第20話 Stay with me

 野口は東京電工の会議室で苛立っていた。


 美空銀行が社長の日引に融資停止と回収の意向を伝えて以降、響工業内で東京電工側、ないしは銀行側の人間と見なされていた野口は、日引と直接コンタクトすることを控え、全ての連絡を美空銀行の融資担当者に任せていた。


 その担当者から、日引と連絡が取れない、メールで報告を受けた。


 もしかしたら社長は自殺を図ろうとしているのではないか、そんな直観が脳裏をよぎったのも事実である。


 会議室の最も窓側に近い席には、東京電工の専務である夏寺久志が座っていた。公家のように表情の乏しい面長の鼻先は、プロジェクターが壁に投影するパワーポイントの画面に向かっている。


 夏寺は航空宇宙技術開発本部長も務める。次世代衛星事業の責任者だ。野口の後任でもあった。


 この日の議題の1つには響工業を完全子会社化した後の事業計画があった。


 航空機メーカーに部品を納める場合、使用する設備や加工方法は納入先の認定が必要となることが通例だ。設備の変更は勝手にはできない。万一、航空機の事故や本体の不具合が発生した場合、直近でサプライヤーの製造方法にどのような変更があったのかが、調査ポイントの1つになるのだ。航空機産業に携わるメーカーは、こうした変更を仔細に記録する義務がある。


 会議では東京電工が響工業を子会社した後、東京電工の顧客となる米航空機メーカーへの部品の供給を継続する上で、生産・品質管理体制などに問題がないか、細部が確認されていった。国の次世代衛星プロジェクトに関した業務の進ちょく状況も、議題に上がっていた。


 9月中には試作エンジンの完成期日が迫っている。一刻も早く、響工業が正常な状態に戻らなければ、プロジェクト全体の予定が狂う恐れが出ていた。


 野口はすぐに会議室の外に出て、日引の居場所を突き止めたい衝動に駆られていた。ただ勝手に死ぬだけなら構わない。だが彼が死ぬことで業務がストップし、試作エンジンの完成が遅れてしまえば、問題は大きくなる。進ちょく状況に関して関係省庁からネガティブな評価を受け、場合によっては次年度以降の予算が削減されてしまう可能性がある。


でいいですか」


 夏寺が野口の方を向いて聞いた。


「ええっと、彼というのは、どちらの彼だっけ」

「あの、響工業に送る生産管理の技術者の話をしているんですけど」

「そうか。で、誰を送るんですか」


 不意を突かれた様子の野口に対し、夏寺はため息交じりに言った。


「山口君ですよ。生産管理第3部の」

「ああ、山口君か。それでいいと思いますよ。彼も色んな所で経験を積んできたし」


 夏寺にとって野口の存在は厄介者に他ならなかった。OBである以上、彼の意見は尊重しなければならないのだが、こうした詳細な部分での打ち合わせまで顔を出されては、自由闊達な議論ができない。響工業の話が済んだら、早々に席を発ってほしかった。


「もう7時前だぞ、早く切り上げよう」。


 夏寺の言葉に場が反応し、会議の参加者の話す速度が明らかに速くなる。午後7時を5分ほど過ぎた頃に会議が終了すると、野口はたまらず携帯電話を片手に部屋を出た。


「まだ捕まらないのか」


 美空銀行の担当者から、つれない返事が返ってくる。


「何か分かったら連絡してくれ」


 野口は電話を切るより他はなかった。


        *


 水元は自宅アパートのベッドの上でうつ伏せになっていた。


 真っ暗な部屋の中で頭が鉛のように重く感じられた。数時間前、彼は転職サイトを通じ申し込んだキャリア・カウンセラーとの面談を終えたのである。


 自分が労働市場で求められるような、他者と差別化できる技能や力を持ち合わせいないのを、思い知らされたばかりであった。


 大学時代に打ち込んだベースの演奏の腕は、とうの昔に鈍っている。そもそも音楽で生きるという道が自分に残されている訳でもない。社会人になって、怠惰な日々を過ごしてきたのを悔いるしかなかった。


〈なぜ正社員から業務委託になったのですか。なぜ業務委託契約が切れたのですか〉


 会社の都合? いや、自分の非力さが全てだ。実績を残せなくても、他のところで十分活躍する自信があれば、あんな契約など断っていた。クビになったのは企業の規則に反する行為をしたからであり、そうした状況に追い込まれたのも、自分の弱さが原因だった。


〈工具メーカーでの営業経験を今後にどう活かせると考えていますか〉


 ニッチな世界での知識が生きるような職場はそうないものだ。法人営業という経験は生きるかもしれない。だが営業成績が頗る悪かったのは、売る喜びより売る苦痛の方が大きいと感じていたからだ。喜びを噛みしめられなかった最大の理由は、理由は何だろう。


 社会人として頽落する過程で、そうした喜びが、自由を放棄した自分の空しさから目を反らすための、代償にすぎないと感じていたのかもしれない。


〈社会人になってからの一番の成功体験は何ですか〉


 ない、としか言いようがない。


〈なぜ、マイナスのことばかり言うのですか〉


 そういう人格なのだろうか。


 中央特快が彼のアパートの近くを走る。轢死体の痕を幾度も通過した車輪の乾いた音が夜空に響く。


 壁掛け時計の短針が午後8時を指した頃、水元はようやく服を脱ぎシャワーを浴びた。バスタオルで皮膚の水分を拭いた後、アイロンをかけたワイシャツの袖に腕を通し、チノパンを履き、ブルガリの香水を首筋に吹き掛けた。金はあまり使えないが、外で酒を飲みたいと思った。


 中央線で新宿駅まで出て、そこから歩いて残照に向かった。雑居ビルの5階に着くと、看板に明かりがない。


 隣の店から男性が出てきた。


「残照さん、閉店しちゃったみたいよ。どうです? もしよかったら」


 水元は丁重に断り、エレベーターに乗り込んだ。あてをなくした彼は2丁目を離れ、歌舞伎町に向かった。


 大学時代の音楽仲間がアルバイトをしていたロック・バーが、今もやっているのか、見たいと思ったのである。店で働いていた男と水元は、所属するバンドこそ違えど、音楽の趣向は近く、学生会館の1階にある待合室で顔を合わせては談笑した間柄だった。数年前に彼は、家業を継ぐため故郷の奈良に帰ってしまった。


 新宿区役所の裏通りに入ると、正面に地下への階段がある地上3階建ての建物が見える。縦に並ぶ店舗看板の1つに、黒地に白の筆記体で細く〈Amituofo〉と書かれたのがある。


 階段の側壁には、著名なロックバンドの名を記したポスターやタペストリーが隙間なく貼られてある。当時と変わらず営業しているようだ。


 入店を断られたら素直に従うおうと決めて、水元は扉を開けた。


 店内は漆黒の闇に包まれている。


 カウンターの両脇に置かれた大きな木製スピーカーから〈Marilyn Manson〉が〈I wanna disappear消え去りてえよ〉と吐き捨てるように唄う。ブラックライトに照らされたカウンターの奥には、岸田劉生の麗子像のような、黒髪を日本人形のようにまっすぐに肩に降ろした背の低い女がいるのみだ。


 この日の最初の客は水元のようだった。女は無愛想な顔を彼に向け、カウンターに座らせた。


 水元はラム酒のロックを頼んでしばらくした後、女に〈Marilyn Manson〉もいいが、同じミクスチャーならもっと暴力的なものが聞きたい、例えば〈Nine Inch Nails〉とかでもいいが、何かあるか、と尋ねた。


 女は、ドイツの〈RAMMSTEINラムシュタイン〉はどうか、と言う。


 アドルフ・ヒットラーは溺愛した姪が自殺したのを機に菜食主義になったらしい、私も菜食主義者なのだが〈RAMMSTEIN〉でもいいかと、まくし立ててくる。


 カウンターの奥に目を見やると、縁に口紅が付いた水割り入りグラスが置いてあった。


 1曲目に流れたのは〈Mein Herz brennt燃焼する心〉。


 ホルマリン漬けにされた胎児を描写したアルバムのジャケットを女は見せてくる。


 腹をえぐるように低い男の声が不思議に調和した曲が2曲、3曲と続く。全体主義に人々が巻き込まれていく過程を水元は想起した。


 すると1人、女性客が来店した。百貨店の買い物袋を両脇に抱え、7分袖の紫色をしたサマーセーターと黒のキュロットを身につけている。


 赤いプラスチック製のメガネを掛けた彼女の頬はやつれていて、千鳥足で、ひどく酩酊していた。女は水元を一瞥すると、麗子像にテキーラサンライズと言って、水元と1席空けた、店の奥側のカウンター席に座った。


 火葬場に明日にでも運ばれても不思議ではなさそうな女と二人きりになった水元は無関心を装ったが、やがて女は席を詰め、グラスを上げながら彼に挨拶をした。気持ちが悪い女だと蔑みながらも、水元は笑顔で返した。女は口角を上げる。


「はじめて?」


 水元は昔、来たことがあるが久しぶりだ、と答えた。女はユミと名乗った。弓子の姿が脳裏をかすめた。


 ユミはよくこの店に来るのだと言って、自分が好きな音楽のジャンルや感銘を受けたアーティストについて話を始めた。水元はに適当に相槌を打ちながら、ラム酒のロックを胃に流し込んだ。


「聞いてる?」

「ああ、5年間付き合っていた彼氏に振られたんだろう。で?」


 目の前の女に好かれようが嫌われようが、水元には知った話ではなかった。彼女が辛い失恋の経緯を吐露したところで、水元は弓子と自分の間の物語を打ち明ける考えはなかった。


 やがてユミは点々と腕に残る注射針の痕を見せてくる。それでも女に対して気の毒だとか可哀想だとかいった類の感情は全く起きなかった。


 30分ほど、水元はユミの相手をした。その間にユミはアルコール度数の高いカクテルを3杯ほど空けた。水元はラム酒のロックを呑み干すと、ギネスに切り替えた。〈RAMMSTEIN〉の最後のトラックであるバラードがフェードアウトし、店内が沈黙の空に包まれる。


 ユミは麗子像に、あれをかけてと言った。麗子像は棚からCDを1枚取り出すと、デッキの中に挿し込んだ。これからかかるのが自分と弓子との思い出の曲でなければいいのだが、と水元は懸念したが、予感は的中した。


 〈The Cranberries〉の〈Promises約束の数々〉。アルバム名は〈Bury The Hatchet水に流そう〉。


 彼がアイリッシュ・ロック・バンドを解散する時に、弓子が歌いたいと言った曲だった。


〈このままではうちら売れないから。あたしはもう少しやってみるけど、水元は早く茶髪、黒くして就職したら?〉


 僕だって薄々そう感じてはいたけど、まだ認めたくはなかったし、もう少し楽しんでいたかった。君はいいよな。ニューヨークに行く金がある。見た目もいいし。


〈武器を捨てて、戦いは終わり。諦めれば新しい戦いが始まるの。サラリーマンになったら、金稼いで遊びに来なよ。あたし向こうにまだいると思うから〉


 サラリーマンか。地下に敷かれた見えない線路を淡々と進む1両編成の人間のことだろ。


〈ベーシストの哲学に共通する部分って、絶対あるはずだって〉


 全く興味が持てないんだけど、君は将来に不安はないのか。その度胸を分けてくれないか。


 弓子が日本に帰ってきたとの知らせを耳にした時、心のどこかで納得した水元がいた。


 簡単にいく訳がない。僕だって、我慢してレールの上を歩いているんだ。そこから弾き出されると、遅れを取り戻すことがほとんど不可能な、この日本という国で。


 山梨の温泉街で弓子は水元に心を開いた。その時水元はまだ、彼女の全てを受け入れた訳ではなかった。1人の傷ついた女性の手当てをする。そんな感覚で、彼女の声に真摯に耳を傾けるよう、演じていたに過ぎなかったのである。


 間奏に入るとユミの背筋が弓なりにしなった。大気中のエネルギーを非力な自分に取り込み、生きる意志を取り戻そうとしているように見えた。


 弓子との生活は、互いの傷を慰め合いながら、将来を模索する助走期間であった。


 否、互いの傷を癒しあった時間と言ったほうが、しっくりくる。音楽を捨て、何も手にできなかった二人が、前に進むために支え合った時間、だったはずだ。


〈今度の土曜日、休みは取れそう?〉


 梅林、行けなかったな。


 漫然と過ごした日々は、幼い頃に机の引き出しの奥にしまった宝箱のように、水元の記憶の片隅に、ある種の堅牢さをもって置き去りにされていた。


 その鍵を、目の前にいる下品な女が開けたとすれば、それはそれで腹立たしくもある。


 なぜこの女の名前はユミなのだろうか。弓子はなぜ、自分のそばにとどまってくれなかったのか。

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