第28話 ガンビル

「姉さん?」


 弟の弘樹の声が携帯電話の受話口から聞こえた。ジャカルタは夜の8時を回ったばかりだ。サービスアパートメントの一室には、ガラス戸越しにバイクの排気音やクラクションが絶えることなく伝ってきた。取引先の接待を終え、タクシーで自室に戻り、着替えを済ませた頃だった。エアコンが作動して間もない弓子の室内は、依然として生ぬるい湿った空気が残っていた。


 バルコニーに面したリビングの窓からは、地図の上に絵筆を落としたかのように、橙色の街路灯の点線があちらこちらに伸びている。弟が国際電話を掛けることはほとんどなかった。第一声を耳にするまで、パート勤めをするまでに回復した母に不幸でもあったのかと思った程だった。


 弘樹は近況を尋ねた。姉は絶好調だと答えた。今すぐ荷物をまとめて日本に帰国をしなければならないような、差し迫った事態が起きた訳ではないことに安心していると、弟の口からずいぶん昔に聞いた固有名詞が発音されるのが耳に入った。大学院の研究室で、自分に割り当てられたタスクを終えて帰宅し、今に至るまで、その日の午前に起こった出来事を姉に伝えるべきなのかどうか、思いあぐねていたのようだ。簡単な文章にまとめてメールで送信しようと思ったが、いくら書き直しても上手く伝えられそうにないのだという。


 水元が自分を訪ねるために上洛した──。


 昔の上司と彼がどういうやり取りを交わしたのか、弟が聞いた話を弓子は分かち合った。今さら何事かと反発する気持ちが一瞬、芽生えかけた一方で、昔の上司が彼をストーカー扱いしたという話を聞かされ、彼女は動揺した。


「水元さんのメールアドレスとか、知っていると思うけど、連絡先を聞いておいたよ。念のためメールする。どうするかは姉さんが決めて」


 弟との通話を終え数分が経った頃、デスクトップのパソコンがメールの受信をチャイム音で知らせた。本文には、見覚えのないアルファベットと数字で構成された青色の文字列があった。何らかの理由で、携帯電話会社を変更したのだろう。


 マウスでカーソルをその文字列の上に運ぶと、人差し指のマークが現れた。クリックすると新たなウィンドウが開く。


 空白部分に書き入れるべき言葉が見つからない。


 パソコンラックの横にある棚には、自動車メーカーがキャンペーン用に制作したフォトフレームが飾られている。挿し込まれた写真には弓子と、ジーンズとTシャツというラフな格好で、ベースの練習をする男の姿が映っていた。背景にあるのは、ジャカルタ市内にある独立記念塔だ。


 弓子の携帯電話がショートメッセージの受信を告げた。写真の男からだった。欧州資本の商社の現地採用スタッフとして働いている。


〈ガンビル駅の近くにいるから、まだ家に帰っていないならおいでよ〉


 毎週木曜日、彼は仕事が終わると友人を交え食事をとることにしている。今日はガンビル駅近くのようだ。もう家に帰ってしまった、ありがとう、と英語ですぐにメッセージを返した。テレビから歌番組が流れている。軽快でいて時に逞しくも聞こえるインドネシア語の歌謡曲を、現地の有名歌手がメドレーで唄う映像が、何十年も前からずっと見てきたもののように思えてくる。


 弓子と水元が別れてから一人で過ごした時間は、長すぎた。逆方向に回せない歯車のような現実を否定することなど不可能なのだ。今となって振り返れば、亀山の手から戻ってきたスマートフォンにはSIMカードが差し込まれていなかった。水元が電話をしても着信履歴として残らないように手を打っていたのである。そんな人間が出世する会社で働きつづけても、先は見えている。ロシアに行っても、行かなくても、だ。


 もはや自分の存在など気に掛けることなく放ってもらった方が都合はいいし、それが大人として取るべき態度であるはずだ。水元に何を語ればいいのか。責めたくなる。だが、責めるべきは彼ではなく会社組織だ。


 その日は酒を飲み眠りについた。青色の文字列のことは、努めて忘れようとした。無視をすればいいだけかもしれない。けれども一度開いた傷口は塞がるどころかむしろ疼き始めてくる。否応なしに彼女の意識を青色の文字列に向けさせた。


 翌日、バスで職場に向かう途中、水元と同じ年頃に見える男性が、日本語を片言しか話せないような当地の女性の腰に手を回して歩いているのが車窓から見えた。祖国に絶望し、ブロックMに入り浸りながら、酒をあおる日々を続けているのだろう。その寂しそうな目を見た時、どういうわけか、言葉を交わすことなく別れたかつての伴侶を想った。


 弓子がメールの送信を決意するまで2週間を要した。契機となったのは、写真の男性からのプロポーズだ。


 ジャカルタ市内のライブハウスで、彼はアマチュアバンドのベーシストとして黙々と重低音を披露していた。勤務先のインドネシア人の女性社員が彼と引き合わせてくれたのである。自由な生き方を望む男性に見えたが、欧州企業に勤務する彼には、一国のエリートとしての矜持もあった。澄んだ瞳は将来への希望に満ちており、野卑なところがなかった。適切な距離を置きながら顔を合わせるうちに、いつしか惹かれ合うようになった。


 ある意味、男からのプロポーズは自然な流れでもあったのだが、いざ実際に受けると複雑な心境となるものだ。弓子は躊躇した。優柔不断な態度が彼を深く傷つけてしまった。なぜ〈ヤ〉を言えなかったのか。内省を繰り返すうちに弓子は、水元の比重の大きさを痛感したのである。


 それでも、弓子は現実から目を反らそうとはしなかった。


 水元が今も自分を想っているのだとして、彼の想いに応えたとしたら、過去の自分に戻ることになりはしないか。そうなってもいいのかもしれない。でも、ジャカルタを離れたらどうなる。会社の人間、友人、家族……。自分は支えられてここまで来て、やっと1つの居場所を得たのだ。まだしばらくは、この居場所にとどまり続けたい。色々な人間とぶつかりあって、喜んで、怒り狂って、涙を流して、誰かに乾杯を捧げたりして、そういうのを日常として、繰り返していきたい。水元は自分に加速度を与える存在なのか。後ろ方向には加速させても、前ではないだろう。


 パソコンのディスプレイを前に、頬を涙が伝った。3月の、少しだけ暖かさを感じるようになった頃の陽気を彼女は思い出していた。早く帰宅した日は、休日に買い込んだ食材を使って彼女が手料理を振る舞った。そのレパートリーを増やすことが毎日の楽しみの1つでもあり、喜んで料理を口にする水元の顔を見るのも好きだった。


 パスタを口にしたあの日、二人の生活は永遠に続くものだと考えていた。土曜日のデートの約束は結局、叶わずに終わってしまった。水元はぼんやりとしていた人間だったが、何も悪くはない。二人とも、最初からすれ違う定めにあったのだ。


 弓子は顔を上げて涙を拭いた。窓を通じて聞こえる街の喧騒が、いつもより静かになったように感じられた。大きく息を吸い、パソコンの画面の前で背筋を伸ばすと、自分の元を去ったインドネシア人の男とツーショットで写る画像をデジタルカメラから取り込み、画像データを暗号化し、メールに添付してから、本文にこう記した。


〈パスワードは春に二人で食べたかったものをアルファベットの小文字で。弟から話を聞いたよ。どうか、身体を大切にね。私は幸せになります〉


 カーソルを送信のアイコンに運び、左クリックした。バジャイと呼ばれる、ディーゼルエンジンを搭載した簡易タクシーが街中の至るところで喧しい走行音を立てているのに、彼女の周囲だけが静寂に包まれた──。


        *


 早朝、都内の住宅街に位置する駅の売店のシャッターが機械音を立てて開き出した。やがてスポーツ紙や一般紙、そして経済紙がそれぞれ、1面の見出しが分かるように束にまとめられ、柱積みにされていく。この日の経済紙の1面トップは、社会に衝撃や動揺を与えるようなスクープではなく、政策当局者が世論誘導を目的に担当記者を呼び出し、執筆させたような、来年度予算に関するものだった。ある意味、平和と呼ぶべき状態なのかもしれない。


 中を開くとある新興企業面がある。3段見出しで扱いは大きくはなかったが、次のような記事が掲載されていた。

 

 中国へEV部品 響工業、コスト半減し年内に


 響工業(東京都)は、電気自動車(EV)に搭載するリチウムイオン二次電池の構成部品を年内に中国企業に供給する。独自工法で強度を維持しながら生産コストを半分にした。環境問題が悪化する中国では、地方政府がEVを購入する消費者に補助金を支給する制度を設けつつある。電池の発火事故が相次ぎ対応に追われる中国系自動車メーカーが、日本の中小企業の技術力を活用する動きが広がりそうだ。

 同社は東京電工を主要顧客とし、航空機・人工衛星に搭載される部品の試作・加工などを主力にしてきた。日本政府の来年度予算において、次世代衛星の開発計画が事実上、凍結されたことを受け、経営環境が厳しくなるなか、次世代自動車の需要が拡大する中国市場で存在感を高める地元資本メーカーとの取引を拡大し、収益基盤を強固にする。

 EVに搭載するリチウムイオン二次電池は、強い衝撃が加わると内部の正負極間の構造が変形し、異常発熱や発火に至る恐れがある。響工業が部品を供給する中国メーカーは、3年前に発売したEVにおいてこうした事故が頻発し、販売が低迷している。響工業が中国企業と取引をするのは初めて。航空・宇宙部門で蓄積した加工技術と、コスト対応力をもとに今回の受注に至った。3年後に10億円の売り上げを見込む。


 水元は中央線快速に揺られながら、この記事をスマートフォンの画面で読んだ。都心に向かう早朝の車内は、仕事熱心な会社員ですでに立錐の余地がない。日引のしたり顔が水元の頭に浮かんだ。数カ月前に東京電工のグループ会社になってから、響工業は完全に親会社の支配下に置かれたはずだった。先端分野での中国企業との取引に対して、東京電工が好い顔をする訳がない。


 なぜ新聞発表になったのか。一翼を担ったのが水元だった。彼が今勤めているのは、パリに本拠を置くギャルソンノーブルの日本法人である。台湾人投資家の李と親しかったピエール・リウーのもとで、日本企業の調査分析業務を手掛けている。


 李の死を報道で知ったピエールは、最後に二人で会話した際に話題とした響工業が、何か関連を持っているのかもしれないと考え、社員の1人に調査を指示していた。指示を受けた社員は金融機関をはじめ、様々な情報源を活用し、フランス人のボスに報告した。リポートに目を通したピエールは、李から直接説明を受けた時以上に、投資妙味を響工業に感じたのだが、その頃にはもう東京電工による子会社化が決定していた。面会を乞うピエールに対し、日引は、無駄足になるとして一度は固辞したものの、名刺交換だけでもいいと食い下がるフランス人に根負けし、結局八王子駅に近い料亭で夕食を共にすることになった。


 響工業にしてみれば、東京電工の話がまとまった後のことである。どれほどのもてなしを受けたとしても、シナリオに変更の余地はなかった。東京電工や美空銀行の関係者がピエールとの接触について知ったものなら、さらなる混乱を招くリスクもあった。それでもピエールの申し出に応じたのは、フランスという、航空機産業でアメリカと双璧をなす大国の、経済人の知見を学びとりたいという意志があってこそだった。


 ピエールは東京電工と響工業の関係をすでに承知していたため、敢えて出資の話を切り出すことはなかった。今後、親会社との事業展開が行き詰まった場合には協力したい、とだけ日引に伝えた。


 東京電工の完全子会社になった段階で、自分が社長を務める会社の生命は奪い取られたも同然だと考えていた日引にとって、こうした提案は、新たな視点をもたらした。


「具体的にどう協力してくれるのですか?」


 英語で訊ねる日引にピエールは、曖昧さのない表現でこう答えた。


「それまでの響工業を捨て、新たな響工業を作る時だ。コネクションがモノを言う日本では難しいと人は言うかもしれないが、あなたが築いたコネクションは東京電工だけじゃないはずだ。経営環境は日々刻々と変化するものであって然るべきだ。東京電工が自社の成長に不要だという結論に至ったら、教えてほしい」


 ピエールは、響工業が自国の産業発展に資するものだとの信念を抱いていたのである。


 水元は今や、ピエールの部下だ。彼は京都を離れると、すぐに日引に連絡した。事務員のアルバイトとして雇われた水元は、3カ月後に有期の契約社員となった。給与水準はG社で正社員として勤務した時と比べ6割程度であったが、社会保険や年金といった部分で不利を受けずに済むようになったことなどは満足に値したし、限られた選択肢の中ではいい雇用条件だった。


 そうは言っても、外資系金融機関である。組織への貢献度が不十分とみなされた段階で放逐される厳しさがあるのは他と変わらない。トップが変わり大きな方針転換が行われるたびに、メンバーが大きく入れ替わってしまう負の面もある。水元には緊張を強いられる日々が続いたが、組織から放逐されればまた、新たなステージを探すだけのことだと、腹を括れるようにはなった。


 会社に着くとすぐに日引社長に電話を掛けた。今回の記事について新聞社と接点を持つPR会社に話を持ち込んだのは彼だった。


「これでよかったんですか? 社長」


 日引はきっぱりと答えた。


「いいよ、これで。東京電工が私をクビにするというのであれば、それまでの話だ。野口がそういうなら、喜んで会社から出て行ってやるよ。とにかく今回はありがとう」


 礼をほとんど言われたことのない水元は照れ笑いをした。そして、無礼を詫びながら質問をした。


「しかし、電気自動車は売れるんですか? 航続距離の問題がありますけど」


 日引は答えた。


「電気自動車だけで見たらそうかもしれない。技術革新はある日、急に起こるかもしれないから、正直分からないけど、一つカギになるものを挙げるなら、インフラだ」

「インフラですか?」

「そう。EVが社会に普及するには新しいインフラが必要になる。ガソリン車だったらガソリンスタンドが各地にある。EVだったら、充電ステーションをあちらこちらに作らなければならない。家庭だけでなく、ガソリンスタンドでも充電設備を置く形になるはずだ。けれどもガソリンスタンドの経営者にとって、市場が成熟していないEVの充電設備に投資するのはある意味、リスキーだ。石油を消費する車を必要とする業界や、働き手はまだまだ多いんだよ」


 日引に説明させる事態を引き起こしたことを申し訳なく思いながら水元は耳を傾けた。


「すでにインフラを手にするものは、新たなインフラの構築に消極的にならざるを得ないんだ。それには莫大な資金もかかる。ただ、これは先進国に限った話だ。今まさにインフラが整備されようとしている新興国はそうではない。実際に中国に行くとね、電動バイクをよく目にする。そこに積んであるのは鉛電池とかニッケル水素電池がまだ多い。それがいずれ、リチウムイオンとか、さらに次世代の電池に置き換わっていけば、われわれの技術が利益を伴うものとなる」


 日引は力を込めて言った。


「水元君、君がまだ市場に存在しない新たな装置で、稼働に必要なインフラが周囲になく困っているのなら、インフラができそうな場所に行けばいいだけだ。君が部品なら、部品としての機能を十分に発揮できる装置を必死で探し続けるしかない。絶望しそうになっても、探し続ければ、必ず見つかる。響工業もそうだ。日本の産業構造で機能を満足に発揮できなければ、アジアとか、海外に出るしかないんだ。東京電工なしで生き残れるようにね」


 二人はいつか夕食を共にしようと約束し、通話を終えた。


 水元はオフィスの窓から、青空を気持ちよさそうに泳ぐ白雲の群れを見た。その下の道路を自分と同じ年代の、決して立場の強くない人間達が歩いている。適合しているのかどうかよく分からぬ環境下で、それぞれが抗うことのできない時の定めを全身で受け止め、もがきながら毎日を過ごしていた。


 道路を歩く人影を見ていると、不意にその内に、弓子の姿が見えたような気がした。机に置いたスマートフォンを手に取りメールを送ろうと考えた。だが、やはりあれは弓子ではないと思い直した。仮に彼女だったとしても、ここにとどまる方が適切なのだ。


 いたずらに思い描いた幸せな未来は、太陽に晒された水滴のごとく心地よい余韻を胸に残して蒸発していく。そうした現実を是認しながら、水元は仕事に掛かった。


(了)

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