パンツの国で泣く→パンツの街を歩く

 オズワルド様と対面した数時間後には家人──この邸の家人は一様に黒の中衣トランクス──がやって来て、どんな仕事がいいかこれまで何の仕事に就いてきたかと質問していった。下働き、調理場、清掃婦……さまざま聞いていったが、家人は難しそうな顔をしてから一礼して去って行った。

 日本では事務方の仕事に就いていたので、水仕事や下働きの経験はないと応えるしかなかった。蛇口を捻れば水が出て、ピーラーで皮を剥き、ガスコンロで調理する経験は恐らくここでは役に立たないだろう。ありがたく頂いていたつもりだったが、三食の並ぶ食事も暖炉を熾すように鍋を煮炊きするのだろうと想像すると重みが違う。

 私はここで生きていけるのだろうか……

 そう自問した途端、ふいに自分の家が恋しくなった。胸が詰まって息を止めた。

 窓辺から見る庭の風景は私の庭ではない。全然違う、と今度は喉が詰まった。サルスベリもツツジも日本の庭木はひとつもない。私を知る人もいない。

 これまでは何某なにがしかの不安に押し潰されそうになっても、帰りたいと思ったことはなかった。気を張っていたのかもしれない。ここで生きていくのだ、と差し迫ったからか。

 つ、と予告なく涙が流れた。目が腫れたように熱く感じてそ、と拭う。もうすぐ家人が夕食を持ってくる時間だ泣き止んでおかなければ、と思うけれど上手くいかない。「ぁあ……」壁を伝って膝を折り、うずくまるる。

 どうしてこんな所に、どうして私が、どうして……! 帰りたい……!

 タタ、と毛の長い絨毯に雫の落ちる音を聞きながら、嗚咽を堪える。抑えこんでいた混乱と苛立ちと悲しみが溢れ続ける。

 怖い……どうして、ここは一体どこなの!? 私はもう帰れないの……!?

 勢いよく溢れ出す全ての疑問に、頭がガンガンと痛み始めても声も涙も止まらない。頭の片隅でこんな風に泣いては問い質される、と僅か冷静さが掠めたとき、突然肩に手が置かれた。ビクリ、と咄嗟とっさに壁に身を寄せた。驚きで心臓が痛み、ぎゅ、と目を瞑った。

 すると「大丈夫か」と優しいテノールが降ってきた。険のない言葉に、オリーブの眼差しを思い出した私は濡れたままの顔で恐る恐るそちらを見上げた。

 赤い短衣ブリーフが眼前に広がっていた。股下の縫い目まで見えた。


 私は城井真衣しろい まい、だった。専門学校を出て何度か仕事を変えて二十四歳からこちらに来るまでスポーツ企画関連の事務で働いていた。職場で出会った城井と二十八歳で結婚。三十三歳で夫が病気で先立ち、独り暮らしをしていた。夫が奮発しすぎたな、と苦笑しながら払っていた一戸建てのローンは彼の死で皮肉にも全て賄われた。子どもはいなかった。築四年の住まいにひとりで暮らす寂しさに何度も夫を恨んだ。なぜ健康診断の再検査にすぐ行かなかったのか、行かせなかったのか。夫を恨んで自分を恨んだ。

 そろそろ三回忌を数えるな、と彼と選んだサルスベリが咲くのをぼんやり見たときから、何があってももう涙は出ないのだと思っていた。


「大変情けないところを……」

 肩を抱かれてカウチに連れて行かれ水を飲まされた。先ほどの衝撃映像で涙は完全に止まった。何故か隣に腰掛けるオズワルド様の下衣パンツから目を逸らし私は頭を下げる。私だけなら三人は座れるカウチも、男性とだと膝をつき合わせる形になってしまう。そして体ごとそちらを向いて頭を下げれば……視界に入り込む赤。どうして赤なんですか、と口をついて出そうになったが、恐らく失言に当たるとすんでの所で水で無理やり流し込んだ。

「いいや……マイ、何か、暮らしづらいことでもあったか? 家人が不備でも?」

 私はあくまで目を逸らしながらゆるゆると首を振った。「いいえ何もございません」「では、何故……すまない、少しの間泣いている所を見ていた」

 私はカッと頬が赤く染まったのを感じ、片手で隠した。どこから見ていたのか、と羞恥で震えてしまったが何とか答えた。

「……家に帰りたいのです」

 またしてもピ、と空気が変わった。オズワルド様が厳かに言う。

「しかし君は何も覚えていないと言っていなかったか?……私に嘘を言ったのか?」

「いいえ!」

 急いで否定した。彼からは怒りのような熱が放たれていた。私は視線が定まらず彼の三番目のボタンをじっと見つめた。あぁ泣いてしまいそうと思った。

「元々住んでいた場所だけは覚えています……それが何処にあるか、何処の国なのかは分かりませんが……赤い花を咲かせる庭木をたくさん植えていました。お、夫が先立って、ひとり、にな、って……ぁ、すみません」

 思わず謝った。するすると流れる涙がこちらの世界のスカートに染み込み、かすかに音を立てる。醜い顔を見せまいと目を覆おうとすると、視界に白い手拭いが入り込みそれでぐしぐし顔を擦られた。目の粗い手拭いに強く擦られるひりついた感覚は、再び涙を押し込めた。

 お礼を言わねばとオズワルド様を見ると、唇がへの字になって眉はハの字になっていた。そのイケオジの何とも情けない表情に、私は自然と顔が解ける。「ふふ」と失礼にも笑ってしまった。ぽろっと目尻から最後の雫が溢れたようだったけれど気にしない。

「ありがとうございます、オズワルド様」




 ――あれから二日後、何故か私はオズワルド様と街歩きしていた。

 情けなくも人前で泣いた私に、オズワルド様は「この街を案内しよう。気分転換になる」と気を遣ってくれた。あの後は問われるままに、夫と生き別れたことや違う国で生きていくことの不安を吐き出してしまったので同情を誘ったのかもしれない。

 しかしまさか、オズワルド様本人から案内を受けるとは思っていなかった。


 外に出掛けるに当たって、私はこの街の一通りの知識を教えてもらえた。とうとう男性の下衣パンツの詳細についても。

 官位の高さによって布の面積が異なる他にも決まりがあった。

 長衣ボクサーブリーフは所謂官位なしの庶民で最も人口が多い。中衣トランクスは公務員やそれに仕える官位持ち、短衣ブリーフは管理職に当たるそうだ。この街の管理職はオズワルド様だけなので、彼の短衣ブリーフは孤高の存在で憧れの的ということになる。

 それから緑は農業など植物を扱う第一次産業、灰色は大工などの建設業や第二次産業、黒は管理職の家人やサービス業となるそうだ。オズワルド様の家人が皆、黒の中衣トランクスなのはオズワルド様が公人でその世話をするサービス業ということらしい。そして赤はなんとトップオブパンツ、つまり彼は国の公族ということになるらしい。

「オズワルド様は我らがトップオブパンツ領主様なのでございます」

 私はそれを聞いて唸った。まさかそれほど身分のある人だったとは……! やはり赤い短衣ブリーフの威力は中衣トランクスと桁違いであることを悟ったのだった。

 ヨーロッパ風の街なので馬車で移動かと思ったが、予想に反して徒歩。つまり目立つ。もちろん赤い短衣ブリーフが目立つのだ。

 明るい陽射しの下で見ても、彼はやはり整った顔立ちのイケオジだ。白いフリル襟の上衣はその上品な顔立ちと厚めの胸板、そして下衣パンツを強調──絶妙な前身頃の長さ!──している。いや脚もスラリとしてスタイルの良さが伝わってくるのだが、如何せん……。

 あぁ、私はどこにいれば彼の短衣を見ないで済むのか、と数十メートル検討した結果、横に並ぶことにした。未亡人で三十五にもなると、男性の下衣姿ひとつで騒ぐことはなくなると思う。けれどやはり、会って三度目の男性が赤い短衣姿で振る舞うのを直視はしたくない。

 「お隣でもよろしいですか?」と問えばやはり驚いたように目が開いた後「構わない」と照れたように目を逸らされた。夫がいなくなってからこんな風に男性と外を歩くのも久しぶりだ、と感傷がじわ、と湧いた。けれどここは日本でも地球でもない、と気を引き締めた。


 色四通り青・緑・灰・黒形二通り長衣・中衣プラス一通り赤短衣の種々様々な下衣を見ないようにしながら、始めに足を運んだのは、二十段ほどの石段を登る見事な多色のレンガが組まれた教会風の建物だった。

 「ここはこの国の祖となるお方が奉られている礼拝堂だ。どの街にも必ずあるから立ち寄って祈るといい」そう語りながら颯爽と石段を上がるオズワルド様に私は遅れをとってしまった。一段一段が高く、マキシ丈のスカートでは裾を踏んでしまい登りづらい。「大丈夫かマイ。手を貸そうか」

 優しい声になんて紳士的な人なんだろう、と彼を振り仰いだ私はピシ、と動きを止めた。オズワルド様は四段先から段をまたぎ、見返り美人よろしく私に斜めに背を向け手を差し伸べていた。

 ひら、と白い上衣が風に揺れ、赤い短衣が筋肉質なお尻を包んでいた。筋肉のせいか窪みが出来て布との間に隙間がいや少し食い込ん……?

「マイ、どうした……?」

「え、あ、いえあの、その何でもありません!」

 戸惑う声にただ一点を凝視していた視線を無理やり外す。そして「あ、なにかゴミがついているようでしたので、すみません、ちょっとまじまじと……」と苦しい言い訳をする私に、彼は真面目に「そうか、ありがとう」と呟くとパァン、と乾いた音を立てて埃を払った。そして改めて私に手を差し伸べ、「転ぶといけない」とまた照れたように目を逸らした。

 そうしてようやく礼拝堂に辿り着き、この国の祖と紹介されたど真ん中に鎮座する精巧な彫刻に、私の膝は遂に崩れ落ちた。

 国祖は狭衣ビキニだった。



 続く

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