それは、俺がシガーの家に居ついてから、五年目の冬だった。家主が出かけている日中、俺は居間で、戸棚の上に的を張り、投げナイフの練習をしていた。

 何度目かの投擲の後、玄関で呼び鈴が鳴った。宅配だろうかと振り返ったところで、二三回目が鳴り響く。どうも怪しい、そう思った俺は、右手の袖の内側にナイフを忍ばせて、玄関に立った。


 ぼろいアパートだが、玄関ドアだけは取り換えられていて、刃物を通さない上に銃弾も寄せ付けないほどの硬さを誇っていた。俺はそれを信用して、未だに呼び鈴が鳴る中、魚眼レンズから外廊下を覗いた。

 立っている男の姿を認めた時、俺は驚いて、思わずドアを開けてしまった。


「先輩」

「おう、チビ……って歳でもないか」


 彼は、五年前ぶりに会う先輩だった。

 しかし、先輩なのは確かだが、五年以上に歳を取っているように見えた。頬がげっそりとこけて、背も丸めている。笑い方も、こっそりと忍ぶようで、前歯が抜けた跡が見えなかった。


「どうしたんですか」

「いや、ちょっと、な……」

「シガーを殺しに来たのですか?」


 迫力の無い先輩だが、油断は出来ない。それに、シガーを殺すのは俺だ。

 その意思を込めて先輩を睨むが、彼は気まずそうに目を泳がせていた。


「それは、別にいいんだよ、もう」

「では、どうして、」

「お前、いくら持ってる?」

「……すみません、持ち合わせはないんです」


 予想外の申し出に驚きながらも、そう返した。実際、生活費はシガーが支払っており、お使いを頼まれた時も、お釣りはしっかりと回収された。その割には、俺が欲しいと言った本などは気前よく買い与えてくれたが。

 直後、先輩は短く舌打ちをした。その剣呑な表情に、俺は「チビ」だった時を思い出し、身震いがした。


 その隙に、先輩はドカドカと部屋に上がり込んできた。そして、勝手に台所の棚を探り始める。


「な、何してんるんですか?」

「どっかに金がねぇかなと思って」


 家探しをする先輩は、棚にあったスプーンや缶詰などを、遠慮なく落としていく。シガーが帰ってきたら言い逃れ出来ないほど、ダイニングは散らかっていった。

 俺はこの家が荒らされていくことへの怒りと、ここまで落ちぶれてしまった先輩への失望とで、暗い気持ちが渦巻いていた。何もめぼしいものを見つけられなかった先輩は、先程まで俺がいた居間へと乗り込んでいく。


「先輩、もういいでしょう。みっともないですよ」

「俺だって、こんなことはしたくねぇんだ……」


 そう言いながらも先輩は、棚の上の物を落としていく。本が落ち葉のように散らばった。

 片付けは大変とはいえ、家探しをされたところで、シガーの財産はどこか別の所に預けられているようなので、痛くも痒く無い。だが、俺は、先輩がシガーの命を懸けて稼いだ金を掠め取っていこうとしていることが許せなく、その腕を掴んだ。


「止めてください」

「うるせぇ!」


 先輩はそう叫びながら、的に刺さっていたナイフを抜き、俺に向かって振り上げた。

 左手を振り払われた俺は、異常なほど冷静で、右手のナイフを取り出すと、一歩踏み込むことで先輩の懐に入り、胸にナイフを深々と突き刺した。


「――――あ」


 先輩の口から洩れたのが、声だったのか息だったのかは分からない。力が抜けた先輩の全体重を、支えるために必死で踏ん張っていた。

 俺は、ナイフの刺さった箇所から、血が吹き出す瞬間だけを見ていた。血は止めどなく、先輩のシャツを染め、俺の腕にも伝ってくる。


 呼吸も停まった先輩の体を、乱暴に横たえた。光を失い、瞳孔の開いた先輩の目を見つめる。

 俺が殺した。そんな言葉が浮かんだ。ナイフが肉を裂く、あの瞬間の感触を思い返す。俺が殺した。


「赤毛?」


 背後から呼びかけられて、はっと我に返った。いつの間にか、外では日が沈み、室内は暗くなっていた。

 パチンと音がして、電気が灯された。振り返ると、今の出入り口に立つシガーが、俺のそばの死体を見て、目を丸くしていた。


「これは……」


 と言いかけて、黙り込んだ。先輩を殺してしまったことに対する言い訳をしたいのか、部屋が荒れている理由を説明したいのか、自分でも分からなくなったからだった。

 何も言えない俺に、シガーが近付いてきた。彼は見たことのない表情をしていて、大いに戸惑った。ただ、叱られても褒められてもいいように、覚悟していた。


 シガーは、黙って俺を抱き締めた。予想外の動きに、俺の体は固まったが、初めてのハグに全てを任すと決めた。俺も、シガーの背中に手を回した。


 あの瞬間、俺は泣いたのか、微笑んだのか、全く覚えていない。この時の気持ちを記憶してしまえば、その後の俺の心は崩壊してしまうと自分で判断し、削除したのだろう。

 今の俺に言えるのは、なぜシガーが、こんなことをしてきたのかを、この時の俺は理解していなかったということだけだった。






   ▲






 スラム街の外、車で一時間ほど走った場所に、森がある。初めて俺が人を殺した日の翌朝、そこへ先輩の死体を埋めに行った。

 シガーが手配したトラックに揺られて、俺たちは森へ進む。太陽が昇るよりも早い時間であるため、新聞配達人もいなかった。


 道中、俺たちは無言だった。五年の歳月で培った、黙り合っていても気まずさがない沈黙とは質の違っているそれが、車内を支配していた。

 森を通る細道を進んでから、適当な位置にシガーは車を停めた。そこからさらに、木々を分け入った箇所を目指す。先輩の死体は、どんなに重くとも、俺が背負って運んだ。


「……この辺でいいだろう」

「分かった」


 ちょっと木々の開けた場所で、先輩の死体を下ろした。土が少々柔らかくなっていて、掘りやすそうだった。

 太陽が昇ってきたとはいえ、真冬の風は冷たかった。汗を掻いていた俺は、歯がガチガチ鳴るほど震えていた。そんな俺のすぐそばに、シガーは持ってきていたスコップと折り畳みの自転車を置いた。


「俺は仕事へ行く。お前、帰り道は分かるか?」

「大丈夫。覚えた」

「午後からはもっと冷えて、雪になるらしいからな、体調を崩す前に帰ってこい」


 シガーの忠告に、俺は頷いた。彼は軽く笑ってから、踵を返し、自分の車へと戻っていった。

 それから、一心不乱に穴を掘っていた。俺はこの先どうなるのか、シガーはなんでこんなに俺に優しいのか、先輩の仲間たちは先輩を探しているのかなど、考えることはたくさんあったが、どれも浮かばないほど集中していた。


 十分な大きさの穴の底に、ブルーシートに包まれた先輩の体を置いた。ザッ、ザッ、と、一定のリズムで、その体に土が被せられていくのを、俺がやっているのに、他人事のように感じながら見ていた。

 土を全て被せた後、先輩の顔がある辺りに、手を置いた。


「先輩、すみませんでした」


 そう、素直に謝ることが出来た。あの瞬間、自分を守るためにはああするしかなかったと思いつつ、それ以前に彼を止められたのではないかという後悔の念があった。

 彼は善人ではなかったが、俺の恩人なのは確かなので、感謝の意も、その一言に込めた。


 荷台にシャベルを括り付けた折り畳み自転車を、森の中で押しながら歩いた。木々の隙間から見える道を、街の方向へと走っていく車が見えたので、咄嗟に木の後ろに隠れる。

 こんなところを通る車がいるなんて。警察のものではなさそうだが、細心の注意を払い、その行く先を見守っていると、森の中で車は止まった。


 車の後部座席と助手席から、男が一人ずつ降りてきた。助手席の男が煙草を咥えると、後部座席の男が火を点けた。どうやら、車のシートに匂いが付くのを嫌い、ここで喫煙するようだ。

 このまま、彼らが去ってしまうまで隠れ続けるべきなのだが、俺は妙な胸騒ぎがして、スコップだけを手にしてそっと身を隠しながら、二人に近寄った。気付かれないまま、俺は彼らの話声が聞こえるほどすぐ近くの茂みに蹲る。


「……それで、シガーの返事はどうだ?」


 煙草を吸う男の一言に、俺は声を漏らしそうになった。改めて、彼の姿を観察する。壮年の男で、精悍な顔つきにはこれまでの人生の重みが刻まれている。来ているスーツも嵌めている指輪も、明らかに高級品だった。

 一方、もう一人の男は、指輪などはしていないが、ブランド物のスーツを着こなしていた。煙草の男に対する返答や態度などで、彼の部下なのだろう。


「それが、あまり芳しいものではありませんね」

「ああ、アイツにも、長いこと頑張ってもらったのだから、飲み込んでほしいもんだね」


 どうやら、彼らはシガーの雇い主であるマフィアらしい。俺がそう見当を付けると、携帯電話の着信音が鳴った。

 煙草の男は、自身の携帯電話を取り出し、画面を見ると鼻で笑った。


「見ろ。絶妙なタイミングだ」


 電話の主はシガーなのか。俺は、先程よりもさらに緊張した気持ちで、煙草の男が電話を耳に当てるのを見ていた。

 男は、「ああ」「そうか」と相槌をするが、シガーの言葉は全く聞こえない。二人の会話の全体像が把握出来ないのを歯痒く思いながら、俺は薄笑いを浮かべる男を眺めていた。


「そうだな。お前の流儀はよく分かっている。しかし、それ以上に組織の命令が大切なのではないか?」


 氷のように温度の無い言葉を、男は放った。良くないことが起きている。その予感に、俺の口は急激に乾いていく。

 シガーは、何か話しているようだった。長いこと、男は目を閉じて、それを聞いている。


「もういい、もう、お前は十分だ」


 目を開けた男は、ただ、それだけを言って、電話を切った。俺は、なぜだか鳥肌が立った。嫌な予感によって、全身が乗り物酔いのような気分になっていた。

 携帯電話をポケットに戻した男に、部下が尋ねる。


「ボス、シガーはどういたしますか?」

「処分だ」


 俺は、立ち上がった。スコップを握る手に力を入れ過ぎて、血管が浮かび上がっていた。母親に見捨てられた時も、先輩に殺されかけた時も感じなかった怒りが、俺の中で沸騰していた。

 滾る怒りに身を任せて、状況を飲み込めていない部下の男の頭を、スコップで突き刺した。脳漿が飛び出す向こう側、エンジンがかかった車の助手席ドアに、ボスと呼ばれた男が手を伸ばす。


 今すぐにも、そいつへも襲い掛かるべきだが、部下の頭からスコップをすぐに抜けず、ボスが助手席に乗り込む隙を作ってしまった。あっという間に、車は街へ向かって走り出す。

 俺は歯ぎしりをしつつ、今すぐシガーへこのことを知らせなければと思った。しかし、俺には携帯電話はない。死んだ部下のスーツのポケットから彼の携帯を取り出すが、ロックが掛かっていた。


 一度、森の中に戻り、自転車を回収した。必死にペダルを漕ぐ。

 街の中も駆け抜けて、シガーの家に入る。一晩中掃除したので、昨日よりも綺麗になっているそこに、シガーの姿はなかった。


 ただ、それは期待していない。俺は、ここでシガーに電話するために戻ったのだから。しかし、何度鳴らしても、シガーは電話を取らなかった。

 ふと、ダイニングのテーブルの上に、朝には無かった手紙を見つけた。それをポケットにねじ込んでから、外へ飛び出した。






   ▲






 シガーを見つけたのは、すでに午後、雪が降る中だった。

 廃工場の裏手に、シガーは俯せになっていた。いつものくしゃくしゃのコートには、八つの穴が開いていた。茶色く汚れた雪の上に流れた血は、まだ鮮やかな赤色だった。


 死者の沈黙に、雪が降り積もる。

 まるで、眠る子供に布団をかけるように優しく。まだ残っている体温を奪うかのように、容赦なく。


 ……シガーの死体を目の前にして、愚鈍な俺はやっと気が付いた。

 俺は、誰かよりも先に殺すためにシガーを探していた訳ではない。シガーには死んでほしくなかった。ずっと前から、そう思っていた。


 ポケットから手紙を取り出した。白い封筒の裏面には、「赤毛へ」とだけ書かれていた。

 中には、三つ折りの白い紙が二枚を入っていた。シガーの字が綴られた、一枚目の紙を読む。


『赤毛


 五年前、お前の目を見た瞬間、シンパシーを抱いた。

 それは、かつての俺と同じ、愛されたことのない者の目をしていたからだった。


 俺は、お前を愛してやりたいと思った。そのために俺ができることは、俺の全てをお前に与えることだった。

 この街を生き抜くための技術や知恵が、お前には必要だと思った。お前は耕したばかりの土のように、ぐんぐんと知識を身に着けていって、俺は嬉しかった。


 しかし、それは間違いだったと、昨晩、思い知らされた。人を殺し過ぎた俺は、一人を殺してしまった時の苦しみや痛みを、忘れていた。

 俺は、お前にたくさんの道を与えるべきだった。お前には、数えきれないほどの可能性があるはずなのに、それら全てを、俺は摘んでしまった。


 ただ、まだやり直すことは出来る。お前には、本当の自由を与えようと決意した。

 二枚目の紙には、俺が用意できる道を全て書き出した。それを鑑みて、お前は自分の道を歩んでほしい。


 最後に、俺は、独り善がりだったかが、誤っていたが、お前のことを愛していた。

 それだけは、知っておいてほしい。』


 二枚目には、彼の言う通り、俺の未来への選択肢が書き連ねてあった。

 自首の仕方、国籍の作り方と連絡を付けた孤児院の紹介、教会で洗礼を受ける方法、俺の母親のいるドラッグ依存症回復施設の名前、そして、裏社会の渡り方など、事細かに説明されている。


 最後には、シガーの本名ととある情報屋の居場所が書いてあった。その情報屋にシガーの本名を伝えると、彼の全ての財産を渡されることになっていた。

 俺は、シガーが国籍の作り方の説明の中で、例として書かれた名前を指でなぞった。「あまり考えずに決めたものだから、変更してもいい」と注意書きがあったが、シガーと同じ苗字なのが、素直に嬉しかった。


 昨晩、帰ってきた時のシガーの顔を思い出す。彼は、後悔と憐憫の表情をしていた。その後のハグは、彼の懺悔と、俺をこの先も愛し続けるという決意が含まれていたのだ。

 ……それを理解した瞬間、俺がやりたいことは決まった。だが、その方法は手紙に書かれていなかった。


「――確かに、あんたの愛は間違っていたな」


 視線を、手紙から物言わぬシガーへ移す。その背中には、すでに雪が積もっていた。


「だから俺も、あんたが望んでいないやり方で、愛を返してやるよ」


 俺の誓いは、沈黙の中で、積もり続ける雪へと吸い込まれていった。






   ▲






 あの日のように、今夜も良く冷えていた。分厚い防弾ガラス越しに、汚らしい街へ降る雪を見る。

 振り返ると、狭いながらもシャンデリアがぶら下がる豪華絢爛な部屋で、不釣り合いな死体があちこちに転がる。それら全てが、銃弾を受けていた。


 そして、一番立派な椅子に座っている壮年の男の死体には、八つの穴が開いていた。


 今日は、シガーの命日。三年を掛けて、俺は彼の処分を命じた、マフィアのボスを殺した。

 仇を討てたが、達成感など全く無かった。森の中で、ボスとその部下の会話を聞いてから湧き上がったマグマのような怒りは、すっかり冷えて固まり、俺の中は空虚になっていた。


 窓の外をもう一度見る。高層ビルの上から見ると、スラム街が一望出来る。シガーが殺された場所にあった廃工場は、完全に解体されて、更地になっていた。

 このマフィアについて調べていく内に、彼らが、街の区画整備計画と裏で繋がっていることが分かった。立ち退きを渋る住民の殺害を命じられていたシガーだったが、無抵抗な一般人は手に掛けないというポリシーのため、それを断ったという。


 マフィアを潰した今、俺はどうしようかと考える。もう、普通の人生には戻れない。

 シガーの手紙では、ダビー・ファミリーというマフィアが勧められていた。そこは小さいが、合法かどうか関係なく、薬のビジネスには手を出していないという。裏社会で暮らすのなら、そこに入るのが一番だと思った。


 この町を出るのなら、隠れ家の荷物を整理しないと。買い込んだ大量の銃器をまとめよう。

 その前に、シガーの墓に報告しよう。もしもあいつが幽霊になっているのなら、絶対に小突かれるだろうが。それから、カカのおやっさんにも挨拶をして、熱々のラーメンを喰おう。


 懐から、煙草を一箱取り出した。シガーがいつも吸っていた奴だ。国内で一番安いそれをじっと見る。

 いつだったか、飯の後、一服しているシガーに「どうして煙草がトレードマークなのにシガーと呼ばれているのか」と尋ねたことがある。


「大昔に鞍替えしたんだ。葉巻から煙草に。その名残だ」

「なんで?」

「大切な人が吸っていたからな」


 懐かしそうに目を細めるシガーに、大切な人とは誰なのかは聞けなかった。

 初めて彼の愛飲の煙草を咥えて、火を点けた。煙を一吸いする。


「……まっず」


 その煙草は、とんでもなく苦かった。初の煙草が体に合わないのか、こんなに安いからなのかは分からない。

 それでも、この煙草をこれからも吸い続けるのだろうという確信があった。


 信じられないほど白い雪が落ちていくのを眺めながら、俺は初めての一本をじっくりと吸っていった。






   ▲






 過去を思い起こして、運命で定められたというよりも、自分でこの道を選び取ってきたような気がした。いや、あんな光景を見せられたからこそ、シガーの仇を取るという選択肢しかなくなってしまったの言うのだろうか……。

 どちらにせよ、俺が普通の家庭に生まれていたら、もうちょっとマシな人生を送れていただろう。今の自分に後悔はしていないが、その可能性は浮かべておきたい。


 一方で、普通の家庭に生まれたのに、自ら道を踏み外していった奴もいるのだが……あいつについては、また別の機会に考えてみよう。



























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沈黙に積雪 夢月七海 @yumetuki-773

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