これからずっと幸福の国で

猫屋ちゃき

これからずっと幸福の国で

『お前はかわええのぉ』

 

 辰兄ぃの優しい声がする。

 水面の向こうの、ずっとずっと深いところから。



「小鞠はほんとうにかわええ」


 辰兄ぃにそう言われると、あたしは誇らしくて仕方がなかった。胸の奥が優しくくすぐられるみたいな、そんな幸せな気持ちになる。

 ほかの人にいくら褒められたってちっとも嬉しくないのに。

 だって小鞠は真実かわいくて、それは生まれたときから当たり前のことなんだもの。

 磨き上げられたようにつやつやの黒い髪も、職人さんがこの世で一番きれいな土をこねて焼き上げたみたいな白い肌も、長い睫毛で縁取られた大きな目も、その中心に収まっている黒い宝石のような目も、春一番に咲く梅の花を思わせる唇も、すべてが特別なの。

 だから、小鞠の周りの人はみんな言う。

 「小鞠ちゃんは神様に愛されるために生まれてきたんだね」って。


 小鞠は田舎に生まれていなけりゃ、お姫様になっていたのではないかって思う。

 そのくらいかわいくて、あたしを見た人たちはみんな笑顔になるから。

 あたしが生まれた村も、家も貧しかったけれど、あたしはいつもきれいなお着物を着せてもらって、美味しいものを食べさせてもらっていた。

 それは、小鞠が「神様に愛される子」だから。神様に愛される小鞠のことを、みんなで大事にしなきゃいけないからだって。

 そういってみんなが優しくしてくれるから、小鞠は生まれてからずっと何かに困ったことなんてなかった。


 それでも、辰兄ぃの存在は特別だった。

 辰兄ぃは小鞠を、いつもかわいがってくれた。

 ほかの人が人形でも愛でるみたいに接するのとは違って、ちゃんと人間として扱ってくれた。

 字の読み書きを教えてくれたのも、歌を教えてくれたのも、外の世界を見せてくれたのも、全部辰兄ぃだった。

 ほんとうは、小鞠に許された世界は家の中と縁側から覗く庭の景色だけだったのだけれど、辰兄ぃがたまにみんなに言って、外へ連れ出してくれた。

 少し大きくなってわかったことで、辰兄ぃはこの村の偉い家の息子らしい。だから、小鞠のことで周りに強く言っても許されていたみたい。


 辰兄ぃは自分だけがほんとうに小鞠のことを思っている唯一の存在だと信じていたから、すごく大事にしてくれた。

 厳しかったけれど、大切にされているのがわかった。叱ったりはしないけれど、小鞠が嫌がることでも必要なことは、できるようになるまで教えてくれた。

 そのおかげで、小鞠はみんなに必要ないって言われていたのに、本が読めるようになったし、手紙が書けるようになった。

 「小鞠が苦労したら嫌やけ、厳しくするけね」と、いつも言っていた。

 辰兄ぃが言う苦労というものが、小鞠には少しも想像できなかったのだけれど。


「もっと偉くなって小鞠のこと守るために、外に勉強しに行ってくるけ」


 そう言ってある日、辰兄ぃは村を出ていった。

 今でも十分偉いのに、まだ足りないらしい。

 小鞠には全然理解できないけれど、小鞠の人生がつまらなくなってしまったのはわかった。

 時々、辰兄ぃが本と一緒に手紙を送ってくれるから、それにお返事を書いたりもらった本を読んだりして暇を潰した。

 でも、辰兄ぃがいないと世界はとても退屈だった。

 退屈だけど、小鞠はどこにも行くことができない。だって、外に出てはいけないことが、出てしまったらみんなが困ることがわかっていたから。

 みんなは、それこそ神様にでもお願いするみたいに、小鞠にここにいてほしいと言った。然るべきときが来るまでここにいてほしいと。そのためにお世話しますので、と。

 子供のときは無邪気に、みんな小鞠のことが好きなのだと思っていたけれど、大きくなるにつれてそれだけではないことはわかってきた。

 だから、小鞠はどれだけ退屈でも、この何も起きない静かな世界にいてあげようと思っていた。


 でも、静かな世界はずっとは続かなかった。

 あるときから、天候不良が続いて作物が穫れなくなった。

 それをさかいにして、みんな元気じゃなくなっていった。みんなの気持ちが、少しずつ少しずつ荒んでいくのがわかった。

 家の中で、お父さんと村長さんが言い争う声も聞こえてきた。


「十五まで……十五歳まで待つと言うたやないですか! あの子はまだ十三ですよ!」

「数えじゃ十五だろう。それに、もう体もできとるから問題ない。とにかく……もう待てんのだ!」

「そんな……!」


 村長さんが何か提案して、それに対してお父さんが反対しているみたいだった。

 提案……ではなくて、もしかしたら何かを一方的に突きつけられたみたいにも聞こえた。

 とにかく、お父さんたちはもめていた。そして、圧倒的に旗色が悪いということは伝わってきた。

 そんなときに、また別の騒ぎが起きた。


「あのガキが……こんな手紙を一方的に送りつけてきよってからに! 『村の一帯の土地はわしが買ったから、この金で出ていってくれ』だなんて、認められるか!」

「どうなっとるんじゃ!? 出ていけって……出ていってどう生きればええんか」

「だが、金は助かるし……ここより生きやすい場所もあるかもしれん」

「このままでは食うていけんで死ぬしかないけの」

「……そうは言うても……こんな一方的に追い出すなんざ辰の馬鹿野郎は勝手じゃ!」


 騒ぎの中心にいるのがどうやら辰兄ぃらしいことと、村のみんなが出て行かされることはわかった。

 どうやったのかはわからないけれど、この村の土地の権利を辰兄ぃが買ったということみたい。

 最初は文句を言っていた大人たちも、時間が経つうちに一軒、また一軒と村を出ていった。

 きっとみんなもっと前から、出ていけるものなら出ていきたかったのだ。

 古くなったものが表面にひびが入ってポロポロ崩れていくみたいに、何かが壊れていくのを感じていた。

 そうして、半分以上の人たちが出ていったくらいに、辰兄ぃは村に帰ってきた。


「親父もお袋もまだおったんか。出ていけ言うたやろ」

「そうは言うても村長も、小鞠ちゃんのところもまだおるし……」

「親父がちゃんと言い聞かせてくれんと。今日中にみんな連れて出てくれ」

「そうは言っても辰、神様はどうするんじゃ?」

「大丈夫――神様の土地も、わしのもんじゃ」


 どうなることかと思ったけれど、辰兄ぃが自分のお父さんを使って、うまくみんなを誘導することにしたみたいだ。

 残っていた人たちも荷物をまとめて、出ていく支度を始めた。

 お父さんもお母さんも、出ていくみたいだ。

 でも、小鞠はここにいなくちゃいけないってわかってる。

 だって、まだ誰にもここから離れていいよって言われていないから。

 だから辰兄ぃが来たときも、お別れを言いに来ただけだと思っていた。


「小鞠、兄ちゃんが帰ってきたぞ」


 そう言って、辰兄ぃは優しく笑った。

 でも、その姿はすっかり変わってしまっていた。

 村にいたときは、すごく穏やかで行儀のいい青年という感じだったのに、今の辰兄ぃからは荒事の匂いがした。大人になったというより荒んでしまったというのがぴったりの、不穏な雰囲気の男の人になってしまっていた。

 きっと、村を手に入れるお金を得るために悪いことをたくさんしたのだと、ひと目でわかった。


「もうすぐ、全部方がつくけぇの。そしたら、わしの仲間が小鞠を連れ出してくれる手配になっちょる」

「……小鞠、ここから出ていいの?」

「ええよ。そのために、ずっと準備しちょったけ」

「そしたら、これから辰兄ぃとずっと一緒?」


 外に出られるんだという喜びと、辰兄ぃとは一緒じゃないのかという不安が同時に押し寄せてきた。

 だって、辰兄ぃが小鞠を見る目が悲しそうだったから。

 でも、村で一緒だったときから、時々こんな悲しい目をしていた気がする。


「小鞠はかわえぇの。わしはお前が大好きじゃ。やけ、ずっと自由にしてやりたかったんよ。……ようやくそれが叶う」


 辰兄ぃは縁側から家の中に入ってきて、小鞠の隣に座った。それから、小鞠のことをギュッと抱きしめた。

 辰兄ぃの体からは、男の人の匂いがした。汗と、ちょっぴり煙草の匂いもする。他の人からしたら嫌なその匂いも、辰兄ぃのものだと不思議と嫌じゃなかった。


「わし、ええとこのぼんぼんやから、欲しいものは大体何でも手に入っちょった。やけ、将来は小鞠をお嫁さんにもらえるもんやと、当たり前のように思っちょったんよ。でもな、小鞠だけはだめやって、神様のもんなんやって親父に言われたときに、こうすることは決めちょったんよ」


 抱きしめたまま、辰兄ぃは静かに言う。

 顔は見えないけれど、その声に決意がこもっているのがわかる。そしてこれが、愛の告白ではないことも。


「初めはな、村の連中みんな殺してやろうかって思っちょった。……小鞠の自由を犠牲にして生きとる奴らなんか、みんな死んだほうがええやろ。でも、そんなことしたら優しい小鞠が傷つくやろうって思ってやめにしたんよ。そのせいで金を用意するのに時間がかかったけどな」


 不穏なことを言っているのに、辰兄ぃの声はどこまでも落ち着いていた。そのせいか、あまり怖いことを聞かされているという気分にならなかった。


「小鞠か世界か選べ言われたら、わしは迷わず小鞠を選ぶんよ。でも、みんなはそうじゃなかった。やけ、ずぅーっと嫌いじゃった。こんな小さな女の子の命や未来をあきらめんと手に入らん世界なんぞ、消えてしまったらええんよ」

「辰兄ぃ……」

「でも、世界が滅びたら小鞠の暮らす場所がなくなるけ、困るもんな。やけな、兄ちゃんがちゃんとうまくやってやる」


 ひとしきり抱きしめて話をすると、辰兄ぃは小鞠から離れた。

 これが最後なんだって、お別れなんだってわかった。

 辰兄ぃはきっと、本来小鞠がやらなくちゃいけないことをしに行くのだ。だから、こんなふうに悲しそうだった。


「……辰兄ぃは、小鞠を連れて逃げてくれないの?」

「そうしてやりたい。最初は、ずっとそうしようって思っちょった。でも、それじゃだめなんよ。追ってくる。やけ、片づけてくるけ」

「片づけって、なにするの……?」


 辰兄ぃはやっぱり、小鞠がここを離れられない理由を知っているのだ。

 お父さんもお母さんもきっとよく知らなかった、村の一部の人たちだけが知っていた秘密を知っているのだ。

 それでも、連れて逃げることを選んでほしかったのに。

 そしたら、小鞠は無理でも辰兄ぃだけでも助かっただろうに。


「今からするんは、神殺しよ。……小鞠のこと、欲しくて欲しくてたまらん神様を兄ちゃんが殺しちゃるけ、そしたらおまえは自由よ。――生きろ」

「辰兄ぃっ!」

 

 辰兄ぃは小鞠の額にそっと口づけてから、縁側から外へ飛び出していった。

 きっと、最後の覚悟を決めたのだ。

 行き先はわかっている。それに、何をするのかも。


「……待って。行かないで」


 あたしは転がって、庭へと降りた。

 追いつけないことも、辰兄ぃを止められないこともわかっているけれど、それでも。

 辰兄ぃが世界ではなく小鞠を選んでくれるなら、小鞠だって辰兄ぃを選びたい。

 だから、這ってでも辰兄ぃのところに行く。


 辰兄ぃは、神様のいるところ――神社に行ったんだ。小さな湖のほとりにある、小さなお社の神社。

 何度か辰兄ぃが抱えてつれてきてくれたから、道は覚えている。自分の足では歩けないけれど、小鞠だってこの村のことを知っている。

 この足に生まれついたから、足に神様の印がついているから、いずれこの村のために死ななくちゃいけないことはずっとわかっていた。

 だからこの村のことを少しでも知っておきたくて、辰兄ぃに運んで連れ歩いてもらっていたのだ。

 でも、道を知っていることと進めることは違う。

 固くて冷たい地面の上を這って移動するのは、ひどく骨が折れる。それに、小さな石や砂で肌が傷ついて、少し進むごとに痛くて涙が出てきた。

 それでも、辰兄ぃのところへ行きたい。


「……辰兄ぃ。辰兄ぃ!」


 辰兄ぃが出ていったのはお昼くらいだったのに、神社にたどり着いたのはもう夕暮れ時だった。

 赤く染められた景色の中に、壊されたお社を見つけた。

 でも、辰兄ぃの姿はどこにもない。ボロボロのお社や、開いたその戸の奥に何もないことから、辰兄ぃが目的を果たしたのはわかるのに。


「どこ? 辰兄ぃ、どこにいるの?」


 何だか気配を感じた気がして、あたりを見回した。

 でも、そこにあるのは壊れたお社と、神様のいるとされる湖だけ。

 ……雨が降らなくてほとんど干やがったと聞かされていた湖には、少ないけれど水があった。それに、心なしか少しずつ水かさが増してきている気がする。

 神様の湖が涸れるほどの天候不良だから、小鞠が予定より早く神様のところに行くことになっていたはずなのに。


「辰兄ぃ! あたし、来たよ! 小鞠が来たよ!」


 何とか這って湖に近づいて、叫んでみた。

 すると、それに応えるみたいに水面が揺れた。

 それから少しして、声が聞こえてきた。


『……なんで来たん?』

「だって……辰兄ぃが危ないことすると思って……」

『大丈夫ちゃ。全部、うまいこといった。……家でおとなしくしとったら、迎えが来たはずなのに』

「嫌。知らない人とは行かない。辰兄ぃといる」


 何でかはわからないけれど、湖の中から声がした。

 夕暮れの太陽は水面を照らしてくれないから、水面は暗くて見えない。ただ、少しずつ水位が上がってきているのはわかる。


『……お前はかわええのぉ』


 辰兄ぃの優しい声がする。

 水面の向こうの、ずっとずっと深いところから。


『わしは、小鞠に生きてほしかったんじゃけどな』

「知らない場所で、辰兄ぃと離れて生きていくなんて嫌。……小鞠のこと、守ってくれるって言ったのに」


 気がつくと、涙がこぼれていた。

 ずっと這ってきて腕も足も痛いし、体はボロボロだ。それに、とても悲しいことが起きているのがわかるから。

 これが、辰兄ぃの言っていた〝小鞠のことを守る〟ということだとはわかっている。

 辰兄ぃは昔からよくそう言ってくれていたけれど、〝ずっと一緒にいよう〟とか〝結婚しよう〟とか、子供が無邪気にするような約束もしてくれなかったから。

 きっと、昔からこうすることを決めていたのだろう。

 辰兄ぃの中で小鞠を自由にすることと、二人が一緒にいることは結びつかないことだったのだ。

 

『神様が小鞠のことを欲しい思う気持ちが、今またさらにわかった気がする。……欲しくて欲しくてたまらん』


 辰兄ぃの気持ちを表すみたいに、水面が激しく揺れていた。もしかしたら、神様の気持ちかもしれないけれど。


「小鞠もだよ」


 辰兄ぃの気持ちに答えたくて、小鞠は頑張って身を乗り出した。体が重くてこれ以上進めないけれど、それでもどうにか、湖をよく覗きこもうとした。


『怖くないんか?』

「怖くない。小鞠、辰兄ぃと一緒ならちっとも怖くなんかないわ」

『そうか。なら、来れるか?』

 

 辰兄ぃの問いに、小鞠は首を振った。

 もう一歩も動けそうにない。

 

「もう、動けない……辰兄ぃのところに行きたいのに」

『なら、迎えに行っちゃる』


 小鞠がポロポロ涙をこぼすと、湖の水面が上がってきて、たちまち淵まで溢れた。

 そして大きな流れとなって、小鞠の体を包み込んだ。

 溺れてしまう――そう思って怖かったのに、息苦しさはいつまで経っても訪れなかった。

 目を開けると、水の中にいるのは間違いないのに、小鞠はそこで普通に呼吸ができていた。


『小鞠、こっちおいで』

「辰兄ぃ!」


 不意に呼ばれて声がしたほうを見ると、深いところに辰兄ぃがいた。

 無事だった。元気な姿でそこにいた。

 だから小鞠は嬉しくなって、急いで辰兄ぃのそばまで行った。


「辰兄ぃ、見て!」


 驚くことに、小鞠の足は動いていた。

 生まれたときから役に立たなくて、一生歩くことなんてできないと言われていた足だったのに。

 辰兄ぃのところに行きたくて必死で動かしていたら、小鞠の足はまるでそうするためにあったみたいに、上手に水を蹴っていた。


「よかったな、小鞠」

「うん。……ありがとう、辰兄ぃ」


 迎えてくれた辰兄ぃにギュッと抱きしめられて、小鞠はほっとした。

 これで、これからずっと一緒にいられるから。

 ここでは小鞠も自分で動くことができて、邪魔するものは何もない。怖いことも心配事も。

 二人を包み込むみたいに、豊かな水が溢れている。

 きっとそのうちに、この水は村を、世界を、包むだろう。

 辰兄ぃと一緒にいると、それがわかる。


「これからずっと、二人で暮らそうな。この、幸福の国で」

「うん」


 二人で抱き合って、水面を見上げた。

 そこにはいつの間にか月が浮かんでいて、キラキラと光が揺れていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

これからずっと幸福の国で 猫屋ちゃき @neko_chaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ