第24話 下がるは四十以来なり③/震え


 塩津は夜、工場に一人残り、資材置き場にある段ボールにありったけのコピー紙を敷き詰めていた。


 頭の中でシミュレーションを繰り返している。


 5億円を持ってきたと見せかけて、相手を安心させる。高山がその場にいる。トランクルームがある場所は、幹線道路沿いだ。駐車場には、男とその仲間が待ち構えているに違いない。おそらく彼らは死角となる場所で段ボールの中身を確かめる作業を始める。高山と自分は、身体的に拘束される。その時、5億円がないことに相手は気付く。大量のコピー紙を目に、状況に対しなぜだ、と思う瞬間があるはずだ。


 その一瞬に掛けてみることにする。


 命が惜しい訳ではない。そもそも自分は片付けるべきことはしっかりと片付けた。


 運があれば生き残れるが、なければ死ぬまでだ。死んだ時に周囲が困らないように、すでに手筈も打ってある。町工場を軽くみるなよ──。


 トラックの床に、パトカーのサイレンを大音量で響かせるスピーカーユニットを見えないように取り付けた。高周波無線で遠隔からスイッチを入れる仕組みだ。身体を拘束されるのを考慮して、大昔に試作品を作り製品化につながらなかった補聴器を活用する。小型の音声認識ユニットを内臓させておき、首を振って補聴器を地面に落とした際の衝撃音を感知すると、ポケットに入れた無線発信機に信号を送るプログラミングをしておいた。


 信号を検知した無線発信機が、スピーカーユニットに別の信号を発信することで、パトカーのサイレンが鳴り響く。身体を拘束する相手が気をとられているうちに、急所を打撃し、高山にも同じ行為をするよう目で合図する。そして、高山にあっちへ逃げろ、と言い、自分は彼とは反対方向に走り去る。


 最良のシナリオでは、これで二人の命は助かることになる。


 塩津は段ボールにコピー紙を敷き詰めた後で、一連の機器が正常に作動するかどうか、何度もテストをした。問題なく動くことを確認した後で、翌朝の朝礼の準備に取り掛かった。


 高山は本当に「拘束される」側なのか、旧友であっても疑いを挟む狡猾さがあれば、塩津の運命は別のものになったかもしれない。段ボールを指定されたトランクルームに運び、男と顔を合わせた後で、塩津の身を拘束し出刃包丁を突き付けたのは、高山本人だった。補聴器を付けているのを不審がり、ポケットの中を探索したところ、無線発信機を忍ばせているのが見つかり、それらを高山自身のズボンのポケットに忍ばせた。


 塩津は嗤って、自分の運を呪った。


 「40代になったら、いつか芝居をしようと約束したよな。高山は、演技が上手くなったよ」 


 男は自分の手ではなく、高山の手を汚すように仕向けた。頸部を圧迫する作業だった。5億円が回収できない見込みとなったことで、塩津に続き高山を始末する準備しなければならないと考えたが、その場には自分一人しかおらず、人手が足りなかった。


 野口と協議のうえ、高山をトランクルームの一室に押し込めて、その場を一旦、離れることにした。塩津の亡骸はビニールシートと段ボールで梱包され、男の車で、立川のスナック〈いずみ〉に運ばれることとなる。


 いずみは休業中だった。店主が身体を壊したためだ。


 合鍵は、ビルを所有する知人が持っていた。


 ビルの建て替えのために必要な合意形成が、いずみの店主とは困難になっているとの事情を知人から聞いた男は、ちょうどいいと考え、遺体をいずみに放置する段取りを付けていた。


 高山はトランクルームの暗がりに一人残された後、うなだれた。しばらくしてポケットに塩津の補聴器と無線機があるのに気付いた。


 故人の名残を消したいと考えて、壁に向かって放り投げた。すると、駐車場から大きなサイレンが響き出した。そして、鳴りやまない。


 別のサイレンが遠くから聞えはじめ、近づいてきた。所轄の警察官がパトカーで集まったのだと思い、高山はトランクルームの壁を必死に叩いた。


 〈どうされましたか、ケガはないですか〉


 警官の声が聞える。


 いずみから戻ってきた男は、赤いパトランプの明滅を目にして、しまった、と思い、野口に電話をした。野口はその場から逃げるように指示し、男は従った。


 トランクルームを管理する会社の担当者が現場に駆け付けたのは1時間ほど後だった。警察からの連絡を受け、会社側は利用者名簿を参照し、登録された連絡先に電話を掛けたが、つながらないという。


 担当者が高山を解放した後は、警視庁による任意の事情聴取が待っていた。高山は島本元経産相の元秘書だと身分を明らかにした。何者かに車に乗せられて、補聴器と小型無線機のようなものをポケットに入れられて、気が付いたらトランクルームに入れられた──。と、説明しても、刑事は納得するはずがない。


 調べが続くうちに、いち早く解放されたいとの思いが募った高山は、恨みを買った背景として、ある株式の売買を強要されたのがあるかもしれない、とこぼした。


 しまった、と思った。


 それ以降は何を聞かれようが、黙秘することに決めた。


 島本は警視庁の幹部に電話を掛け、高山の無罪放免を求めてきた。刑事は政治家の介入に腹を立てたが、警察組織の論理を考慮し、現実解として、高山の供述内容を証券取引等監視委員会と共有することとしたのである。


        *


〈俺にはもう汚れ仕事しか回ってこないのか〉


 高山はため息を付く。2度目の仕事である。野口からの指示は、李の存在を消す計画を立てて実行することであった。


 李は新宿区にあるオフィスにはおそらくハイヤーで通勤している。近くには大久保公園があるため、そこで散歩をしているかもしれない。近所の囲碁クラブにも足を運んでいる可能性がある。


 排気量400ccの二輪車を台北経世投資顧問の入居するビルの車寄せが見える場所に停め、李が現れるのを待った。


 夕方、男が現れた。紺地にストライプが入った質のよさそうなスーツを着て、レクサスに乗り込んだ。高山は手元のスマートフォンに登録しておいた写真と照合し、顔の輪郭や身長、体型などから、それが李であると確認し、走り出した車の後をバイクで追い始めた。すぐにコンシェルジュが常駐するタワーマンションの前に着いた。


 高山は一旦バイクを降りて、リュックに詰め込んだウィンドブレーカーの袖に腕を通した。青いナイロンの生地の背中には、バイク便の社名のロゴが記されてある。そして厚みのあるカタログの入ったレターパックを取り出した。表にニセの発送状を貼り付け、スマートフォンで調べたマンションの住所と李の名前を記入するとエントランスに向かい、インターフォンでコンシェルジュを呼び出した。


 <李民清さんに届け物があるんですけど、部屋番号が記載されていないのです。確かめてもらうことは構いませんか>


 高山が訊くと、コンシェルジュは大丈夫です、こちらで預かります、と答えた。これで李が実際に居住しているのは確認できた。


 あとは、必要な資材などを準備し、私服姿で李がマンションから出てくるのを待つばかりである。 


 携帯電話の震える音が深い眠りから水元を引き出した。時計は午前8時を回ったばかりだ。目を擦りながらテーブルに手を伸ばし電話を取ると、日引社長からだった。


 憔悴した様子だった。


「水元君、朝早くごめん。李さんのことだけど」

「どうしたんですか?」


 水元の喉は渇ききっていて、声が上擦った。


「連絡がつかないんだ。何度も電話を掛けてみたんだけど、昨日から会社にも出ていないみたい。何か聞いてる?」

「いや、あれから連絡はとっていないので」

「そうか」


 水元は何か聞いたら連絡すると伝え、電話を切った。


 その日、中村は出社せず、日野市内にある安アパートの和室で煙草をふかしていた。FMラジオが朝に合う爽やかなクラッシック音楽を流していた。上司には体調が芳しくないと電話で伝えていた。平熱だったが、気分は最悪だ。


 和室6畳1間の片隅には、奈美が体操座りをしながら顔を伏せて震えていた。音楽が終わると、ラジオは渋滞情報を伝えていた。首都高、一般道とも朝のラッシュの時間帯だった。女性のレポーターの声を漫然と耳にしながら中村はつぶやいた。


 「車はスクラップにして、リサイクルすれば材料としてまた使えるが、人間はそうはいかんな」


 マイルドセブンの火を灰皿で揉み消すと、もう一本取り出してそれに火を点けた。


 部屋の角に、遺体をまとめた段ボール箱がある。食事をする気力もなかった。奈美は震えたままで〈スコップ〉とか〈消毒容器〉とか、脈絡のない単語を口に出し続けている。


 水元が武蔵小金井に着いた頃には、すでに時計の針は午後9時を回っていた。その日、彼はハローワークに足を運び、求人広告を探した後は映画館で時間を潰していた。


 午前中に李にメールを送ったが、返信はないままだ。


 アパートでパソコンを立ち上げ、台北経世投資顧問のホームページを確認してみる。


 ウェブサイトは閉鎖されていた。胸騒ぎがする。


 日引社長はどうか。間違いを起こしたりしていないか。不安が頭をかすめた。やがて不安が不安を呼び、落ち着けなくなった。


 財布と携帯電話と部屋の鍵を手にし、部屋を飛び出した。駅近くの24時間営業のレンタカー店に駆けつけると、軽自動車を借り、響工業本社に向かった。夜空には雲が立ち込めつつあった。


 運転は2年ぶりだ。交通量の少ない時間帯に差し掛かかっている。新奥多摩街道から国道16号に入った。細かい雨粒がフロントガラスをたたき始める。NHKラジオによると今夜から明日明け方にかけて都内はまとまった雨が降る見込みだという。


 雨脚が強まっていく。対向車のヘッドライトの光線が濡れたアスファルトに反射した。空に稲妻が走る。車の天板を叩きつける音が響くと、ワイパーの速度を最高にしても前方が明瞭に見えないまでになる。


 工業団地の入口に入ると、辺りが暗くなった。ハンドルを何度か回し、響工業の正門に面した道路に差し掛かった時、黒猫が左横から飛び出してきた。水元は目いっぱいブレーキを踏んだ。タイヤが音を立てて車が停止する。間一髪、猫は轢かれずに助かった。水元の心拍数が一気に上がり、手が震えた。


 響工業の鉄扉が開いた。社長の日引が傘をさして立っている。急ブレーキの音に驚き、何事かとこちらをみている。目の合った男が水元だと分かると、二重に驚いたようだった。


「水元君、どうしたんだ。電話してくれればいいのに」


 ばつが悪そうな顔をみせた水元は、窓を開けた。ムッとした空気が車内に流れ込んでくる。


「社長の身が案じられて、つい駆け付けてしまいました。李さんのホームページも閉鎖され、これはただ事ではないと思ってしまって」

「そういうことか」


 日引は笑った。


「無事でよかったです。すみません、猫が急に横切ったものでしたから」

「李さん、今頃どうしているんだろうな」


 日引は寂しそうな目をしていた。


「立ち話じゃなんだから、来なさい。コーヒーでもどうだい?」


 日引は鉄扉を開き、社内に入るよう水元に言った。


 従業員の姿はなく、工場内の機械はみな稼動を休止している。暗い玄関で日引は蛍光灯の電源を入れた。スリッパに履き替えて2階に向かう階段を上り、床が緑色に光る廊下を進むと、突き当たりに社長室がある。


 ワックスのかかった木製の扉を開けると、右手前に革張りのソファが2脚あり、左手にはガラス戸の付いた棚が壁に寄せられていた。部屋の奥にはアルミ材を削り出した洒落たデザインの机があり、その上には航空機のミニチュアモデルが3体、置いてある。


 日引はソファに腰を掛けるよう水元に言った。


「机の上にあるのは、ボーイングの最新機ですか?」

「そう。787型機。この飛行機のエンジンにうちが加工した部品が使われているんだ。あまり儲からないんだけどね、数が出ないから」

「でも立派な仕事じゃないですか」

「そりゃ自慢できるよ、こういうのは」


 水元は本棚の横にある冷蔵庫から冷えた缶コーヒーを2本取り出し、ガラステーブルに置いた。


「結局は下請けに過ぎなかったのかもしれないけどな」


 日引はため息をつく。 


「下請けから抜け出したいとおっしゃる経営者は多いですよね」

「うちも今まで自社製品を開発しようとしたり、大学と共同研究をしてビジネスチャンスを得ようとしたり、色々やってみたけど全部ダメ。東京電工にしてみたら、そんな余裕があるならもっと安く作る工夫をしてくれ、ということになるし。下請けは上に吸い取られるだけ吸い取られて、用がなくなれば捨てられる運命にあるんだよな」


 その口調に苛立ちが混じっていた。下請けでも立派な下請けではないかと伝えたところで、彼の耳には空虚なものに聞こえるのだろう。


 日引は卓上に重ねた書類の束から、一枚のクリアファイルを取り出し、水元にみせた。


「どうやら逆鱗に触れたようだ」


 東京電工と響工業の統合契約合意書だった。今日の日付が記され、日引の署名とともに社印が押されてある。


「合併って、東京電工と一緒になるということですか?」


 日引は首を縦に振った。


「夕方、美空銀行が野口とともに乗り込んできてね、判子を押せといってきた。こっちは台湾と話をしている、と反論しようとしたんだけど、向こうは『李の会社は代表者が行方不明になり、実質的に機能をしていない状態だ。仮に行方が分かったとしても、そんな危ない会社とどうして手を組もうとするのか』と言ってきた。これにはぐうの音も出なかったよ。完全子会社化だ」


 契約書のページ数は5ページにも満たない。中身に目を通すと、詳細についてはほとんどが、今後詰める、となっている。急遽作成されたものであるのがまざまざと伝わってくる。


「まだ従業員には伝えていないけれども、喜ぶ人間もいるのだろう。何せ天下の東京電工のグループに入れた訳だ。ちょっとやそっとじゃ潰れはしないだろう。響工業という名前と独立経営にこだわったのは、創業家の私のエゴイズムだったのではないか。そんな気もしてきた」


 日引は無念そうに下を向く。自恃の念が、大きな鉄槌で壊された男の姿を前に、水元は発するべき言葉を見出だせずにいた。


「酒でも飲むか」

「え?」


 水元は言葉を返した。


「車ですけど」

「タクシー代出すから。いいだろう? 明日は早いのか」

「いや特に用事は」

「なら付き合ってくれよ」


 日引は棚のガラス戸を開け、飾りとして置いた舶来のブランデーを手にした。それから部屋を出て、氷を入れたグラスを2つ、持って帰ってくると、栓を開けて褐色の液体を注ぎ、笑顔を作り、自身のグラスを持ち上げた。


「将来に乾杯」

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