私のための小さな戦争

谷風 雛香

第1話 


 雨が空に登っていく。

 さっきまで、グラウンドにあったいくつもの小さな水溜まりは夏の太陽に照らされて、その形を溶かしていっている。


 窓のすぐ下を覗けば、白いユニフォームを着た野球部がランニングをしているのが見えた。


 私はそのまま、窓に掛けている自分の手元に視線を移す。そして、ユニフォームと同じくらい真っ白な進路希望の調査票を見つめた。


「紙飛行機にでもしてやろうかな…」


 行き場のない感情を、風に乗せて飛ばしてしまいたかった。でも、私にはそんなことをする度胸はなくて、目元が熱くなるのを感じながら私はその紙をカバンに突っ込んだ。


 家に帰るため、誰もいない教室から出ると鍵を返しに職員室に向かう。

 最後の階段を降りてすぐ右側に、職員室の扉はあった。


「3年4組の高橋です。教室の鍵を返しにきました。失礼します」


 扉に数回ノックをして、そう言って中に入る。

 職員室には、先生達がまばらに座っていた。たぶん、他の先生達は部活の顧問として外に出ているのだろう。

 私はさっさと鍵を元の場所に返すと、職員室から出て靴箱に向かった。目的の場所まであと3メートルほどの所で後ろから声を掛けられる。


「高橋、いま帰るのか。気をつけて帰れよ」


「はい先生。さようなら」


 声の主は、クラス担任だった。

 私はこの場からすぐ離れたくて、そっけなく返事した後、すぐに駆け足で下駄箱に向かう。


「高橋!進路希望ちゃんと出せよ。親御さんからも連絡がきて、急かされてるんだ。頼むよ」


「…はい」


 背後から再度、声を掛けられる。虚しい抵抗も呆気なく、聞かれたくない質問をされてしまった。

 私は肩を落としながらそのまま学校を出た。


 帰りの駅に向かいながら、私はこれまでの両親との記憶を思い出す。

 両親は生真面目な所を除けば、ごく普通の優しい人達だった。それが急におかしくなったのは、歳の離れた姉が反抗期になったあたりからだった。


 姉は学校をよくサボるようになり、その度にお母さんが謝りに行く姿を、当時まだ幼かった私は何度も見た。その後なんとか、姉は専門学校に進学したが、その半年後に突然学校を辞め音信不通となった。


 それから、両親は私の進路や趣味に口を出すことが増えていった。

 「部活をする時間があるなら塾に行きなさい」「進学先は国立大にしなさい」「そんな派手な格好やめなさい!お姉ちゃんみたいになるわよ!」


 もう、あげるだけでキリがなかった。


 そして、私は両親の言うことに流されるままに、製菓学校に進学しパティシエになるという夢も諦めるようになった。


 そうやって、私が過去のあれこれを思い出していると、頬に水滴が落ちてきた。その水滴は、最初はポツポツと降っていたが、少し経てば物凄い音をたてる豪雨となった。

 私は急いで、近くのドラッグストアに駆け込んだ。


「傘、学校に置いてくるんじゃなかった」


 項垂れて、自分の運のなさにため息をつく。それから、何気なく横に視線を向けるとそこには化粧品と一緒に鮮やかなマニキュア達が並んでいた。


「きれい…」


 そういえば、マニキュアを最後にしたのはいつだっただろうか。もう思い出せない。

 綺麗に陳列されたマニキュアは、光を反射してキラキラと光っていた。


 気づけば私は、赤いマニキュアを買ってしまっていた。


 家に帰り、早速マニキュアを塗ってみる。

手の爪に塗るとすぐにバレてしまうので、塗るのは足の爪だ。

 久しぶりの感覚に、手元が震えてとても不恰好な見た目になってしまった。

 だけど……。


「なんか、すっごく強そうで良い。バレたらお母さん怒るだろうなぁ」 


 もしもバレた時のことを考えて、くすくすと笑ってしまう。両親に反抗するのはこれが初めてかもしれない。

 他の人が聞いたら呆れてしまうだろうか?笑われてしまうだろうか?

 それでもこの赤いマニキュアは、私の小さな戦争なのだ。

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私のための小さな戦争 谷風 雛香 @140410

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