9-2 the end of the beginning(2)

「ッ!?」

 背面に突然現れた気配。身構える間も無く、太い腕が遠野の頸椎に巻かれた。

(この腕……!? 緒方ッ!?)

 直近で記憶した、見覚えのある腕。その腕は、遠野の首を締め上げ持ち上げる。一瞬、その腕と対峙していた緒方を思い出し、遠野は狼狽した。

 まさか、緒方まで--!? 

 体が浮き上がるほどの力に抵抗し、遠野は咄嗟に爪を立てる。締め上げる腕に強く痕をつけた。もう片方の手で銃把を相手の体に叩きつけ、浮き上がった足を振り回す。しかし、遠野の首を締め上げるその腕は、硬くギリギリと音を立てるばかりで微動だにしない。その時、遠野の耳は微かにパンという小さな破裂音を拾った。

「ゔぁッ!」

 腹部を削がれるような強い衝撃。防弾チョッキを着けていても伝わる感覚に、遠野は思わず体を反らして声を上げた。

「遠野さんッ!」

 すぐそこにいるはずなのに。遠野を呼ぶすばるの震える叫び声が、やたらと遠くに感じる。

「……あんたも、しぶといな」

 なつかは、銃口を遠野に向けたまま言った。引き攣った皮膚を捻じ曲げて笑う。高揚からか、嘲笑するなつかの声が震えている。

「すばるは、に来たんだ。さっさと、すばるから手を引けば、こんなことにならなかったのにさ」

 首を締め上げられながらも。わずかに抵抗する遠野は、声を振り絞って反論した。

「違う……だろ」

「はぁ? 何が?」

「おまえが、すばるを……」

 遠野は、自らを押さえつける腕にしがみつき叫んだ。

「すばるを! 身代わりにしたかっただけだろ!」

 不意をつくような言葉を投げつけられ、なつかの表情が、一気に色味を失い氷のように固まる。声の震えが手に伝播し、遠野に向けられた銃口が左右に小刻みに動き出した。生じた一瞬の隙。それは、遠野の背後にいる男にも伝播する。遠野は咄嗟に、締め上げる腕に噛み付いた。拘束が緩んだ瞬発的な時間。遠野は身を捩り、太い腕から素早く逃れる。咄嗟に拳銃を握りなおし、再び銃口をなつかに向けた。その時--。

「ッ!?」

 背後から防弾チョッキを引っ張られ、遠野は床に叩きつけられた。全身に痛みが走る。叩きつけられ反動で、思考や呼吸機能が停止してしまうほど、頭と背中を強打した。同時に、仰向けになった遠野の胸を、太い腕が再び圧迫する。遠野は銃把を相手の体に振り下ろし、懸命に抵抗を試みた。しかし腕はやはりピクリとも動かず、余計に遠野の体を床にめり込ませる。

「ゔ……ッ」

 メキメキ、と。体内の骨が軋む音が、遠野の耳にこだました。不快な体内音は、まだ癒え切らぬ傷をも刺激する。遠野の額から、冷たく粘度の高い汗が吹き出した。遠野は顔を歪め、睨むようになつかを見上げる。そして上がる息をものともせず、なつかに問いかけた。

「ずっと……。違和感しかなかったんだ。家の爆発も、列車の襲撃も」

「うるさいッ! 黙れッ!」

 なつかの感情が爆発する瞬間。感情に連動するように、再び遠野を強く締め上げる。

「印象……づけたかったんだろ?」

「はぁ!? 何をだよ!」

「狙われているのは〝ステラ〟だと……」

「ッ……!?」

「すばるが、ステラで。公然と命を狙うをすれば……お前も、すばるも、自由になるんだろ?」

「うるさいッ、黙れッ! 全然違うッ!!」

「……違うって、どういうこと? なつか?」

 首にパイプ爆弾を装着させられているすばるが、弱々しく言った。見開かれた大きな目にはたくさんの涙がたまり、今にもこぼれ落ちそうに揺れる。

「違うって……。じゃないってこと?」

 キツく体に回された腕を乱暴に払いのけ、すばるはなつか詰め寄った。

 --核心に、触れる。

 遠野は小さく舌打ちをした。なつかに残る、弟を慈しみ思う気持ちを引き出そうとした問いかけだったはずなのに。なつかの思いもよらぬ激情と反論で、彼の中心に根付く核心を曝け出すきっかけを作ってしまった。それに敏感に反応したすばるは、自身の状況を忘れたかのように〝核心〟に触れる。

「オレが、ステラに……。ステラに、なればよかったってこと?」

「……うるさいよ、すばる」

「変わりにオレが死んじゃえば……。全部、よかったってこと?」

「……」

 明確な返答をせずに、なつかは押し黙った。口をキュッと閉じ、伏せた目を合わさないなつかの表情。すばるは視線がかち合わない、なつかの横顔を見ていた。

 すばるの感情が、すばるの何もかもが。なつかの、次の言葉を待っている。自分が発した言葉を否定する、その言葉を--。

「ねぇ! なつか! ねえってば!」

 なつかの両腕を握り、すばるは大きく揺さぶった。なんの反応も示さないなつかに対する、ありったけの怒りや絶望、そして悲しみをぶつけるように。自分の存在を認識させるように。止まることなく流れ落ちる涙など気にすることなく、すばるはなつかの腕を強く握った。

「すばる……! すばる、やめろッ!」

 締め上げる腕を振り払わんと、必死に抵抗しながら遠野は叫んだ。

 このままでは、拙い……! なつかの握る拳銃が、いつすばるを捉えるのか。すばるの首に巻かれた爆弾が、いつ起爆してしまうのか。いずれにせよ、すばるを止めなければ! 最悪の事態が血液の循環が鈍くなった脳内で、断片的な映像を残し駆け巡る。

「ねぇ! なつか……答えてよ! なつか!」

 遠野の声すら、耳に届かないのか。なおもすばるは、脇目も振らずなつかに食い下がる。

「……うる、さいよ。すばる」

 怒気を含むなつかの小さな声。鋭いナイフのように肌を刻むその声に、遠野の血の気がサッ引いた。胸部を圧迫され、呼吸すらままならない遠野は、辛うじて指先に引っかかる拳銃に手を伸ばした。

「やめろ……! やめるんだ、すばるッ……」

 遠野が意識を手放すのが先か。

 なつかが撃鉄を引くのが先か。

 なつかを制するのに、一刻も猶予がない。それにも拘わず、体内の酸素が行き届かなくなった遠野の手はかじかみ、拳銃をうまく掴めないでいた。

「なつかッ!!」

「うるさいッ!!」

 導火線の中を燻っていた小さな炎が、風に煽られ大きくなるように。今にも破裂せんとするなつかの感情が、声と共に吹き出した。ガチャリと撃鉄が嫌な音を響かせる。同時になつかの手中にある拳銃は、真っ直ぐにすばるの顔に向けられた。

「……のうのうと生きて。好きなだけ甘えて」

「なつ……か?」

「あの日だって! おまえが俺になるはずだったんだ!」

「……何? どう……いうこと?」

 銃口が額に触れるか触れないかの至近距離。すばるは瞬きもせずに、なつかを見つめて言った。すばるの涙が、音すらたてずに頬をつたい床に落下する。

「あの日、俺は死んでいたはずなんだ!! あの日にすべて終わっていた!! おまえが我儘言った所為せいで……! おまえが『行かないって』我儘を言った所為で!」

「違……だろッ!! なつかッ!」

 遠野は声を絞り出すように叫んだ。瞬間、遠野を押さえつけていた腕が空気を唸らせた。ガツンと、鈍い音が頬を抉る。強い衝撃を受け、遠野の視界が回り脳が揺れた。同時に、遠野の口の中に血の味がジワリと広がった。

 随分と身勝手で幼稚な言い訳。ステラとして名乗っていた間、なつかはそんな理不尽なことばかり考えていたのか? そう考えなければ、自分自身を保てなかったのか? 理不尽な状況下であると思い込んでいたなら、なつかの核である心情は理解はできる。しかし、それだけで。

 人をあやめてよいのか?

 弟に全てを押し付けていいのか? 

 --その核心の答えは……否だ!!

「すばるを殺しても、何も変わらないぞッ!!」

 遠野は、再び叫んだ。

「変わったと思うのは一瞬だ!! 自分の中の罪悪感はいつまでもなくならない!! 違うか!? なつか!! わかったのなら、銃を下ろせッ!!」

「もう疲れた……。終わりにしようか、すばる」

 遠野の叫び声が、まるで耳に入らないかのように。なつかは穏やかな表情で、すばるを見下ろして言った。すばるの額に、ピタリと突き付けた銃口。時間が無くなってしまったのか、と遠野は錯覚してしまうほど。なつかとすばるの間に漂う静寂に、思わず息を呑んだ。手を伸ばせば届く距離の静寂。もがけばもがくほど。遠くなるその距離が、遠野を苛立たせ、無力感を助長させる。

「……すばる! すばるッ!!」

 悲鳴にも似た、遠野の掠れた声。その声は、なつかの指がゆっくりと動くのを止めることはなかった。

 (やめろ……! やめろーッ!)

 なつかの指にかかる引鉄から、遠野は目を逸らすことが出来ないでいた。

 --パンッ、パンッ!! 

 耳が、重みのない破裂音を拾う。

 息が、心臓が、凍りつき止まってしまうほど。頭の中でこだまする破裂音が、最悪の事態の映像を断片的に脳裏に流し込む。遠野はたまらず目を閉じた。

「ッあぁ!!」

 叫び声が耳を劈くと同時に、胸の強力な圧迫がフッと軽くなる。狭くなっていた気道が一気に拡張し、遠野の肺に大量の空気が流れ込んだ。

「好き放題、してんじゃねぇぞ……!」

 咽せる遠野の頭の上から、聞き覚えのある声が落ちる。掻きむしりたくなる痛さを孕む胸を押さえ、遠野は僅かに目を開けた。

 床に横たわり、ピクリともしない黒い影と。その肢体の向こう側に見えるのは--。

「……日本の警察、舐めんな」

 肩で息をする緒方は、拳銃を構えたまま小さく言葉を放つ。緒方の額をつたう、赤いすじ。条をなぞり、ジワジワと流れてはポタリと顎から落下する赤い雫を、緒方はものともしない。満身創痍を具現化した緒方の姿。その姿を目の当たりにした遠野は、緒方の経験した死闘を容易に想像していた。緒方はある一点に銃口を向けたまま、未だ起き上がれない遠野に手を伸ばして抱きおこす。遠野はその銃口の先に視線を走らせた。

 手を押さえ蹲る華奢な人影の手指の間から、血が滴り落ちる。ヒヤリと、冷たい汗が遠野の背中を流れた。遠野は眉間に力を入れて、懸命に人影の特定をする。

「……なつか」

 部屋の隅に滑る拳銃に手を伸ばすことなく。パイプ爆弾を首に巻き付けたなつかは、ガクリと肩を落とし、床に座り込んでいた。

 小さく震える、なつかの体。

 絶望を宿しているのか。それとも憤怒を纏っているのか。

 遠野は、無理矢理体を起こすとなつかの肩にそっと手を置いた。

 無機質な床を見つめて、静かに嗚咽するなつかの正面に座し。遠野はなつかの瞳を覗き込んだ。

「もう、終わったんだよ。いや、違うな。終わらせなきゃいけないんだ、なつか」

「……死ななきゃ、終わらない」

 なつかは、床面に視線を落としたまま答えた。滴る血で濡れた手が、そっとパイプ爆弾に触れる。瞬間、パイプ爆弾に付されたデジタル時計の数字が激しく動き出した。

「おい……何をした!」

「言っただろ? 死ななきゃ、終わらないって」

 パイプ爆弾のカウントダウンは、残り三時間あまりだった。そう遠野は記憶している。しかし、なつかの操作により。今、目の前に刻まれるカウントは、一気に短縮されていた。

 --三分、三十、二十九、二十八。

「すばるとも、連動してる」

「ッ!?」

 遠野は、たまらず振り返った。

 すばるの首に巻かれているデジタル時計が、その速度を早めなつかと同じ時間を刻んでいる。遠野の態度で勘づいたのか。すばるの表情が一気に青ざめ、凍りついた。

「刑事さん、時間がないよ?」

 なつかは、ぼんやりと生気のない声で呟く。

「どっちを助ける? 俺か? すばるか?」

 死をも恐れず、淡々となつかは続けた。

「ブラッド・ダイアモンドの証人を消すか。単なるを消すか。残り時間も少ないよ? 早く判断しなきゃ。刑事さん」

「……どっちも! おまえら両方、助ける!」

「馬鹿じゃないの? あんたってさぁ」

 電池が切れたように。表情を無くしていたなつかが、途端に声を上げて笑い出す。

「残り二分半。優柔不断だなぁ……。このままじゃ、あんたまで死んじゃうよ?」

「遠野補佐ッ!! 時間が!!」

「約束……した」

 焦る緒方に、嘲笑うなつか。

 二人の言葉を制するように。遠野はなつかの赤く染まった手を握り、穏やかに言った。切羽詰まった状況下にも拘らず、遠野は深く息を吸うといつもの笑顔を浮かべる。

「絶対に、迎えに行くって。俺はすばると約束したんだ。だから、絶対に」

 遠野は、なつかの手を力強く握ると、真っ直ぐになつかを見つめて言った。一言一言、噛み締めるように。遠野は、はっきりと思いを声にする。

「果たさなくちゃなんねぇからな。一度交わした約束は、絶対に死守しなきゃなんねぇんだよ」

 残り時間が、一分半を切った--。

 デジタル時計の色が、警告音と共鳴し加速する。なつかの背中に腕を回し、遠野はゆっくりとなつかを抱きしめた。

「大丈夫。おまえも迎えに来たんだ。だから、もう……泣くな、なつか」

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