天然と事件

 そうして織姫が結人ゆうとのことを十分に理解できていなかったにも拘らずここまで致命的な事件が起きずに過ごせたのは、もはや奇跡に近い幸運だっただろう。

 もしくは、彼女の底なしの朗らかさと天然ぶりが、彼の感情の発火点を微妙にはぐらかすことが出来ていたからかも知れない。彼女の何も考えてなさそうな能天気な笑顔を見てると、イライラしてるのが馬鹿馬鹿しくなるというのは確かにあった。

 しかし、それだっていつまでも上手くいくとは限らない。事実、五年生の三月の終業式直前、事件が起こってしまったのだから。


 昼休憩の時、以前から何かと結人にからんでくることがあった同級生の男子と些細なことでケンカになり、彼に負けそうになったその男子生徒が鋏を取り出しそれで彼の顔を殴ったのである。結果、結人は額を三針縫う怪我をして、更に反撃を試みた際に胸に強烈なタックルを食らい肋骨にひびが入る重傷を負ってしまったのだった。

 なにしろ、身長で十センチ、体重で十五キロ違う相手である。しかも相手も暴力は日常茶飯事だった奴だ。相手を全力で攻撃することにも躊躇がない。さすがに無謀であったのだろう。

 そんなことがあってもなお騒ぎを大きくしたくなかった学校側は双方に働きかけ和解させることで穏便に収めようとしたのだが、相手側がそれに納得しなかった。なんと、ケンカの原因は結人側にあるとして謝罪しなければ告訴も辞さないと言い出したのである。

 が、いくら教師が止めに入った時には結人が相手に馬乗りになっていわゆるマウントポジションを取ってたとは言え、鋏で殴られて三針縫う怪我を負ったのも肋骨にひびが入る重傷を負ったのも結人だったために、事を大きくすれば不利になるのは向こうの方だった。

 だがその辺りの損得勘定もできないのか何か勝算があるのか、男子生徒の保護者側は一歩も引こうとしなかった。引くどころか恫喝さえ用い学校に捻じ込んできた。すると学校はあろうことか結人側に相手に謝罪するように要求してきたのだ。

 さすがにこれには織姫も納得がいかずに憤慨して山下達に相談を持ち掛けたところ、

『もし学校の対応に不満があるのなら無理にその学校に通わせるのではなく、自分の娘が通う学校への転校も考えてみてはどうか?』

 と持ちかけられ、それまで結人を通わせていた学校には愛想が尽きていたことと、勤めているデザイン会社が京都市にあるということで、『渡りに船』とばかりにその提案に乗ったというわけである。


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