第25話 君の世界は、なんと狭いのか

 二人はほぼ同時に、ブランデーに口を付けた。胸の熱くなるのを感じる水元に日引は口を開いた。


「塩津さんが亡くなる2週間ほど前だけどね、野口が私に、塩津製造所が合併先を探している、と言ってきたんだ」


 日引の頬は、左手に持つグラスの液体のように、枯葉のような疲れた色をしている。


「てっきり塩津は、単独でも十分にやっていけるぐらい業績がいい優秀な会社だと思い込んでいたから、私は驚いて理由を尋ねたんだ。すると野口は、本当かどうかわからないけど、相場で失敗したようだと言った。その時は従業員が気の毒だと思ったよ」


 水元は会社員だった頃に、塩津社長の口から直接、こうした話を聞けなかった自分の力のなさを感じた。


「それだけだったら、会社を引き受けなければという考えは出なかったと思う。でも塩津が潰れたら、国の次世代衛星プロジェクトのスケジュールが大きく狂い出し、政府の方針次第では予算が大幅に削られてしまう可能性があると野口は忠告してきたんだ。私も日本人なので、いけないと思った。野口に会合をセットしてもいいかと聞かれたので、了承したんだ」

「会ったんですか?」

「会合はあったけど、塩津社長はいなかった。なぜか美空銀行の担当者がいて、かなり具体的な資料を提示してきてね。事業承継のプランが記されていた。面を食らいながらも訊ねたよ。合併を考えているのは塩津社長であるのに、なぜ本人がいないのか、と。明確な答えはなかった。その代わり野口は高圧的に、言ってくるんだ。この話は東京電工マターだから、受けておいた方がいい、とね」


 日引はブランデーをグラスに継ぎ足した。瞳は充血しているようにみえる。


「相場の話、ですか」

「塩津社長は脇が甘かったんだ。正直、塩津さんが死んだと聞いた時に、自然現象の1つでもあるように、さもありなんと思ったよ」


 水元はグラスを再度口元に運んだ。彼は煙草を呑まなかった。愉しんだ経験はあるが、弓子との同棲を機にきっぱりと止めた。酒を酌み交わす相手が煙草を恍惚とやるのを見ると、懐かしさが込み上げてくる。日引が一服を勧めてきたが、水元は遠慮し、話題を変えた。


「李さんは、どうなったんでしょう」

「さあ」

「生きているんでしょうか」

「分からんな。ああいう世界だと、色んな恨みを買うんだろうな。まあ、接点を作ってくれた君には何らかのお礼をしないといけないけどね」

「いや、今日ごちそうになっているので十分ですよ」

「こんなブランデーで満足するのか、君は。それよりも、仕事は見つかったのかい」


 水元は、言いにくそうに、作り笑いをする。


「これだけ不況が続くと転職するのは厳しいだろう。うちで働いてもらってもいいけどね。ただし給料は安いからな」


 水元は恐縮しながら答えた。


「有難い話ですけど、僕は野口さんに毛嫌いされているので」

「野口と何かあったのか」


 野口に面会した後、自分の上司に倣い、顧客情報を流していたことや、それが発覚して会社を追われたことを水元は正直に話した。


「それはいかんな」

「こんな自分ですから、お役に立てる部分は少ないかと思います」

「いくら顧客とはいえ、そんな要求に応えることは駄目なはずなのに、なぜやったんだ。今話したように、正直に話せばいい。君と私は、今は上司と部下でもなんでもないんだから」

「…理由の1つに過ぎないんですけど、あの話があったのは、会社が私といびつな労働契約を結ぼうとしていた時だったんです。従業員ではなく、会社の商品を扱う代理店になってほしいと打診を受けていた時で幾分、頭の中が混乱していた時期でした」


 日引は黙って水元の話を聞いた。年金や社会保険が全て自己負担となっただけでなく、労働法が定める時間外労働手当や失業時に備える雇用保険、労災保険などがない状態で働くことになった話だ。


「ひどいなあ、君の会社は」

「仕事の内容は変わらないのに、労働者ではなく代理店なのだから労働法に準拠しなくてもいい、というのがまかり通るならば、日本中の会社は従業員を採用するとき、みな個人事業主として契約すればいいんです」

「本当に何のための法律なんだろうね。だがそれはやりすぎだな。外資でもしっかりした会社はあるぞ、この世の中は。つまり野口の要求に応じなければ、仕事が取れないと焦った訳だ。馬鹿だなあ。反省しているんだろうな」


 水元は何も言えなかった。はい、と即答できるほど反省したかというと、そうでもない。


「まあ、野口は当分残りそうだから、知り合いに聞いて回ってみようか。不況でも中小企業はだいたい人手不足が続いているから、どこかあるでしょう。もちろん代理店じゃなく、従業員としてね」


 50を超えたとみえる浅黒の顔は、苦悩の蓄積を物語り、疲労の色も濃い。だが曇りのない2つの瞳は、生命力に満ち溢れている。角度を変えれば少年のような日引社長の顔を前に、水元は言葉に詰まった。窮状から救われるかもしれないという淡い期待と、自分のような存在に気を掛けてくれたことへの申し訳なさと、これまでの選択に対する後悔とが、胸の中で複雑に入り混じった。


「心あたりはいくつかあるんだ。もし君がよければ、早速段取りをする」

「何だか、すみません。ありがとうございます」


 水元は心に現れた想いを素直に言葉で表した。一方、我儘も言うべきだと考えていた。


「ただ、社長。勝手なことを申し上げるようですが、実は」

「どうした?」


 日引は虚を突かれたような目をした。


「しばらく東京から離れようと思っているのです。片付けて置きたいことがあって。場合によっては、東京に戻らない可能性もありますが」


 青年の目が強く自分に突き刺さってくるのを日引は感じた。断る理由は何一つない。


「それは君の自由だけれども、法に触れるようなことじゃないよな」

「それはあり得ません」

「一体、何を果たす考えなのか」


 水元はグラスに目を向けた。私情の整理のためだと明かせば、美学めいたものが崩れ去る。


「まあいい。その、片付け作業が終わったら、結果はどうであれ、知らせてくれればいい」


 水元は深く頭を下げた。いつの間にか雨は止み、社長室の窓からは三日月が光っている。


 二人はその後も酒を酌み交わし続けた。ブランデーに飽くと、貰い物だというポートワインの栓を開けた。胸にぽっかりと空いた穴を埋めるために酒の勢いを借りて話を続ける、通夜のような時間を共有した。水元はこの場に中村がいないのが不自然のように思われた。


「社長、こんな時間ですけど、中村さんも呼び出しましょうか」


 日引の顔色がわずかに変わった。


「いや、彼はいいよ」


 そっけない反応に水元は違和感を覚えた。


「どうしてですか。響工業のためにひと肌脱いだ男じゃないですか」

「君は甘い。ある時を境に、この男は違うと思って、それから警戒するようになったんだ。野口とつるんでいると確信してからね」


 水元には信じられない話だった。


「いつからですか? そう思い始めたのは」

「君と初めて会った立川の居酒屋の時だよ。東京電工と当社の関係や、野口が現場を混乱させている、といった話になった時に、中村はこう言ったんだ。『野口が響工業と結んだ契約の中で、顧客開拓などの営業活動は彼の職務には含まれていないんだ』って。なぜ彼が、当社と野口の契約の中身を知っているのだろう。少なくとも私は社員に話した覚えはない。まああの時は、君とオカマちゃんと初めて会った時でもあったし、指摘せずに受け流したけれども、悲しかったよ。親身に話を聞いてくれた男だったからね」


 そういえば、あの時、日引社長は──。


「こういう、はらわたが煮えくり返りそうな関係が、世の中にはたくさんあるものだよ。君の世界はまだ狭いなあ」


 日引はワイングラスを口元に運んだ。水元は自分の背丈が縮まっていくような心地がした。世を渡るのに自分の足取りは何と危ういものなのかと、彼は痛切に感じた。


 1週間後、台湾のテレビ局が現地のニュース番組で、李が日本で行方不明になったと報じた。これを機に、事件の真相を巡り台湾メディア各社が取材合戦を始め、日本の一部メディアも参戦した。数日後、李が知人にメールで送信した『遺書』なるものが見つかった、と台湾の有力紙が報じると、日本のメディア各社はファクトチェックをすることもなく事件性がないものと判断し、別の話題に飛び付いた。知人なる人物が誰なのか、明らかにしようという情熱を持つ記者は現れなかった。

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