2秒フラット

管弦 網親

青春、オワリ

 退屈な授業が終わる二十分前、よくクラスメートが時間を遅く感じると文句をいうけれど、今から始まる二秒は教室での二十分よりもはるかに長い。ひと深呼吸したら過ぎてしまうような一瞬の間、私は息を止めて後ろに伸びた足をさらに後ろ向きに踏み込む。勢いあまってめくれるほどに蹴り上げられた粗い砂がすでに私から随分離れたところで舞っていることをスパイク越しの足裏で感じながら、私は走り出した。


 二秒。それは私、安藤まどかが全速力になるまでにかかる時間。


 人間の全力疾走は十秒も続かない、という言葉を私の親友の立花海月はかなり気に入っている。私たちは陸上部の活動が終わった後、いつも買い食いしているコンビニに行く。そこで陸上の特集が組まれている雑誌が並んだ時、私と海月は代金を折半し、中学生にとっては高い代金でそれを購入した。これはその時、雑誌を読んで覚えた言葉だ。海月はまず真偽を確かめるために自分のタイムを計って実態を検証しようと言った。その時に試したふたりの短距離走の結果では雑誌の情報があっているかどうかはわからなかったけれど、それでもどうやら本当にずっと本気で走ることには限界があるようだ、と私たちは事実をその時初めて認識した。


 十秒しかもたない全力をせめて全力疾走にするために、私はスタートダッシュから二秒でトップスピードまでギアをあげる。丁寧に足の回転を意識して、フォームを確認して、呼吸を整えて、私は地面を蹴り上げて走りながら準備する。そして、そこからやっと私の全速力が始まるのだ。私は実はあまりクラウチングスタートが得意じゃない。中学生になるまで陸上に対する知識なんてスイカにまぶされた塩ほどもなかったから、中学一年生の時はかなりの時間をスタートダッシュの方法を見つけることに費やした。とはいえ、苦手だったものでも中学三年間も続けてきたのだ。私は肘を後ろに引いて、歩幅を長く意識して、スタート地点から幾分離れた位置でタイムを計る海月を全力疾走で横切る。


「うーん。まどかはまだまだ初動がおそいと思うよ」

 春先の夜の学校のグラウンドで私のタイムを計り終えた海月がこちらに向かってくる。

「人間の全力は十秒ももたないんだから、最初にとばしてあとは流す感じの方が記録は縮まると思う」

 中学最後の部活動、三年生に上がった春、私と海月はふたりで真夜中までいわゆる秘密特訓をしていた。


 わかった、と私は息が切らしながらも頷いた。私と海月では考え方がすこし違う。海月は初めから全力で、最後の方は力を抜いて完走する。そしていつも最後までトップスピードを保ったままゴールする。海月曰く、下手に怠けない限り、トップスピードに一度達した速度は目に見えるほど落ちることは無いらしい。私の場合、初めはもっと丁寧に走る。だって私はスタートが苦手だ。最初から全力で走ろうとしたものならきっとフォームがたちまちに崩れてしまうだろう。それでも、海月はやっぱり私より速かった。海月は正しいことを言っている。分かっているけど、私はそれを実行できるほど経験値が足りていない。やっぱり、初めから全力を出すのは怖いのだ。余力を余さず前半で使い切ってしまうのは、私にはとても無謀なことに思える。


「今日はもう帰ろっか」

 海月は私にタオルを渡したあと一言そういった。もう春なのに夜はまだ肌寒くて、走った後に流れてきた汗が徐々に冷たくなってきている。

「ありがとう。もっとタイム縮めたいね」

 汗をぬぐいながら、友達兼コーチである海月に走り方の改善点を説いてもらう。

「こんな寒い夜にそれだけダラダラ汗かくまで走り込んでるんだからまだまだ速くなるよ。それに、まどかの専門は跳躍なんだから、自主練もするにしてもオーバーワークで脚のバネを消耗しない様にしないと」

 見上げると海月の後ろに映る夜空が綺麗だった。きりっとした、はっきりした顔立ちがこちらに向いている。私は海月が好きだ。何に対しても真剣に向き合っている彼女は私の足りない部分を補おうと、いつも練習に付き合ってくれている。

「うん!」

 私は顔の面積の限界までにっこり笑って彼女に返事をした。


 年頃の女子がジャージ姿で漕ぐ自転車2台の影。毎晩登校している中学校から家まで自転車で三十分はかかる。私の家の前にも広場はあるけど、そこは走るための練習場には幾分小さい。

「でもさぁ、私たちもそろそろ部活以外のことも頑張らないとだめだと思わない?」

 学校からの帰り道、ふいに何の脈絡もなく、海月はでもさぁ、と私に声をかけてきた。何に対するでもさ、なんだろう?もしかして、大会のことかな。せっかくふたりとも県大会で残れたのに、海月は興味がないらしい。

「うーん、恋愛とか?悟華みたいに」

 私はふたりの共通の友達、石黒悟華を引き合いに出す。恋愛話と言えば、いつも中心にいるのが悟華だ。

「まぁ、恋愛だけとは言わないけどさ。受験勉強とか、いろいろあんじゃん?」

 海月が顔をそむけたせいで真意まではわからない。へぇ、海月って割とそういう話の関心あるんだ。意外だなぁ、なんて私は呑気に思った。私たちの自転車は並走する。同じ速度で、ぶつからない様に、離れすぎないように、走る。


 悟華はバスケ部の部長と付き合っている。たしか二年生の時に相手の方から告白されて、それで悟華が了承した感じだった。悟華はもともと相当モテる。身長が高いから目立つし、きめ細かい肌を持つ色白のハーフだ。私からしたら外国人と日本人のハーフなんて、それだけで美形が約束された組み合わせだ。それに比べて彼氏の方は正直ぱっとしない男子だった。一度悟華になんで付き合うことを承諾したのか聞いたことがある。

「やっぱり追いかけられてる方がいいよ。尽くしてくれるしさ」

 それは、悟華らしいといったらそれまでの回答だった。


 そんな会話をしているうちに私たちは帰宅時の難所に到達した。それは家に帰る時に絶対に前を通らなくてはいけない墓地だ。昔から住んでいる地域だけど、ここはいまだに怖い。真夜中だからなおさら怖い。いつもはここまで遅くならないんだけど、今日は練習に熱中してたせいか辺りはかなり暗い。人気もなく普段以上に不気味だ。

「なんか出てきそうじゃない?」

 海月は半分冗談気味にそういった。私も賛成だ。この不気味さを言葉で説明するなら、何か出てきそうが的確。


 それでもここを通過しなくちゃいけない。私たちはここを一気に通ってしまうことにした。墓地に差し掛かる手前で止まって、そのあと合図して一斉に自転車を漕いだ。不安から安息に辿り着く為にペダルを漕ぐ。後ろから来る不吉な予感を振り切るように必死に自転車を前に進める。その刹那、視界の隅からなにかの影がちらりと私を追い越した。一瞬本気でぞっとした。


 加速していく私の横。そこには宙に浮いた海月がいた。


 自転車が溝に突っかかった海月は自転車から放り出されて、私の真横を宙を舞うように飛んでいた。まるで私たちの周りだけスローモーションになったように時は進み、海月は地面に打ち付けられた。自転車は見るも無残な姿になり、海月は地べたで唸っている。私もあまりの驚きにバランスを崩すほどたじろいで、こけた。


「大丈夫!!?」

 駆け寄ると海月は脚をさすっていた。もしかしたら脚を痛めたのかもしれない。私は焦った。今できることを探したけど、辺りを見渡しても墓地があって、壊れた自転車があって、海月と私がいるだけだ。他には誰もここにはいない。あんなに怖がっていた幽霊の姿もない。ただ風がふたりの間を通り抜けていく。やがて、海月は一言大丈夫とだけ言った。私は家まで送るよと提案して自転車の後ろに海月を乗せた。


 家に着くと海月はひょこひょこと玄関に向かう。明日になったら病院に行ってねと私が念を押すと、海月は右手の親指を突き上げて笑った。



 青空に向けて放つピストルの音はどこか空空しい。合図とともに一斉に走るランナーには意識を向けず、私は空砲がとらえたただ一つの雲をじっと見つめていた。持ち上げた腕をそのままにしていると、しだいにバランスが取れなくなって松葉杖にもたれる。立花海月の青春はまどかと秘密特訓をしていたあの夜、あっけなく幕を閉じた。私がいままで積み重ねてきた練習は、努力は、結局何を残すでもなく、目標を失った私を悪戯に追い詰めるだけで、何も残らなかった。くだらない結末を前にして私は灰色に白けた。


 あーあ、やっちゃった。


 中学生活最後の大会を前にして、私は躓いた。何も感じないなんて嘘だ。大丈夫だなんてやせ我慢だ。けど、いつだって本当に痛いのは怪我なんかじゃない。まだまだ若い私だけど、私はあの日人生でこれ以上にないくらい後悔した。それは、何かを失った痛みだった。これから先、これほどの焦燥感を味わうことはないと思う。陸上に真剣に打ち込んでいたことを深く思い出すほど、今の私はからっぽになる。それでも感情に波なんて押し寄せてこない。悲劇のヒロインを気取るにはあまりに馬鹿馬鹿しく、虚無感に囚われていた。ひとつ、今の感情を表現する言葉があるとすれば、波風ひとつ立たない凪にポツンとキャベツが浮いているような感覚。ダシを取ろうにも私はキャベツだし、私が浸る水はしょっぱいしで、むしろ漬け物が出来るんじゃないかって感じ。


 そこは薄暗い墓地で、わたしとまどかはできる限り加速して突っ切ってしまうつもりだった。何が怖かったんだろう。幽霊だなんて不確かなものを私たちは疑いもせずに、かといって出会ってしまえばなんの対処法もないと馬鹿みたいに何も見ずに前に進んでいった。いったい何が怖かったんだろう。たとえそこに本当に幽霊がいたとしても、墓地に居る時点で大方供養されているわけで。廃れている墓地でもないその場所にいるそいつらはあらかた幸せな幽霊なはずなのだ。私たちはあまりにも愚かだった。とりわけ私のこけ方は滑稽だった。


 たったの二秒、なにかを吹っ切ろうとペダルを漕いだ脚はそのまま、いままでのすべて台無しにしてしまった。


 大会前ということで陸上部の部活動はいつもより大分早く終わり、私は石黒悟華の家に寄る。部活がある日はいつも疲れていて遊ぶなんてできないが、今の私には関係ない。けれど、松葉杖では二階の悟華の部屋まで上がるのが少しもどかしかった。

「明日最後の試合なんでしょ?こんなところで油売ってていいわけ?」

 悟華はベッドの上で最近集め出した少女漫画を読みながらぶっきらぼうに言う。

「まぁ、いいんじゃない。どうせ私は出ないし。顧問が言うには結構遠くまで行くから、見に行くか行かないかは個人判断でいいらしいし。」

 悟華の家に遊びに来たとはいえ、特にすることもなくただダラダラしている。この娘といる時はいつもなにをするでもなく、ボーとしている。いつもなら気にならない時間だけど、今日は少しだけ窮屈に感じていた。部活でも、悟華の家でも、私は何もしていない。私が何もしていないことを責める人もいない。

「へー、行かないつもりなんだ。県大会まで残ったのに」

 悟華の言葉に、残ったどころかガンガン勝ち進んだんだけどね、なんて思いながら私は無言で返事をする。どうせ出ない大会に行ってどうするの、お金の無駄じゃない。それが親の言い分で私の結論。顧問の言い方にも似たような意図を感じた。中学二年生までなら、もしかしたら大会を観に行く意味はあったのかもしれない。だけど、中学最後の大会を自分が出場しないのに行く意味は、今の私には見つけられない。


「てかさー、一階のあれ見た?」

 悟華の問いに、家に着く前に悟華のお母さんが玄関を開けてまだ小柄なゴールデンレトリーバーを散歩に連れて行くところをちらっとみたことを思い出す。その時に悟華のお母さんとほんのすこしだけ最近飼い始めた犬の話をしたけど、すぐに犬に引っ張られて散歩に行ってしまった。家の庭には小屋もないし、急遽飼うことが決まって準備ができていないんだろうか?

「いつからあの子飼い始めたの?この前はいなかったよね」

 悟華は読み終えた漫画を棚にしまう。本棚の上には参考書が積まれている。綺麗に並べられているわけでもなく、乱雑にそれは放置されている。多分、悟華は勉強をしていない。だけど、私はそれを話題にすることは無い。中途半端に打ち切られた参考書はまるで今の私のようだ。誰も興味を持っていない。そこにあるけど、そこにあるだけ。

「なんかねー。五日前くらいに拾ったんだけど、飼い主探しても見つからないみたいでしばらく家で預かることになったんだよね」

 けだるそうに話すところから察するに、悟華は犬にあまり関心はないらしい。

「そうなんだ。名前はあるの?」

 ママと妹はあの犬の事、あいつだとかこいつだとか呼んでるよと笑いながら悟華は簡単に答える。

「あの犬、なんか悟華にだけ吠えるんだよね。マジで厄介」

 栗色の地毛をくるくると指で遊びながら、悟華はそう言った。そういえば、悟華が動物に懐かれているところは見たことが無い。それどころか、体験学習でいった幼稚園の園児たちも最後まで懐かなかったし、はじめて悟華を見る人たちは決まって彼女を冷たいだの無愛想だのマイナスな方向にカテコライズする。実際、この娘はあまり社交的ではない。グローバル化が進んでる日本でも、まだまだ悟華の外見は特別なのだろう。自己紹介のときに決まって問われる質問に悟華はいつも冷めた調子で応える。そのうち、冷え切った印象がこの子にまとわりついたんじゃないかと私はみているけど、どうだろう。


 まぁ、話すと普通の子なんだけど。人によってはそう思わないらしい。


 松葉杖を使う私を気遣って、お母さんが悟華の家まで車で迎えに来てくれた。時刻はまだ午後六時、さっき仕事が終わったばかりのくせにお母さんはまだまだはきはきしている。車はゆっくりと車道を駆けていく。


「ねぇ、あんた大会にはいかないことにしたんでしょ?」

 信号の手前で車線変更をした後、お母さんは私に話しかけてきた。左折を知らせるウインカーランプが耳障りな音を鳴らす。

「うん、私が応援に行って何かが変わるわけじゃないしね」

 うんうん、とお母さんは頷く。車窓の外には体操着ではしゃぎながら帰っていく学生たち。どうやら一斉に陸上部以外の部活も終わったらしい。そういえば私が部活をしていた時は帰宅時間なんて気にしてなかったな。もし知っていたらもっと早く帰っていただろう。そうすれば青春を謳歌しているやつらの傍らでうじうじしないですんだ。そう思いながらも私の心は別段動じるわけではない。私の心は漬け物だ。


「大会にいかなくて済んだなら修学旅行いけるわね」

 嬉しそうに母は言う。なぜ嬉しそうなのかはわからないけど、お母さんなりに私を励まそうとしてくれているのかもしれない。でも、今はそれがきつい。

「行かないよ、修学旅行。いままでの旅行計画に参加してなかったから、今更グループも決められないし、この足じゃ周れるところも少ないし」

 何を見るでもなく、窓の方を向いていた。そこには私が見たいものなんて何もないけれど。浮かれた学生を傍から見ていても、私の気持ちを静めるばかり。ちょっと前までは私だってあの中にいたんだよ。だけど、今の私はどこに行けばいいのかわからない。友達なんて少ししかいないけれど、いたところで面倒ごとが増えるだけだ。それなら私は家で一人でいたい。誰にも同情されたくない。忖度されたくない。腫れ物みたいに扱われたくない。

 

「修学旅行なんだから行くだけで楽しいものよ」

 お母さんは私をなんとか前向きになれるように応援している。それはわかる。

「クラスメートが旅行を楽しんでるのを傍から見るだけじゃん。それだったら勉強でもして受験に備えた方がまだ有意義ってもんだよ」

 だけど、私は行きたくない。大会に行けなかったから代わりに行った修学旅行が一生の思い出になるだなんて私には思えない。私は大会に行きたかったんだ、と心の中でそう気が付いた。短距離走を走る時の心臓が熱く脈打つ感覚、酸素を補給しようと肺が辛く焼ける感覚。私は走るのが好きだった。でもそれは、過去形。馬鹿な真似をして台無しになる前の話だ。

「まぁ、勉強も大事だけどね。それでもいきな。中学生生活の区切りってことで、その後勉強しても間に合うから」

 お母さんはそれでも諦めずに私を諭す。だけど、この話はここで終了。私はもう何もしたくないし、期待されるのも、期待に応えるのも、自分には価値がないってわかってる。皆が見ていた今までの私は本当の私じゃない。本当の私は自転車で足を骨折するぐらい馬鹿で、中学最後の修学旅行に行きたくないと思うくらい面倒くさがりだ。


 高校に入ったら、陸上は続けないだろうな、と未来を予感する。



 私が石黒悟華になる前、悟華・ウィリアムズだった頃。小学校に入ったばかりの頃はよくイメージしてたっけ。目を瞑って数秒数えたらそこはもう十年後の未来で、自分の部屋にはいろんな所で集めた思い出のお土産がたくさんあって、それを目印に今までしてきたことを推測して、なんやかんや、突然現れた現実に折り合い付けて生きていく。今よりも楽しいことが次々と起こるであろう未来を。


 だけど、それは小学校の時の憧れみたいなものだ。今思えばどれだけお気楽だったんだろうと思う。自分がコントロールできない現実なんて終わってる。そんなのは絶対に嫌だ。


 修学旅行二日目の朝、起きたばかりの私はママから突然来た電話に面食らっていた。

「カナダなんて絶対行かないから」

 断固拒否。本気で無理。行きたいなら自分だけ行けばいいじゃん、と私は捲し立てる。

『そんなこと言ったってママが転勤なんだから仕方ないじゃないの』

 そんなことないっての。あと一年で高校生なんだから一人暮らしだって問題ないし。親ってホントに無責任。ていうか、こんな話を修学旅行中にするのっておかしくない?どんだけデリカシーないの。

 私がムカついて携帯に耳を当てて数秒、反応が無い携帯を睨むと親指が電源を切るボタンを抑え続けていた。


 まだ濃い朝靄から遠慮がちに照り出す日の光がホテル四階のテラスに当たる。

 朝食の集合時間は午前八時半。普段ならテレビを見ながら歯を磨いてお風呂に入ってママに急かされながら学校の準備でもするとそれくらいの時間になる。でも、このホテルの部屋には興味がわくようなものは何ひとつ置いてないし、今日は学校の支度もする必要もない。おまけに相部屋の子はまだ起きる気配がない。


 一階に下りるとホテルの係員が食卓に朝食を並べている。こんがり焼けたウインナーが添えられたトースト。それからサラダ。私の家ではドレッシングは野菜にかけないんだけど、残念ながらもうすでにかかっている。やることがない生徒がここで時間を潰そうとちらほら下りてきていた。朝食が並び終わるとトーストの甘い匂いが鬱陶しい。今日の予定って何だったっけ。思い出した、洞窟探検だ。マジで興味ない。


「ねぇ、アイス買いにコンビニ行こうよ」

 朝食が終わっても誰も食堂から出ていこうとしない。私はモタモタとたむろする学生の団体にうんざりして、そんなに仲良くないクラスメートを連れて席を立つ。

「ホテルの中にも売店あるのに」

 なんていいながらもそいつはついてくる。朝の光がまぶしい。

「シャーベットの上にオレンジの皮が乗ってる奴食べたいんだー。さっぱりしたくて」

 私は足早にホテルを出る。馴染みのない沖縄の風が温く私の頬を撫でる。

「あ、あれおいしいよね!」

 後ろから慌てて追いかけてくるそいつは、私の言葉の意味なんてわかってないくせに、なんとなくで私に同意する。本当に面白くない。生温い沖縄の風も、流されるだけのクラスメートも、海月が居ない修学旅行も。これも全部ママのせいだ。朝っぱらから、嫌になる。


 でも、午後の時間を使った沖縄の洞窟探検は予想したよりは面白かった。班で決めた時はそこまで乗り気じゃなかったけど。暗い所って意外にテンションが上がる。プラス、女子だけでいる時って妙にうきうきする。とりあえず日陰が最高だった。

 後から続いて入ってきた男子勢が急いでこっちに合流しようとしてきた時は、こいつらなに期待してんの、ってちょっと笑えた。でも、その後に笑えない展開。洞窟で不自然にボディタッチしてきた男子がその夜、女子浴場の前で待っていた。話をしたいから十分後にバルコニーに出てきてくれ、だとか。なに、このめんどくさい感じ。マジでなに期待してんの。


「俺、悟華のことが好きなんだ。付き合ってくれ」

 嘘つけよ、と私はツッコみたかった。修学旅行前はそんな素振り見せたことなかったじゃん。馬鹿馬鹿しいなと、私は思う。これが修学旅行マジックなの?誰でも旅行中は気持ちが大きくなって想いを告げる癖に、旅行が終わるころには冷めてしまうっていうお決まりの都市伝説。誰かこいつの魔法解いてあげなよ。その場の雰囲気にのまれて告白って承諾しても拒否してもお互い超哀れじゃん、ルーズルーズじゃん。そんな部外者しか得しないようなイベントに私を巻き込むな。

「またまたー。悟華が智也と付き合ってるの知ってるよね?」

「だからだよ!ずっといいな、って思ってたけど智也がいたから言えなかったんだ!」

 こいつたしか今の彼氏と同じバスケ部なんだよね。普通に考えて、もし告白に了承して彼氏と別れたとしたら、絶対に気まずくなるじゃん。お風呂に入ったばっかりなのに変な汗出させんな。このまま夜風で冷えて風邪ひいちゃうよ。

「てか貴志、女子バスケ部のゆりちゃんと付き合ってんじゃん」

 言いつけちゃうぞ。なんとなく視線をそらすとこのあたりは街灯が無いせいか空っぽの空に星がきれいに見える。こんなに酷い旅行中でも沖縄は綺麗だった。私の周りだけ汚く濁っていて、私の手の届かないところはキラキラと輝いている。こんな夜に周りに翻弄される自分を自覚したくなかった。ただ自然に触れて、小さい感動ができればそれでよかったのに。どうしてこんな時に限って嫌なことが続くんだろう。

「あいつとは別れる。ゆりといても面白くねーもん」

 もう、こいつなんなんだよ。せめて別れてから告白しろ。てか、なんでこいつ自信満々なの?普通にこの後あんたは惨めに撃沈する予定だよ。

「あー、まぁ、ゆりちゃんを裏切れないなー」

 相部屋に戻ったらいるからね、とは言わずに私は会話を切る。そっか、といって一人でいそいそホテルの中へと戻っていくその男子の後ろ姿はそれでもどこか清々しそうだった。みんななんだか楽しそうだ。私もママからの電話がなければもっと楽しめたのだろうか。こんな状況でも、明るくいられたのだろうか。


 自販機でお茶を買うと、私はロビーでしばらく一人でいることにした。部屋でゆりちゃんが泣いてる、ってクラスメートが私に報告してきたからだ。どうやら、さっきのあの馬鹿な男子にフラれたらしい。ゆりちゃんが泣きながら私のベッドをめちゃくちゃにしている、とクラスメートは慌てて知らせに来た。ゆりちゃんと同じ部屋にいるのが気まずい、とかじゃなくて、普通に怖い。殺されるんじゃないの、私。まったく、あの馬鹿のせいで私とゆりちゃんの修学旅行がめちゃくちゃじゃん。ちゃんと場所とタイミングを考えろよ。なんで逃げ場がないところで変な決断させようとするんだ。だからモテないんだ。私はお茶を一気に口に含む。苦い。


 私は旅行の感動を取り戻すために海岸に向かった。沖縄の海は澄んでいて、波も穏やかで、おまけに海ホタルがいて、綺麗だった。さざ波が耳元までその音色を届けてくれる。深呼吸をする。考えることが多すぎてパンク寸前だった。私の呼吸は静かに夜空に溶けていく。


 瞳を瞑る。きっちり二秒。きっと再び目を開ければ、二度と後戻りできない現実が私を待っている。


 ずっと切れていた携帯の電源を入れる。なんだか、あいつの声が聞きたかった。

『もしもし?修学旅行楽しんでる?』

 電話越しに聞こえてくるのは海月の声だ。ここにはいない私の友達の声だ。

「めっちゃ楽しいよー。海とか綺麗だし」

 私は努めて明るく話した。修学旅行に来れなかった海月に愚痴はこぼしたくない。ただ、いつもみたいに冗談を言い合えればそれで満足だ。

「海月もこればよかったのに」

 私はそう思う。海月は気付いていないけど、あいつは顔が悪くないから意外とモテる。もし海月が沖縄に来ていたら、告白イベントのひとつやふたつあったかもしれない。そうしたら、楽しかったのに。私は絶対にあいつを茶化すと思う。

『まぁ、今やってるテレビドラマの最終回観れたし。こっちも悪くはないよ』

 電話越しで海月が強がっている。

「何、その強がり」

 旅行と張り合うにはドラマは分が悪すぎる。

『沖縄に行かなかったことで私が見逃してるものをむしろ教えてほしいね』

「夜空が綺麗だよ。テレビの画質じゃわからない微かな光が空を彩ってる」

 少し考えてから答える。この旅行で唯一私の心を動かしたのはこの夜景だ。

『それじゃぁ…、月は?』

 月を見上げる。沖縄の月は都会より少しだけ黄色が濃い。

「月?綺麗だよ?」

 今日はちょうど半月だ。この月がこれから満ちていくのか、欠けていくのか、私は知らない。

『私たちは同じ月を見てる?』

 海月は変な質問をする。

「そうだと思うけど。私たちが別々の惑星にいないんだったら」

『そう。私たちは同じ地球から同じ月を見てる』

 海月はまるで今の私の心境を知っているかのように言う。中学を卒業する前に私はカナダに行ってしまう。これから現実は忙しくなって空を見上げる機会は減っていくだろう。それでも私たちは同じ地球で暮らしていて、空を見上げればそこにはひとつしかない月が見える。なんだか勇気が出た。ふたりの毎日がどれだけ違っていて、同じ情報を共有できなくなったとしても、いつだって私たちは同じ月の話題で話ができるのだろう。顔を上げて、もう一度空を見る。

『あ!流れ星!見た!?』

 それは、思わず笑ってしまうくらい綺麗な奇跡だった。流れ星は私の願いを運んで消えていく。たったひとつの簡単な願い。私が今ここに存在することを友達に知っていてほしいという、我儘な願いだ。

 教師がまだ部屋にいない生徒を探しに来ていた。もうすぐ消灯の時間が迫っている。

「てかさ、この前の犬いたじゃん」

 私は思い出したように海月に話しかける。

「悟華、今度引っ越すらしいんだよね。連れていけないから海月に育ててほしい」

 そこに居なくても今あいつがどんな顔をしているかわかる。面倒事が嫌いなくせに、人のことを足蹴にしない。そんな海月はこんな時、きまって苦い表情をしていた。

『…お母さんに聞いてみる。あの子の名前は決まったの?』

 面倒なことをお願いして、ごめん。

「まだ」

 勝手にいなくなって、ごめん。

『じゃぁ、今決めてよ』

 いっぱい謝っても、私たちはずっと友達だ。

「ウィリアムズ」

 海月は私が日本にいた証だ。それを目印にして、私はいつだって戻ってこられる。

『なんで複数形やねん。何匹おんねん』


 まだ少し話していたかったけど指導員に見つかって電話を切られ、授業中でもないのに携帯を没収されてしまった。職員の無駄に長い説教は消灯を合図に閉講。暗くなった廊下を足元だけひっそりとライトの光が照らしている。ホテルの照明よりも窓越しの月明かりのほうが明るいことに先生はきっと気が付かない。


 今日の月を覚えておこう。友達と一緒に眺めたこの綺麗な半月のことを。

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2秒フラット 管弦 網親 @Vinh

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