第28話「出会い(side Lancelot)」

 上手くいかなかった初恋で心に残るはずの大きな傷は、他でもない恋をした相手その人によってあっさりと消し去られた。


 不思議な事に彼女を愛して付き合っていたという事実は記憶にあり覚えているのだが、その時の気持ちがすべて消えてしまったので目の前で背中を向けて去られても、何の悲しさも湧いて来ない。彼女自身が、それを望んだから。


 何の頼りにもならなかった役立たずの若者は助けを求めていた彼女に捨てられてしまった事実だけが、頭の中に焼き付けられた。


 ことある毎に宿舎を抜け出し恋人に元に足繁く通い会いに行っていた自分が、今までになく真面目に勉強や鍛錬に取り組むようになり、常に説教するか怒っているかどちらかだった教官は妙な表情をしつつも何も言わなくなった。


 憧れの的である王宮騎士団に入団出来たというのに。新人の訓練所に入ってからずっと、一人前でもない癖に、くだらない恋愛になんぞにうつつを抜かすなと怒られ続けた自分だったが、失恋後は絵に描いたような真面目な優等生になったからだ。


 失恋をしたというだけの曖昧な記憶と、その時の感情を一切無くしてしまっている自分。他でもない彼女が去り辻褄の合わないちぐはぐな心には、いつも何かが足りないような気がしていた。


 訓練所を出て、ようやく一人前の騎士となり運良く数々の戦功を立てて上に認められた。騎士が目指すべき頂点である筆頭騎士の一人に選ばれたというのに、それでも心の中に何かが足りない。


 人生において生きていくための大事な何かが、常に何かが足りなかった。


 そして、彼女を知ったその時に城近くにある大きな木の上に居たのは、ただの偶然だった。木の上に上ったのは、城で勤め始めて初めてだった。


 その前の晩は仕事で夜を明かしてしまうほど大掛かりな犯罪集団の摘発にが駆り出されたのだが、騎士は定められた人数で城を常に守らねばならないため、その日に決められていた勤番は何があろうと変わらない。


 徹夜のままで昼の任務に就くしかないのだが、色んな業務を立て続けにこなしその日ばかりは本当に疲れていた。


 木の上で葉に隠れて少し眠ろうと思ったのは、ただの気まぐれだ。昨夜の事を知れば、上司もお目溢しをしてくれるだろうが。彼の立場上、サボっている部下を見つけた以上は怒らない訳にもいかない。


 木の上ならば、自分が少々眠っていても誰にも見られないだろうと思っただけ。太い幹の上で眠りにつく体勢を整え、目を閉じようとしたその瞬間に可愛らしい声が根元辺りから聞こえてきた。


「……ラウィーニアが、羨ましい! 私だって、コンスタンス様みたいな美形の王子様の婚約者候補になりたかったわ」


「お母様がディアーヌも是非候補に入れて欲しいと、仲良しの王妃様に頼んで居たのに。王子たちとの顔合わせが行われた時に、そんなの良いから領地に帰りたいと泣いたのはディアーヌ本人でしょう?」


「えっ……そうだったっけ。なんで、私。あの時に、領地に帰ったのか思い出せない……本当に覚えていないのよ……もうっ、後悔先に立たずだわ」


「確か……領地の館に産まれたばかりの子馬が見たいって、あの時に騒いでいたわよね。私は今も覚えてるわ」


 ラウィーニアという名前と交わされている話の内容から、木の下で座り込んだ御令嬢二人の内の一人がライサンダー公爵令嬢だという事はすぐに知れた。我が国の王太子の婚約者の最有力候補だと言われている女性だ。美しく聡明で身分もあり、王族に嫁ぐに足る気品も兼ね備えている。


 自分も決して口には出さないが、彼女に決まるだろうなとは思っている。王太子の彼女を見る目が、一人だけ特別なものだからだ。


 だが、もう一人のディアーヌという令嬢の名前は、聞き覚えがなかった。少なくとも、王子たちの婚約者候補の中には入っていなかったはずだ。


「信じられない。子馬と王子様の二択を出されて……その時の私ってば、子馬を選んだのね……」


「だって貴女、あの時四歳よ? 自分の意志を伝えられるにしても幼かったし、訳もわかっていなかったんだから仕方ないわよ。ディアーヌはせっかく貴族だというのに、珍しく政略結婚しなくて良いんだから。妥協せずに、好きな男性を選べば良いでしょう? 例えば、どんな人が良いの?」


「真面目で、誠実で」


「その二つだけだと結構な人数が、その条件に当てはまりそうね……他には?」


「騎士が良いわ!」


「……騎士って。騎士だと、爵位のない次男や三男になるわよ? ディアーヌは政治的にも財政的にも、何の問題もないハクスリー伯爵家に産まれているんだから、伯爵位以上の嫡男とだって良いご縁が望めるのに」


「そんなの! だって、さっき見た騎士が凄く美形だったのよ。背も高くて身体も鍛えられていて、本当に、素敵だった……控えめに言って、結婚したいわ」


「我が国の王宮騎士団には、美形の騎士は多いけど……どんな騎士なの?」


「見事な美しい銀色の髪だったわ。背も高くて、見上げるくらいの……本当に、整った綺麗な顔していて」


「それ……ランスロット・グラディスよ。氷の騎士と呼ばれている」


「……氷の騎士?」


「王宮騎士団の五人の筆頭騎士の一人。各属性の中で一番優れている人を、筆頭騎士って言われているのよ。でもあの彼は、女嫌いって噂があるから……かなり難しいかも」


「そんな……女嫌いなの? あんなに、素敵なのに勿体無い……待って。まさか! 男性が好きとか?」


「そんな噂はないから。それは違うとは、思うけど。コンスタンスの部下だから命じれば一応夜会にも出席するけど、彼はどんな令嬢に誘われたとしても誰とも踊らないっていう話よ。ディアーヌの手に負えるような人では、なさそうよ……」


「私だって、自分の身の程は弁えてはいるわよ。あんな人と一回でも踊れたら、良いのに……ねえ、聞いて。社交界デビューの日は、結局はお兄様がエスコート役なのよ。出来ればエルリックが良いのに。その日はもう、学院に戻ってるからって断られて……」


「素っ気ない弟で、ごめんなさいね。そういう年頃なのよ。仕方ないわ。デビューの時は、婚約者でなければ肉親がエスコートするのが普通だもの。でも、夜会って格好の出会いの場よ。もしかしたら、誰かが声を掛けてくれるかもしれないわね」


「氷の騎士ランスロット・グラディスも来るのかしら?」


「……どうかしら。コンスタンスが命じれば……だけど、言われた夜会には出て来ると思うから。その時に、誘ってみたらどう?」


「断られるのは、覚悟の上で挑むわ」


 そう言って彼女たち二人は、城の方の誰かに呼ばれたのか笑いさざめきながら去って行った。


 あんなに重たく濃い霧のように頭の中に立ち込めていた眠気は、どこかに飛んだ。むくりと上半身を起こし、視線を向ければ彼女たちはもう城の中に入っていた。


 自らの容姿を面と向かってここまで褒められた事もなく、自分への熱烈な思いを目の前で語られたのは初めてだった。とは言っても彼女は自分が居たと認識したとしても、それを言ったかは疑わしいが。


 多くの打算的な令嬢たちは、自分の将来を考えて爵位と家督を継ぐ嫡男へと流れる。普通ならば騎士や実業家を職業にして身を立てる必要のある次男以降の存在には、全く目もくれないものだ。なんとか努力を重ね出世したとしても、代々の伝統ある邸と領地を受け継げる爵位には敵わない。


 ディアーヌ・ハクスリーという、彼女の名前を覚えた日だった。


 少し調べれば彼女はハクスリー伯爵の長女。ラウィーニア・ライサンダー公爵令嬢の、仲の良い従姉妹。王太子妃候補のために、王妃となるための教育を受けなければならず城への足繁く通う従姉妹の元へと、たまに遊びに訪れることがあるようだった。


 越権行為で訪問の予定を見て時間を計算し、彼女の訪れを待った。颯爽と馬車から降りて城の中へと入っていく彼女は亜麻色の髪と薄紅色の瞳を持つ、可憐な女性だった。


 彼女に結婚したいと熱心に迫られれば、十中八九の人間が頷くはずだ。自分も、きっと例外ではない。


 誰とも踊らないと言われているとは、思ってはいなかった。色々と面倒な事が付き纏う貴族の世界で、この人と何かがあると思われれば良くないと判断した積極的な数人を断っただけだった。そしてこちらから誘っていないのは、踊りたい令嬢がいなかっただけの話だったが、思い返せば誘われなくなっていた。


 今年の社交界デビューの夜会は、近付いていた。彼女も年齢的に、出席するだろう。そして、自分は出会いの予感に浮かれていた。きっと彼女をその時に自分が踊ろうと誘えば、可愛い笑顔を見せて喜んでくれるだろうと思っていた。


「おいおい。ランスロット。珍しいな。お前が殿下に命じられた訳でもなく、夜会に行くんだって?」


 同僚の一人風の騎士ヘンドリックは気安く、話しやすい。夜会に出席するために、勤番を交代して貰ったのでなぜかという詳しい理由も彼にだけ語っていた。


 自分が誰かを踊りに誘おうと考えていた事など、特に気にするべき事でもないだろうと、思っていた。


「声を掛けたい女性が出席するんですよ」


「お前が!? 国中が驚くぞ。目当ての御令嬢の名前は?」


「ディアーヌ・ハクスリーです。ハクスリー伯爵家の令嬢」


「あ。俺、その子殿下主催のお茶会で、見たことある。可愛いよなー……確か、ライサンダー公爵令嬢の親戚で仲良いんだよな」


 だが、夜会が開催された日は、どうしても片付けねばならない書類仕事に捕まり……遅れて入った会場で、最悪の事態を目にすることになる。

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