第4話 面倒だが断る理由もない

 有線放送のスピーカーからダスティ・スプリングスフィールドの『I only wanna be with you』が流れる。


 陽気なリズムとは対照的に、奈美の表情はどこか影を帯びていた。奈美の栗色の髪の間からは、男性的な皮脂の匂いがする。水元は続けた。


「まさか塩津さんのツケを請求するわけじゃないでしょう」

「違うわよ。そんなのはもう諦めている」


 左脇の腰掛に置いた鞄から奈美は封筒を取り出した。


「うちに来ている外国のお客さんがね、塩津さんが亡くなったことを知って、香典を渡したいって言ってきたの」


 水元は封筒を受け取った。中を見ると1万円札が10枚近く入っている。


「直接持って行けって感じじゃない? でも向こうはあまり『シキタリ』が分からないみたいだし、私もお母様にどの面を下げて会いにいっていいのか分からないので、困ってしまって」


「なぜ僕なんですか? 他にもいるでしょう」

「他にはいないのよ。なので、スマホで会社の電話番号を検索させてもらいました。ごめんなさいね。あなたの会社ってあれね、代表番号に出る方、冷たいのね。用件聞かれても上手く言えないじゃない、こんなこと。直接行ったほうがいいと思ってね、迷惑だったかしら。迷惑よね」

「話は分かりましたけど困ります。ところで、その外国人は何者なんですか」

「名刺を貰っているわ」


 奈美は再び鞄の方を向き、中から名刺入れを探し出した。


「ここよ。なんて読んだらいいのか分からないわ、これ。あなたにあげる」


 投資顧問業者の名前が、英語と漢字で併記されていた。会社の所在地は台北で、東京オフィスは赤坂。


「『台北経世投資顧問、日本支部代表、李民清』。この人から香典を渡されたのはいつですか」

「2日前だったかしら」

「いつまで東京にいるか、とか話していました?」

「何も聞いていないけど、こちらにもお住まいがあるそうよ」


 まるで仕事を押し付けた後は知らないというような態度に、水元は苛立った。


「それよりも、奈美さんはどうなんですか? 香典」

「ああ、あたしの分? そんなの向こうにしたら迷惑でしょ。知ってる? 前の奥さんのお話?」

「いえ」


 水元は知らない振りをした。


「慰謝料の代わりに訳の分からない株を貰ってさ。最初はそれでいいと思っていたのかな。でも生活苦しいそうで、今や社長のお母様の介護をしながら精神科に通っているそうよ。そんな中で、原因を作った人間が『はいどうぞ』って御霊前を渡すことなんてできないでしょ」


 水元は黙った。


「そんなことはもういいの、早く渡しに行ってきてちょうだい。ボトル1本サービスで入れておいてあげるから」


 追い出されるように水元は店を後にした。


 街頭に出た時、胸ポケットから携帯電話を取り出した。弓子からの着信はまだ来ない。


 水元は鞄に入れた香典袋が果たして本当に、台湾人投資家のものなのか、その場でもう少し確認するべきだと思った。奈美が本来手渡すべき香典を、素性の分からぬ人間の、篤志からのものとすることで、遺族を刺激せずに自身のある種の責任を果たそうと、作り話を講じたのではないか。十分、あり得る話だと水元は考えた。


 名刺に記された直通の電話番号に問い合わせをしてみる。耳に入ってきたのは秘書と思しき女性の声だった。決して流暢ではない日本語で、李は外出中だ、と答えた。私は手元にある塩津の遺族への香典が、李からのものなのか確かめたい、と伝えた。女性は、確認して折り返し電話をすると言って、こちらの電話番号を訊いてきた。


 10分後、着信があった。電話に出ると秘書は、少々お待ちください、と言い、しばらく経ってから、浮ついた感じの男の、もしもし、という声が聞こえた。李本人だった。


 水元は自分の名を名乗り、用件を伝えた。


 李は何度も、はいはい、はいはい、と相槌を打ちながら、抑揚の激しい日本語で言った。


「それは私があげたものです。あなたが持っているのは、どうしてですか」

「残照の奈美さんが、私に届けるようにいったからです」

「あなたは、塩津さんのお知り合いですか?」

「ええ。私の会社と取引をしていました」


 水元は確認の手間を取らせたことへの詫びを入れて、電話を切ろうと考えていたが、李の辞書には遠慮という単語がないようだった。


「あなた今日、時間ある? 今からそれ、一緒に届けに行きましょう。今思いついたんですけど、いい考えでしょう。どこにいますか?」


 面倒だが断る理由もない。水元は残照の近くにいる、と伝えた。


 会社からの異動の打診で精神的に疲弊した日の夜に、初対面の相手に気を遣うようなことは、できれば避けたかった。李は、もう仕事は終わったのでタクシーでそちらにピックアップに向かいます、近くで待っていて欲しいです、と言って、電話を切った。


 20分後、黒塗りのハイヤーから男が降りてきた。腕時計に目をやってから、携帯電話を取り出そうとしている男の姿を、水元はファーストフード店の中からガラス越しに見ていた。40代後半ぐらいの中背、小太りの男は不自然なほど黒々とした七三分けの髪型で、肌触りのよさそうな紺のスーツを纏っている。


 携帯に出た水元は李に向かって小さく手を振った。店内で李は、はじめまして、と耳につく日本語を発話してから名刺を差し出してきた。水元は自分の名刺を渡すのも恥ずかしいほどだったが、自分の会社と所属部署、業務について簡単に紹介すると、李は店を出ましょうと言い、水元をハイヤーに押し込めた。


 水元は運転手に、塩津の実家の住所を伝えた。商談で訪問した際、一度だけ、自宅で夕食を共にしようと塩津社長から誘われたことがある。


 ゆっくりと加速し始めた静かな車内で李は、自分と塩津の関係について説明を始めた。


「あの人残念でした。とても面白い人でした。でも私は彼のカレじゃないです。仕事を一緒にするようになって塩津社長は私を2丁目に連れてってくれました。台北でも2丁目、有名ですけれども、なかなか連れて行ってもらえませんでした」


 放っておけば、ずっと喋り続けるタイプの人間だ。車はETCを通過した。夕日に映える都庁を眺めながら、李は続けた。


「別に普通の仕事の人だったら、お金を渡すことはしませんけれども、塩津さん、孤独な人でね。私も日本と関係した仕事して10年近くなるけど、台湾人だからって下に見ることはなかったし、平等、公平な人だった。その分、特に日本人は誤解されやすかった。そう思うんです。ところで」


 李は水元の顔を見た。


「あなたは、柴山さんについて何か知っていますか?」

「誰ですか、柴山さんって」

「高崎銀行の支店長さんです。どこに行ったのか分からないと新聞に書いてありました」

「あの、記事は読みましたけど、会ったことはありません」

「そうですか」


 李は再び車窓に目を移した。水元は訊いた。


「その柴山さんと、お仕事をされていたことがあるんですか?」

「ええ。柴山さんの銀行が私たちに塩津製造所を紹介してくれたんです。高崎銀行のお客さんはいい会社が少ない。大きいところはほとんどない。だから経営はすごく大変。塩津製造所とは、お父さんが社長だった頃からの付き合いでしょう。今はあの会社は東京で仕事をしているけれど、多摩は支店があるところだから、塩津に投資して利益を得よう、そう思っていたみたいですね」

「柴山さんはトラブルに巻き込まれたんでしょうか」

「昨日だった。警察が私のところに来て色々訊いてきましたよ。知っていることはないかって。確かに外国の、台湾の金融屋ですから、怪しいと思われてしまった」


 怪しさを感じるのは警察だけではないだろう。横に座る男が塩津の死と柴山の失踪に関与していて、知らなければいい情報を自分が知ってしまったら、不幸の始まりとなる恐れもある。別の話題に移る機会を伺っていたが、李は続けた。


「私は言ったね。確かに塩津社長とよく会ったよ。でもこの1週間、出張で大阪と京都に行っていたんですね。ホテルのレシートを見せたら警察の人そのホテルに電話しました。私の名前がありました、それであなたは人を殺していないって、そういう話になりました」

「よかったですね」


 水元は知らぬ間に言葉を慎重に選ぶようになっていた。


「柴山さんが私と会った時、すでにトラブルがありましたよ。あなたの会社、メーカーだから多分知っている話だと思うけれども、塩津さんの会社はロケットの部品も作っている。大手の東京電工が入っているプロジェクトね。そもそも塩津さんは自動車メーカーの仕事が多い会社だった。新しい車を開発するときの色々な試作部品を図面どおりに加工する仕事も含めてね」


 ハイヤーはトンネルに入った。ナトリウムランプのオレンジ色が李の頬を照らしていた。


「その自動車メーカーが日本でやっていたアメリカ車の開発を、アメリカ人が格好いいって思う車を、アメリカで開発しようということを5年程前にした時に、塩津さんの会社、中小企業だからお金ないのでアメリカに工場を建てられなかった。それで、今は無理でも将来は工場を作ろうという話になって、アメリカの部品会社と合弁会社を作ろうとしたんだけど、金融危機が来てしまった。アメリカで作る車の話もなくなってしまって、塩津さんは暇になってしまった。そこで東京電工が暇なら仕事しないかと話をしたんだね」


「東京電工みたいな大きな会社から仕事が貰えるというのは、塩津さんの会社が高い技術を持っていたからなんでしょうね」


「だけどこれは高崎銀行にとって面白くない話であってね。響工業っていう東京電工の下請けがあるでしょう」


 塩津の従業員が転籍する会社だ。


「塩津製造所と同じオーナー会社で技術もある。でも財務があまり良くない。大昔に東京電工は響工業を子会社にしようとしたことがあったのだけど、経営陣が強く反対してね、長い間手を焼いていた。リーマンショック後も、資金繰りはあまり良くなかったみたいだった」


 水元の頭にひとつ思い浮かんだことがあった。


「響工業を存続会社にして塩津製造所と一緒にすれば、東京電工にとっては都合がいいし、一時的に響工業の財務体質が改善される。そういう話になるんですか」

「そう。でもその時まで東京電工は塩津さんの会社のことをあまり知らなかった。私も当時はは知らない会社だったけど。国のロケットのプロジェクトが3社を結びつけたのは確かですね。東京のどこかの大学と、東京電工がロケットに搭載できる新しい部品を開発しようとして、響工業とか塩津製造所とか、いくつかの会社が生産で協力するものね。大きい額の補助金が付いて、新聞にも取り上げられたはずだと思う。中小企業の活性化につなげようという政府の狙いもあったみたい」


「なるほど」


「おっしゃるように響工業と塩津さんの会社を一緒にしたらいいじゃないか、と東京電工は考えたはずです。それを高崎銀行が否定的な立場をとった。高崎銀行は大手のメガバンクが筆頭株主です。響工業のメーンバンクは別のメガバンクでした。高崎銀行にはベンチャーキャピタルが子会社にありますが、株式上場の実績はありませんでした。銀行として何としてでも実績を作りたかったのですが、響工業と付き合う銀行の方が格上で、かつ親と競合しているところなので、2社が合併すれば実績を作るのが難しくなります。そもそも響と一緒になるメリット自体、塩津さんのところにはありません。向こうは借金で『火の車』の会社でしたから」


「塩津さんを殺して強引に会社を一緒にするような話なんて、俄かには信じられないんですけどね」


 李は何かを考えたような間を置いてから、息を吸うように口を開いた。


「私は、もっと違う人が、塩津さんを殺したような気がします。東京電工にも友達がいますが、彼らがそんなことを直接するようには、とても思えません」

「じゃあ、誰なんですか」

「それは、私にも。私は警察じゃありません」


 ハイヤーは長いトンネルを抜け、カーブが連続する区間を時速100キロ近くで通過しようとする。高速道路の両脇をマンションやオフィスビルが囲んでいた。太陽は徐々に沈んでいき、やがて街路灯に火が入る時間になった。水元は口を開いた。


「高崎銀行が李さんの会社とつながったのは何故ですか」

「先ほど言った自動車メーカーが、かつて台湾のあるメーカーと技術提携していたんですよ。台湾に送られた日本人の工場長が今、現地でコンサルタントをしているんです。台湾の会社は昔から日本の技術を学ぶのに熱心です。柴山さんとは、そのコンサルタントを通じて知り合いました。柴山さんは誠実な人でしたよ」


 高速道路を降りて都道を進み、山間に住宅が点在するあたりに差し掛かると、コンクリートの橋脚が無機質に立ち並んでいるのが見えた。片側1車線の狭隘な道を大型トラックが隊列を組み、ハイヤーの前を塞いでいる。


 不釣り合いな品川ナンバーの黒塗りの中で、水元は携帯電話を取り出した。画面を見ても、不在着信通知はない。


 10分ほどで塩津の生家が見えた。木造2階建ての周囲を石垣が囲う家の窓に明かりは灯っていなかった。


 表札の下にある呼鈴を押してみる。すると中庭を挟んで2、3メートル向こうの玄関先で扉が開く音がした。腰の曲がった白髪の老婆の影が見える。塩津の母のようだ。老婆は無言のまま、こちらを向いて立っていた。


「すみません。お葬式に来られなかった李と言う者ですが」


 老婆は呼び掛けに反応することはなく、まるで2人の男の骨や筋肉を透視するかのように、こちらの方を向いて動かなかった。


「夜分にすみません」


 李が再度言葉を掛けた。それでも微動だにしない。沈黙の後、地面に水滴が落ちる音がした。老婆は失禁していた。股間から流れ出る透明な液体に李は怯み、そっと老婆に近寄り、香典袋を手に握らせてから、一礼してその場を去った。

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