせざるをえなかったのには、理由がある。

 その男は、全身に火傷の跡があったからだ。着ている半袖Tシャツの袖から覗く腕だけでなく、顔中にも火傷で皮膚のただれた跡が大きくついている。黒くかさぶた状になっている部分もあれば、皮膚がめくれて白くなっているところもある。元々の肌色と合わせて、その男は三色まだらの怪人のように見えた。

「…………っ」

 その容貌の圧迫感に、思わず棗は後ずさりしていた。そこまでの畏怖は感じないまでも、柳も息をのんで硬直する。

「あら」

 一方。

 奈央の方はそんな男を特に気にするふうな様子も見せない。客商売柄しいてそういう態度を取っているというのではない。まるでその怪人のような男が、どこにでもいる十把一絡げのただの人間であるかのような態度を取った。

さん、そんなところにいたんですね」

「…………っ!」

 奈央の呼びかけに、柳は反応する。

(猫目石……だと? 猫目石と言ったのか? ……すると、こいつが)

「ええ、まあ」

 猫目石と呼ばれたその怪人は、ぼうっとした態度で頭を搔いた。髪の毛は鳥の巣のようにくしゃくしゃで、手入れのあまりなされていないのが分かる。

「釣りをしていたんですよ。ただ僕は釣りをして一匹もかかったことがないもので。いつも坊主と相場が決まっています」

「そうでしたか」

 ちらりと、猫目石は柳の方を見る。柳、というより、彼の持っていたロッドケースを、というのが正確かもしれない。釣りの話が出たので視線がそっちに向かったのだろうか。

「よいしょ」

 そんな呑気な様子で、猫目石がクルーザーから降りる。

(なんだこいつは……)

 同じ陸地に立ち、同じ目線の高さになると猫目石の持っていた圧迫感はたちどころに消えた。というのも、彼は小男の部類だったからだ。成人男性の平均よりはやや低い背丈。その上猫背気味なのでどうしたって押し出しが弱い。強面なのは火傷の跡だけである。それ以外は見た目も態度もひ弱そうな男だった。

「ご紹介します」

 奈央が間を取り持つ。

「今回のキャンプに参加してくださるの探偵、猫目石瓦礫さんです」

 その名前を、柳は知っている。

 猫目石瓦礫。

 今の探偵全盛時代を切り開いた最初の探偵。開拓者でありながら、今ではどこで何をしているのか情報のまったくなかった男。

「ええ、知っています」

 林檎もそう答えた。ただ、彼女が知っていると言ったのは、柳とは違う意味だった。

「夫の高校時代の同級生ですから」

「ずいぶん久しぶりですけど、あまり変わりませんね、林檎さんは」

 などと、猫目石瓦礫は林檎に気安く話しかけた。

「父さんの、同級生?」

「ええ。愛知県に高校生探偵と言えばこのふたりと言われたうちの片割れ。それでいて姿を消していて、あの人も所在を最近掴んだくらいのものだったのだけど」

 それで奈央が広島の出だと聞いて、父親はそのことに注意を払っていたのかと柳は今更のように思い返す。

 かつてとはいえ、自身と双璧をなした探偵がいると聞いていたから。

(だが、だとして……)

 柳は考える。

(この男……猫目石瓦礫が広島にいることを父さんが知っていたとして。どうして「猫目石に気をつけろ」という忠告になるんだ?)

 その疑問、その真意はいましばらく先になるとして。

 予想外の探偵の出現。

 それが今回の事件の始まりを告げる、最初の珍事だった。

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