第21話 虫けら

 水元は会計を済ませて〈amituofo〉を後にした。


 ひんやりとした夜の空気が頬をかすめる。声を掛けてくる呼び込みの男に目を合わせようともせず、新宿通りに足を運んだ。飲食店の看板や、あたりを歩くスーツ姿の男女はいつも通りの見慣れた光景であるのだが、そこには彼が抑圧してきた記憶の封印を解く要素が散りばめられている。


 ふと、自分を一切知る人間がいない世界に行きたいと思った。その気になれば、成田に行って、海外へ飛ぶこともできる。妙案かもしれない。インターネットカフェの看板が水元の目に入った。


 酸を含んだ空気が漂う店内のボックス席で、パソコンを立ち上げて情報収集を始めた。海外行きの航空券専門サイトでは、予約可能な便が最短で7日後となっている。


 今の自分の行動は何らかの衝動に駆られたものなのだろう。失業中の身であるだけに、気が変わりキャンセル料を取られてしまうことになれば元も子もない。水元はボックス席を離れ、ドリンクバーでホットコーヒーをカップに注いだ。


 席に戻ると、モニター上の検索バーに思いついた言葉を入力してみた。


[生きるのに疲れた]  約2100万件。

[三十歳 限界 人生] 約2450万件。

[虚しい] 約230万件。


 水元はキーボードを叩き続けた

[何をやっても上手くいかない][生きる意味がない][中央線 自殺][誰か助けて][こんなはずじゃなかった][やり直し 日本 不可能][見失う 将来]――。


 心の裏側に貼り付いていた語句が顕在化する。


[別人になりすます方法][腐った人間][彼女に捨てられる]……。

[城戸弓子]。


 検索したところで弓子の近況を知る手掛かりは存在しない。動画投稿サイトが本格的に普及する前の時代である。当時のバンド名を入れたところで、ライブハウスの過去の公演記録にヒットする訳でもなく、その文字列は忘却の海に沈んでいる。


 水元は想像する。


 モニターが真っ暗になって、突然、弓子が現れたら、彼女を許せるのだろうか。


 きっと、理由を問い詰めるに違いない。因果関係を掴みかねているからだ。自分に何の落ち度があったのか。何が不満で離れていったのか。本当に分からない。自分を新しく変えるための土台が覚束ないままである。


 店内は静かだった。酔いから醒め始めた水元の頭脳は澄み切っていき、思考が思考を呼ぶようになる。


 いつ彼女は別れを想い始めたのか。振り返ってみて、彼女の言動に不自然な部分はあったか。記憶を遡ってみても、胸にチクッとくるような、記憶が、頭に浮かばない。海外に行ったとしても、こんな状況では何も変わることはできず、ただ時間と金を浪費するだけだろう――。


 その時、マナーモードに設定してカバンの中にしまっていた携帯電話が震え、メールの着信を知らせた。メールアドレスには「hibiki」とのアルファベットの文字列があった。


〈水元君、この前はありがとう。水元君が紹介してくれた李さんは頼りになるいい人間です。季節外れですがこの前、青梅で一緒に梅蕎麦を食べました。結果はともあれ、わが社も少しは救われると思います。お礼にいつか、ごちそうをしたいのですが、どうでしょう。李さんが来られそうなら、3人でいかがですか。明日、この件で電話をします。日引〉


 モニターに反射して見える自身の頬が少しだけ緩んだ気がした。無価値だと信じ切っていた人間がこうした言葉を投げかけられると、照れくさく、じっとしていられない気持ちになるものだ。


 再び画面の文字列に目をやろうとした際、再び携帯電話が震え出した。〈通知不能〉と表示されている。


 水元は急ぎの用事ならもう一度電話が掛かってくるはずだと考え、店を出る準備を始めた。終電の時間も近づいている。

 

ネットカフェから店を出た時、中村からメールが届いた。


〈突然すまない。日引社長に何度も電話をしても出ない。思い悩んでいた節があったから心配で。電話したのはこの件です。社長の消息がつかめたら、教えてほしい。よろしく〉


 水元はすぐに、社長からつい先ほどメールが来たから大丈夫だと思う、と返信した。5分ほど経って携帯電話が再び震えた。応答すると中村の声がした。


「騒がしいところにいたので、出られませんでした。失礼しました」

「いいよ、こちらこそ夜遅くにすまない」


 水元は、こんな時間まで八王子の分室で働かされている中村を哀れに思った。


「生きてくれていりゃ、それでいいんだ。でも社長、なぜ俺にメールを送ってくれなかったんだろう」

「忙しくて、うっかりしていたんじゃないですか?」

「まあ、俺からもメールを入れておくよ。ところでさ、君、生活はできるのか」


 中村の一言に、水元は不自然さを感じた。


「大丈夫とは言えないですけど、何かバイトを紹介してくれるんですか」

「ああ、知り合いに頼まれた話があって、良かったら明日の夜にでも話をしたいんだけど、どうだい?」


 水元は気乗りがしなかった。


「その仕事って長く続けられそうなものですか? 内容にもよるんですが」


 中村は、内容を伝えるべきか計りあぐねているようで、言葉に詰まった。


「まあ、詳しくは明日、伝えようと思っているんだけど。俺も詳しい話は聞いていないんだ。確認してから君に伝えたいから、明日の夜にでも、と思っているんだけど」


 曖昧さが残る依頼を安請負する気にはますますなれなかった。むしろ金銭的に余裕のあるうちに、自分が抱える問題を整理したいと考えるようになっていたのである。


「お気遣いはありがたいんですが、1カ月後に同じ話を聞かせていただくわけにはいきませんか」


 中村の声が裏返った。


「1ヵ月? 君はもう30だろう。そんなに悠長に生きていて大丈夫なのか」

「この内に、やりたいことがあるんです。それを済ませてから、仕事について考えたいんです。両方すればいいじゃないかと言われるかもしれないんですけど、不器用な性格なので。きっと仕事を探し出したら、そちらに専念して解決すべき問題を先送りしてしまうんです。すみません」

「解決すべき問題ってなんだ」

「それは、言わなきゃいけないんでしょうか」

「……わかった。まあ、深くは聞かないが、後で困っても知らんぞ」


 吐き捨てるように言って電話を切る中村の作法に、水元は気を悪くした。


 深夜、ひっそりとしたレンタルオフィスの一角を、なおも蛍光灯が照らしていた。

 中村は衛星電話をテーブルに叩きつけるように置いてから、申し訳なさそうな顔になった。目の前には腕組みをする野口がいる。

「水元君がダメなら、オカマちゃんだね」


 中村は下を向いたまま言った。


「そうなんでしょうけど……」


 蚊が鳴くような声を出そうとする中村に、野口はさらに厳しい視線を向けた。


「虫けら。じゃあいいんだね。これまでのことをチクるけど。会社をクビになるだけじゃすまんよ、今回の話を知ってしまった以上、できないといったら、どうなっているか分かっているだろう」


 生唾を飲み込む時に骨格と筋肉が運動する音さえも聞こえるほどである。いくら沈黙を重ねたところで、中村が選択できる道は1つしかない。協力者を得ることだった。今回のタスクはとても1人では無理なのだ。


 中村は奈美に電話を掛けた。2コール目で出た奈美にアルバイトに興味はないか、と打診すると、相手は声を出して喜んだ。翌日夜、中村は奈美と恵比寿で食事を共にする約束をした。


「ご苦労さん」


 野口は、マンションまでのタクシー代として2万円を渡した。中村は両手を合わせた。


        *


 翌朝、野口は投資組合のオフィスの執務室に着くと1本、電話を入れた。テーブルの上には、台北経世投資顧問の日本法人代表、李民清が響工業の株主に送ったレターのコピーがある。


「島本先生、おはようございます」

「ああ、おはよう。もう先生じゃないけど。どうしたんだね、忙しそうで」


 元衆議院議員、元経産相の島本の声は溌剌としていた。

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