第5話 老獪な道化師

 その夜、弓子はアパートに戻らなかった。


 メールが来たのは午前0時を跨ごうとする頃だった。生家のある京都に暮らす母が倒れたのだという。血圧が急低下し、一時的に危険な状態にあったが、容体はすでに回復し、結果的に命に別条はなかったようだった。弓子のメールの文面には疲れが滲み出ていて、遅い返信を咎める気にはなれなかった。


 水元は部屋を間接照明だけにし、スコッチのロックを作った。窓を少しだけ開けるとひんやりとした外気が部屋の中に入り込む。遠くの方からカタン、カタンと、中央線快速が鉄路を走る音が聞こえる。ベランダに出ると夜空は薄雲で覆われていた。


 いずれ彼自身も塩津社長のように無となり、過去から連綿と続く一つのシステムとしての空間から消え去る日が確実にやってくる。人一倍働き結果を出しても、巡り合わせが悪ければ下らない人間に毎日を左右されるようになる。神経を擦り減らし、肉体に変調が出れば、それこそ壊れたロボットとなり、御祓い箱に入れられる。


 起業しても、資本も人脈もなくゼロからスタートして成功するのは統計学的に見て100人に1人か2人だから、ほとんどの人間は下らない「社」にしがみつき、排他的な人間関係を頼りに安定を求めていく。ますます下らない人間がのさばっていく社会の構造があるが、死という終着点は平等だ。


 宮川にしろ、塩津製造所の社員にしろ、李にしろ、みな時限爆弾を抱えている。民主主義や資本主義の卓越性をいくら説いたとしても、死は厳然たる事実として横たわる。


 室内に戻るとガラステーブルに本が横積みにされていた。読みかけの弓子の本だ。そのうちの1冊を適当に手に取ってみた。300ページ近いハードカバーのタイトルには『電気自動車の基礎』とあった。ページを繰ってみると、彼女が下線を引いたと思われる箇所を見つけた。


(従来のクルマに比べ部品点数が3分の1とされる電気自動車、すなわちEVは、実用化されているものでもフル充電で走れる距離は200キロ程度となる。モーター、制御システムと並びEVの心臓部となる駆動用電池の容量には限界があるため、この分野でのかなりの技術革新がなければ、EVが普及するまでには至らない)


(電池の生産技術を自動車メーカー各社が取り込むには相当の時間がかかるため、少なくとも今後10年は、ハイブリッド自動車やプラグインハイブリッド自動車の普及が徐々に進むことが予想されている。とはいえEV時代が到来すれば、今使われている部品の3分の2が不要になると見られている。電池分野で革新的な技術革新が生まれ、コストに見合う生産技術が確立されれば、EVの時代は遠からずやってくる)


 午前1時を回った。前日にあった出来事をメールで弓子に伝えるべきなのか悩ましい。


 再びベランダに出る。無数の火球を夜空に打ち上げたように輝く星空の下の、ビルやマンションの窓に灯る明かりからは人々の息使いが感じられる。技術革新でこの3分の2が不要になる時代。水元はため息をついた。残りの3分の1の区画がどこなのか分からぬまま、あらゆる世代の人間が、地上に群がっているのだと想像すると、やるせない思いに駆られる。そもそもEVの時代が到来しない可能性だってある。水素を使う燃料電池車が普及したら、今ある部品の何割が淘汰されるのか。


 失禁した老婆を背にして、駅まで送ってくれた李が車内で言った。


「銭ゲバっていう言葉がありますね。漫画にもありますけど、語源は何か知っていますか。銭はもちろんお金のこと。ゲバというのは『ゲバルト』。ドイツ語で武装闘争という意味です。学生たちが権力に抵抗するために武力に訴える、といった文脈で使われる単語から来ています」


 水元は黙って台湾人の話を聞いていた。


「僕は貧しい人とリッチな人の格差があるこの社会、不条理を認められなかった。経済的に困ったことはありませんでしたけれども、お金というのは、決して平等ではないこの社会の中に対して、自分がその意義を見出せるようになるための一つの武器だと考えていました。その意味で私が銭ゲバであるのは事実だと思います。腐った世の中で自分の存在を認めるための手段だったと言っていいかもしれません。色々な会社に投資をしましたよ。中には成長した会社もありますし、躓いた会社もあった」


 車窓に李の横顔が映る。


「夢を叶えるお手伝いをする訳ですから、当然誇りを持って何十年とこの仕事に携わってきました。ただ投資業は情報収集が命です。プロの投資家には個人投資家とは違う、精度の高い情報が入ってきます。いい話も悪い話も含めて。そうすると大体は成功するか、損をしたとしてもそれを最小限に食い止められる訳です。もちろん、やりようによってではありますが、その辺りの株屋さんに比べて極めて高い勝率を残すことができるのです。はじめは成功に酔うのですが、だんだん飽きてきます。向こうから儲け話が来てお金を出せば高いリターンが得られるようになるのですから。さらにしばらくすると、このシステムから抜け出せられなくなります。強者がさらに強者になる、この仕組みを失うことが怖くなるのです。もはやゲバルトをしなくてもいい。不条理は不条理のままで、とにかく自分の周辺だけはこのままであってほしい。可笑しなものですね。ある意味奴隷です。ゲバルトされる方なのかもしれませんけど。いつになっても不条理からは解放されることはありません」


 ベランダの窓ガラスに水元の顔が映る。なにがゲバルトだ、ゲバルトしたら飯が食えないじゃないか。


 グラスを傾け、少し濃く作ったスコッチのロックを喉に流し込む。気化したアルコールが鼻腔を抜け、身体の芯を少しだけ温めた。


 翌朝、時計は午前7時半を指したところでブザー音を鳴らした。シャワーを浴びスーツに着替え髪をセットする。後で宮川に携帯で直行すると伝えなければならない。


 冷蔵庫に入れたペットボトルのコーラを眠気覚ましに飲み干すと、玄関を出て階段を降り1階の郵便受けから経済紙を取り出し、そのままマンションのロビーに据付けられたゴミ箱に投げ入れた。朝刊は電子版を携帯でチェックしている 。


 都心とは逆方向の快速電車の中でニュースをチェックした。社会面のページに塩津、高崎といった固有名詞を探してみたが見つからない。あの日の夕刊以来、続報を目にすることはなかった。


 携帯電話が鳴る。宮川からだった。悪いことは何もしていないのに、咎められるのではと身構えてしまう。実際に彼女は棘のある声色で居場所を尋ねてきた。


 メールで連絡した通り、これから外回りに出ると話すと上司はため息をついた。君には外回りは不要なのだというメッセージが込められている気がして不快だったが、詳細な事情を説明する気にもなれなかった。今日の午後1時半ごろに社に上がれそうなら来て欲しい、昨日の話の続きをしたいと彼女は言った。仕方なく水元は了承した。


 話が終わりかけた頃になって、塩津製造所の件は解決しそうだ、と伝えると、そう、と素っ気ない答えが返ってきた。


 JR八高線の小さな駅から20分程歩いた先に、響工業の本社は立地していた。戸建住宅に囲まれた敷地には工場棟と、その横に壁が白く塗られた2階建ての事務所がある。正門からは工場の中は見えないが、金属の塊を工具が削ったり、金型が打ち抜いたりする音が聞こえた。建屋の容積から察するにこの会社が塩津の人間を引き継ぐには、あまりにも手狭で、事業承継後も塩津の今の工場を活用せざるを得ないことは容易に想像できた。


 水元はよく清掃された敷地内に足を踏み入れ、事務所棟の呼鈴を鳴らし、担当者の名を告げて約束をしていた旨を伝えた。


 中年の女性が現れた。緑色のワイシャツに工場のロゴの入った紺色のブレザー姿の女性は、にっこりと愛想のいい顔を見せてくる。


 事務棟の玄関でスリッパに履き替えて、女性の背中を追うように廊下を進み、会議室に入った。


 南向きの明るい部屋には、折りたたみ式の長机が2対置かれ、周りにパイプ椅子が配置されていた。ブラインドカーテンが開いた窓のそばには南国風の観葉植物がある。入口近くの椅子に腰をかけようとする彼に女性は、少々お待ちくださいと言い残し、その場を去った。


 3分ほど経つと担当の男性が現れた。肩の辺りまで伸びる長髪の、背の高い中年男性だった。


 男が差し出した名刺には、〈総務部 日引正志〉と記されている。


「失礼ですが社名の響と苗字の読み方が同じということは…」


 男は言った。


「父が社長なんです。兄もいるんですけど、今日は営業で外回りをしていまして」


 日引正志は、まるで想定問答集に記載された回答を口にするかのように答えた。目の前にいる人間とどれほど言葉を重ねても、会話は盛り上がらなそうにないと、水元は直感的に思った。


「この辺りだと通勤が大変ですよね」

「この建屋の裏に駐車場があるんですよ。東京都と言っても、ここじゃ車がないと暮らせませんよ」

「うちも営業車両があればいいんですけど、電車で来たほうが早いですし」

「八高線で来たんですか。本数ないでしょう。まあどうぞ」


 着席を促された水元はパイプ椅子に腰を掛けて早速、本題を切り出そうとした。


 その時ドアが再び開いた。中肉中背で、額の広い、丸眼鏡をかけた男性がこちらを覗いてくる。口元にひげを蓄え、研究室用の白衣に身を包んでいる。一見50代に見えるが、道化じみた目つきが若々しさを醸し出していた。


 ドアと壁の隙間から身を乗り出すような体勢で、小さな声で男は言う。


「塩津さんのお取引の方ですか? 工具メーカーの」


 水元は頷いた。


「どうもどうも。お宅の小沢部長には、色々とお世話になったんですよ」


 男は急に声を明るくし、ドアを開いて部屋の中に入った。はじめまして、と丁重な声色で名乗ってから、名刺を差し出してきた。そこには「響工業顧問 野口勇」とあった。


「もしかして当社に一度、電話されたことありましたか」

「そうそう、国のプロジェクトの件でね。無理をお願いしちゃったよね」


 野口はさらに名刺入れから、何枚か別の名刺を取り出して、1枚ずつ渡した。


「色々なことに首を突っ込んでいるんで、ややこしいですけど、こんなこともしています」


〈アバンラバンギャール投資育成組合共同代表〉

〈一般社団法人次世代ロケット要素技術研究開発協議会理事〉

〈東京重工フェロー〉


 様々な名刺を持つ野口の顔を直視すると、水元はカメレオンににらまれた両生類になった気分になった。


「失礼ですが、こんなに立派な肩書きをお持ちで、どうしてこちらにいらっしゃるんですか」


 野口は肩をすくめて、おどけた素振りをする。 


「立派だなんてとんでもない。こちらは非常勤なんですよ。多くて週に2日かな。外観は普通の工場ですけど国産ロケットはここの技術がないと飛ぶことが出来ないと言っても過言ではないんですよ」


 扉の近くにあるマガジンラックから会社紹介のパンフレットを取ってくるよう、野口は日引に指示した。日引はパンフレットを持ち、長机の上で広げた。野口は続ける。


「ご承知かもしれないけど、ロケットのね、燃料を送り出すこの部分。ここに響の技術が使われているんです。細いパイプのような金属の部品がこう、クネクネと、曲がっているところがあるんですけどね。衝撃や温度、気圧とか、激しい環境変化に耐えられる強度と、軽量化とを両立しないといけないんです。もちろんコストも抑えなければならない。これはもう職人の腕に頼らざるを得ないところなんですね」


 水元はパンフレットの写真を目にしながら、この場を去るには時間がかかりそうだと感じた。余計な質問をするとプレゼンテーションがさらに長くなるような気がした。野口はこちらの質問の有無など構うことはない。


「私は20年以上、東京電工の航空宇宙部門に携わってきました。非常勤のフェローとして、まだ在籍していることにはなっていますがね。響工業は東京電工にいた頃からのお付き合いがありましてね。塩津さんもそう。あちらは元々自動車メーカーがメーンの取引先でしたけどね。で、こちらの投資法人というのは、アバンラギバンギャールのことですけど、国産ロケットとか国産ジェット機など、次世代産業を支えるはずの中小企業が好不況の波に左右されず安定的に経営できるように、資金のお手伝いをするところでですね。名前は仰々しいですけど、投資家さんから集めたお金で、中小企業の株式を持たせていただいて、アドバイザーとして助言なりビジネスのサポートなりをやっているところなんです」

「もう3年ぐらいになりますっけ」


 日引が口を挟んだ。


「その位になるかな」


 そう言うと野口は着席し、水元の方を向き咳払いをした。


「しかし塩津の社長さんも気の毒でしたよね。これからの製造業を支えるべき人だったのに」


 水元は早くこの暑苦しい人間のもとを離れたいと思っていた。


 日引と二人なら、事務的な打ち合わせを素早く終わらせて、引き揚げることができたはずだ。しかし目の前のカメレオンは、小沢部長と繋がっている。頓珍漢な応対をすれば、すぐに部長の耳に入るだろう。


 左遷される身となっては、部長からの評価などもはやどうだっていいのだが、塩津製造所の件は片付けなければならない。


 立川の繁華街に貼られた規制線のテープが脳裏に浮かぶ。救急車の音。


 奈美が手渡した香典の包み。従業員が手にした社長からの手紙。


 野口が同席する会議室。


 渦潮に巻き込まれる船のように、自由が奪われた自分がいる。何を話すのが適切なのか、その一言を必死に探しても見つからない。


 とはいえ、営業部員として沈黙をしたままという訳にもいかない。


 「塩津さん、恨みを買うような人には思えないんですけど」


 何気ない一言であっても、水元には精一杯の一言であった。


 「そんなことはないよ。人は誰だって、何かしらの迷惑をかけるのだし」


 丸眼鏡の野口はにやりと笑った。その不気味な笑顔の真意を掴みかねている水元に、続けて言った。


 「今回の話、お宅は、どこまで知っているの?」

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