8-3 エンカウンター(3)

「市川さん……様子がおかしくなかったっすか?」

 一言も発せずにいた。いや、発することができずにいた緒方が詰まる声で呟く。頭の中では緒方のその言葉に同意しつつも、遠野は首を縦に振らなかった。緒方は不安げな表情で、遠野を見つめる。

「心配ない……。市川は、大丈夫だ」

「でも……ッ!」

「信じてやれ、緒方」

「……しかし」

 緒方が市川を心配するのも、痛いほど分かる。凶悪な事件に巻き込まれ、心身共に深い傷を負った市川。それを公私共に支えたのが緒方だ。未だ不安定さが残る市川。心の深淵に引っかかる市川の声音。緒方は、その全てが気になって仕方がなかったのだ。

「緒方、優先順位を把握しろ」

「……」

 低く、強く。遠野の揺るがない意志を含んだ短い言葉に、緒方は反論することができなかった。

「俺たちの状況もかなり厳しい。目の前のことに集中しろ、緒方!」

「……」

「本部も市川も……。俺たちが信じてやらなきゃ、誰が信じるんだ?」

 大量に吹き出した額の汗を拭い、遠野は緒方を一喝した。遠野が言わんとする事は、警察官にとって至極当然のこと。緒方は、両手でパチンと頬を叩いて、雑念を振り払った。

 目の前のことに集中--! 迷いは隙を生じさせる!!

「了解!」

 強く返事をした緒方は、拳銃を強く握った。そんな緒方を遠野は眩しそうに見つめると、非常灯が照らす薄暗い廊下に目を向ける。

「……行くぞ、緒方!」

「はいッ!」


 階段を駆け下りる音が響き、直後に発砲音が二、三発耳をつん裂く。非常灯に照らされ浮かび上がる影が、徐々につま先に触れんばかりに近く大きくなった。腕を直角に折り、拳銃を構えた黒い無体。その床の二階に現れた瞬間、無体の影に繋がる実体が大きく体を反らした。

「ッ!!」

 悲鳴をあげる暇もなく、締め上げられた首を引っ掻き、もがきながら、ものの数秒で倒伏する。

 もう一つの影が反応し、慌てて銃を構えるも。背後に現れた強い気配に気付くには遅すぎた。口を塞がれた影は、次の瞬間には、後頭部に鈍器が叩き込まれる。瞬きするいとまも無く、もう一つの影も、ゆっくりと床に吸い込まれた。そして、先に影に折り重なるように倒伏した。

「……何人目だ? 緒方」

 拳銃を握りしめ、深く息をした遠野は、静かにと呟く。

「五人目……。キリがないっすね」

「急ぐぞ、緒方」

「了解」

 遠野は拳銃を握りしめたまま、強張ってしまった手を解し、足音を極力抑えて階段を登る。

 事前に頭に叩き込んだ建物の図面。平面机上では、いたって欧風のシンプルな造りだと思っていた。それは、今回の作戦を知る者全てが認識していたことだ。

 しかし、いざ突入してみるとなかなか思うように前進しない。シンプルな分、互いの動きを察知しやすく、身を隠す場所も少ない。鉢合わせれば、十中八九、接近を伴う銃撃戦となると判断した遠野は、一気に進みすばるを救出する方法から、おびき寄せながら進むゲリラ的な侵入に切り替えた。そういう実戦に則した作戦が立てられるのも、僅かに在籍していた機動隊の経験だ。

「亀の甲より年の功か……」

 心を固くする極度の緊張を解すように呟くと、遠野はたまらず苦笑いした。

 入院中、すばるが監禁されている場所を特定のしたのは遠野だった。

 いや、正解にはすばる自身だ。ブラッド・ダイアモンドにアクセスして以降、こういう状況になることも想定していたすばるは、自らの靴に発信器を仕込んでいたらしい。すばるがパソコンを託した理由を、遠野は今更になって重く受け止めていた。

 すばるに託されたパソコンが、すばるの発信機から発せられる信号を拾い、監禁場所を特定する。その後、突入に係る図面等を準備したのは、市川をはじめとするサイバー犯罪対策課の功績によるものだ。しかし、机上の空論より臨場の現場。こちら側の動きを読まれていた、ということも大きな要因でもが、それを踏まえても、進入の速度はあまりにも遅滞していた。

 遠野は、拳銃を構えながら階段を登り切る。

「この奥だ」

 遠野は確信を含み呟いた。壁に背をつけた緒方に目配せすると、三階のドアをゆっくりと開けた。

 ギィィ--、と。不快な音が響く。

「ッ!?」

 緒方が踏み込むより一呼吸早く、ドアの向こう側から黒い影が飛び出してきた。反動で、遠野はドアごと吹き飛ばされる。もんどり打って踊り場を転がる遠野と黒い影に、緒方はたまらず銃を構えた。

「遠野補佐ッ!!」

「気ィ抜くなッ!! 緒方ッ!」

 黒い影に抑え込まれた遠野が、緒方に向かって叫ぶ。緒方の体は、その声に即座に反応した。体を小さく回転させて、黒い影に鋭い側蹴を入れる。深く喰い込んだ側蹴の反動は、黒い影の実体を大きく歪ませた。

「ぐぁっ!」

 呻き声をあげた黒い影は、ドタン、ドタンと鈍い音を響かせながら階下へと落ちていく。強力な圧迫から解放された、遠野の息が上がる。壁にぶつかって動かなくなった黒い影を見送ったその時、遠野の視界がキラリと光る何かを捉えた。

「緒方ッ! 後ろッ!!」

「ッ!?」

 非常灯の光を反射し形を顕にしたのは、一点の曇りもないサバイバルナイフ。刃こぼれ一つない鋭利な切先が、緒方に向かって振り下ろされる。

「緒方ッ!!」

「なめん……な! ゲス野郎ッ!!」

 瞬間、サバイバルナイフの動きが止まった。間髪のところで、緒方が制圧にかかる。緒方の腕の二倍はあろうかと思える、サバイバルナイフを持つ黒い腕。緒方は相手の懐に素早く体を入れると、その手首を上から押さえていた。見たこともない、余裕のない表情、遠野は息をのんだ。

「遠野補佐ッ……早く先にッ! 先に行ってくださいッ!」

「……緒方ッ!」

「早くッ!!」

「……すまん、緒方ッ!」

 先に……! そうだ、先に進まなければ! 

 遠野は瞬時に体を起こすと、扉の向こう側へ矢のように走り出した。胸の鼓動があり得ないほど速くなる。

 緒方も、市川も、サイバー犯罪対策課の皆も。全ての上に成り立つ自分の足元。緒方に強く「気にするな」一喝したとはいえ、気にならないと言えば嘘になる。しかし、少しの判断の迷いすら許されない状況は、遠野の体を否応なく動かした。遠野は振り返ることなく、正面にある閉ざされた鉄扉を睨んだ。

 あそこ、だ--!! 間違いないッ!!

 躊躇なく。走る勢いのままに、鉄扉に足を伸ばした。


--バンッ!!

 遠野は拳銃を構えたまま、乱暴に部屋に突入する。瞬間、目の前の光景に目を疑って、後ろ足を引いた。ぼんやりと浮かび上がる二人分の黒い輪郭。

 ステラとすばる。遠野は、直感した。

「やぁ、初めましてだね」

 この状況に似つかわしくない、穏やかな口調。遠野は応えることなく、声の主への拳銃の照準をそのままに、撃鉄に親指をかけた。

「ここまでこれたんだ。日本の警察も、なかなかやるなぁ」

 非常灯の薄暗い灯りに目が慣れ、ぼんやりとした黒い輪郭が色味を帯びて鮮明になる。

「ッ!?」

 刹那、遠野の背中に冷たい汗が伝った。

 こめかみに銃口を突きつけられて震える、すばると。顔の半分に酷い火傷を負った男、ステラと。

 それだけなら、すぐ制圧できる自身は遠野にはあった。しかし、頭の中で描く、算段が脆くも崩れ去る。

 二人の首には、あのドーナツ状のパイプ爆弾。正面に、二人の運命を握る〝時間〟が刻々と刻まれている。遠野は狼狽した。

「……クソッ!!」

「遠野さん、だっけ? すばるが大分、お世話になったみたいだね」

「……」

 ステラの痛々しい傷跡が遠野の視線を奪う。この状況を楽しむかのように。ニヤリと笑うステラが、遠野は心底恐ろしく感じた。銃口をすばるのこめかみにグッと押し付け、ステラはさらに続けた。

「時間はまだある。少し話をしよう、ね?」

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