第29話

 甲板に横たわる愛工に叶槻が駆け寄る。愛工の傷を見た叶槻は大きく目を見開いたまま黙り込んでしまった。愛工は自分がもう助からないことを悟り、荒い息の中で叶槻に語りかけた。

「俺は……。今まで何をやっていたんだ……」

「愛工、しっかりしろ!今軍医殿が」

「艦長、申し訳ありませんでした……。艦をお返しします……」

 そう言って愛工は震える手で敬礼をした。

「愛工!」

「家や家族を失っても、何も出来ない自分が悔しかった……。間違った戦い方をしたせいで家族を死なせてしまったことが悔しかった……。もしかしたら、この戦い自体が間違っていたのかも知れない……」

 愛工は目に涙を貯めてそれだけを言うと、敬礼をする手が力無く甲板に落ちた。

「愛工……、副長……」

 蘭堂と引馬が遅れて駆けつけた。蘭堂は素早く救命処置をしたが、程なくして項垂れて言った。

「駄目でした……」

「愛工!すまん!俺がお前を止めていれば、こんなことには!」

 引馬が大粒の涙を滝のように流しながら親友の体を抱き締めた。

 甲板上の全員が静まり返る中で、叶槻はゆっくりと立ち上がり、彼らに語りかけた。

「皆、聞いてくれ。愛工副長は死んだ。反乱を起こしたのは彼だが、そうさせたのは俺だ。もっと彼と話し合っていれば、副長の抱えている不満や歪みを幾らかでも和らげることが出来たかも知れない。副長を反逆者にしてしまったのは俺だ。そして……、奴だ!」

 叶槻は殺気の込もった瞳で丘の上の邪な神を睨み付けた。太古の邪神は再び立ち上がり、その眼を伊375潜に向けている。邪神は最初の標的を伊375潜に定めたのだ。吹き飛ばされた左腕は肩の付け根から急速に再生されていた。

「奴は何億年も昔に地球を支配していた邪神で、クトゥルフというそうだ。永い眠りの後、世界を滅ぼして再び支配するらしい。そいつが今甦ってしまった。あいつの邪な思念は人間を不安定にして惑わせる。副長や諸君が反乱を起こしたのは、奴の影響を受けたせいでもある。思えば、あの海流に巻き込まれた時から俺たちは奴の思念を受け続けていたんだ。俺は丘の上に立つ奴の姿を一目見てわかった。あれはこの世に存在してはならない、悪の集合体だ。おそらく皆も同じことを感じただろう。奴が背中の翼を使って他の陸地に飛んで行ったら、そこは地獄に変わる。もしかしたらそこは日本かも知れないんだ。絶対にここで食い止めなければならない。それが出来るのはこの潜水艦と俺たちだけだ。頼む、俺に皆の力を貸してくれ。皆の持つ、大切な何かを守るために、俺と一緒に戦ってくれ。お願いだ……」

 叶槻は頭を下げた。返答はない。数秒後に頭を上げた叶槻が見たものは、静かに敬礼をする乗組員たちの姿だった。叶槻は小さく頷き、仲間たちに言った。

「これより日本海軍伊375潜は邪神クトゥルフに対する戦闘を開始する!総員配置に付け!」

 応!

 そう声を上げて各々は整然と移動して行く。その中で叶槻に近づく男がいた。眼を潤ませた蘭堂が、か細い声を出した。

「艦長、私は命惜しさにあなたを裏切った……」

「軍医殿、いや蘭堂さん。俺にはあなたを責める資格はない。あの金塊を日本に持ち帰れば、俺は出世出来る。輸送用潜水艦の艦長なんていう、しけた任務から解放される。そんな、ろくでもないことを考えていたんだ……」

「艦長……」

「だが、もうどうでもいい。俺は奴を、俺たちを弄んだあのくそったれの蛸もどきをやっつけてやりたい。人間を舐めるなと思い知らせてやりたい。蘭堂さん、協力してください」

 蘭堂は素早く右手を頭の横に付けた。伊375潜に乗り込んでから、叶槻は初めて蘭堂の敬礼を見た。

 今ここに、伊375潜は遂に人艦一体となった。人類文明の最先端兵器が、世界の命運をかけて太古の邪神との戦いを開始した。

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