4-3 経験と違和感(2)

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『さっさと辞めちまえばよかったものを。いつまでもしがみついてんじゃねぇよ』

 市川の経験と違和感が、怒りや焦りとなる。

 無意識に握った拳が小刻みに震え、既に消えているはずの体の痛みに、市川は下唇を噛み悔しげに顔を歪ませた。

 ガラス窓一枚隔てた部屋の向こう側では、爆発による鑑識作業が進められいた。

 原型を留めない、小さな凶器の一つ一つ。散り散りとなったの爆発物の破片は、現場から全てを回収され、テーブルの上に広げられている。髪の毛を一本残らずヘアカバーに納めた鑑識は、黙々とそれらを写真に収めていた。

 パイプ爆弾--。

 金属やプラスチック製のパイプの中に火薬と発火装置を入れ密封する、極めてシンプルな爆弾だ。手製爆弾としては、一番有名で代表的なものと言える。

 遠野とすばるを襲った男・森山秋雄の首に装着された爆発は、形状・構造からしてパイプ爆弾の典型であった。

 鑑識作業を待つ市川は一人、薄暗い部屋で一時間ほど前の出来事を思いかえしていた。


「そんな……!!」

 市川は、受話器の向こう側にいる相手に怒りを覚えた。

『ここから先は本庁私たちが引き継ぎます。現在地にて対象者を待機させておいてください』

 淡々と話す本庁の担当者の言葉は、幾分呆れたような語気を含んでいる。衝動的に芽生えた怒りを懸命に抑えつつ、市川は深く息を吸った。

「元々は本庁で対応する事案なはずです。手が離せないからと、偽造認定まで使って丸投げしてきたのはどちらですか?」

『こんなことになるんなら、早く引き継げはよかったよ。本当、無能だな』

「待ってくださいッ! 無能だなんて!」

『……あんた、の被害者なんだろ?』

 受話器越しの相手の声が、一気に冷たくなった。

 不意に投げつけられた言葉。その言葉は短く意味の羅列をほぼ成さないのだが、市川の全身を冷たくさせるには十分な言葉だった。ぶり返す記憶と、無数に蘇る体の痛み。受話器を手にしたまま、市川はで自身の口を強く押さえる。氷水のように冷たくなった手は、市川を余計不安定にさせた。

『あんたが担当とはなぁ。知ってりゃ任せなかったよ』

「ッ!!」

『さっさと辞めちまえばよかったものを。いつまでもしがみついてんじゃねぇよ』

 反論なら、いくらでもできた。一方的な理不尽さに腹が立たないわけでもないし、今までだってこんな事がなかったわけでもない。あったとしても、大分流せるようにもなっていた。

 しかし、何故か。市川にはその言葉が、自らの体を刻んだ短刀に思えて仕方がない。僅かに記憶に残る痛さ。それが一気に押し寄せ、体を動かせなくする。フラッシュバックする恐怖が大きな塊となって喉に閊え、息苦しさで上手く声が出せなかった。

 顔も知らない相手に、冷たく浴びせられた言葉。それが起爆装置となったかのように。経験からくる忌まわしい記憶が市川の中で爆発した。体を支える市川の力を奪い、四肢が弛緩する。膝が折れ、受話器がするりと市川の手から抜け落ちた。

「その話、今関係あるんっすか?」

 瞬間、落下寸前の受話器と市川の体を、温かな両手がしっかりと受け止める。市川は驚いて、目を見張った。

「ゆ……勇刀!?」

 辛うじて発せられた市川の乾燥した声。こんな状況にも拘らず、緒方はいつものように人懐っこい笑顔を市川に向けた。

『はぁ!? おまえ誰だよ!? おまえこそ、関係ないだろ!?』

も今回の事件も携わってるんで。俺、あんたほど無関係じゃないっすけど?」

『おまえ、誰に向かって口聞いて……』

「本庁の要件は、了解しました。仰せのとおり、対応します」

「……勇刀ッ!」

 違を唱える掠れた市川の声を、緒方は屈託のない笑顔で制した。

「ただし、対象を引き継ぐまでです」

『は? おまえ何言って』

「当たり前じゃないっすか。本庁のエリート様は、無能な俺たちの力なんか、借りる必要ないっすよね?」

『……』

「この件に関しては、担当課長に上申します。詳細が決まりましたら、また連絡をお願いします」

『分かればいいんだよ、分かれば』

「ついでに、について言及されたことも、詳細に上申しますんで」

『なっ!?』

 緒方はグッと喉に力を入れる。力強い声が、受話器の向こう側にいる相手でさえも圧する。

「あの事件では何人もの仲間が死んで、負傷した。それでも愚直に、事件解決のために邁進したF県警を侮辱したんだ。それに」

 市川を支える腕に力を込めた緒方は、見えない相手を睨むように眼光を鋭くさせる。

「有能な本庁あんたらの所為で、すばるに何かあったら。俺は一生、あんたらを許しませんから」


「市川さん、コーヒーでいいっすか?」

 薄暗い部屋ドアが勢いよく開いて、心地よい風が入り込む。同時にいつもかわらない明るい声が、市川の静寂と思考を破った。

「あぁ、ありがとう」

 緒方から缶コーヒーを受け取った市川は、予想外の冷たさに小さく驚く。

「遠野補佐には、俺から連絡入れました。まぁ……少し。いや、大分納得してない様子でしたけど」

「当たり前だ。私だって納得していない」

 市川は吐き捨てるように言うと、コーヒーを口に含んだ。緒方は横目で市川を見ると、同じようにコーヒーを流し込む。

「市川さん、最近寝てないんじゃないっすか?」

「……この件が終わったら。少しは落ち着くだろう。自分だけが頑張っているわけじゃない。個々の力が合わさっているからこそ、成り立っている。それに」

 市川はガラス窓の向こう側に視線を投げた。

 まだ、為すべきことを為してない。自らの特殊な経験を昇華し生かすことも。生じた違和感を伝えることも。一歩づつ確実に。そう、なりふり構うことなく--。

「やるべき事が残っている以上、組織にしがみついていたいじゃないか」

 市川の固い決意が吐露されたその時、室内のスピーカーがガサッと音を立てた。

『証拠品、全てデータに取り込みました。そちらに転送します』

 証拠品採取をしていた鑑識は、窓ガラス越しに市川へ視線を送る。市川は大きく頷くと、長机に置かれたパソコンのマウスを握った。


✳︎ ✳︎ ✳︎



『只今より、K警察署管内で発生した爆発物事件について会見をいたします』

 静かに、そしてせわしなく。見る人のいないテレビは、目を閉じた遠野の耳に聞き覚えのある口調と声を流し始めた。

 会議室の一角。外に出ることなどもちろん叶わない遠野は、すばる二人この部屋で待機を命ぜられていた。市川から送られてきたメールの内容に浅く息を吐くと、添付されたファイルをダブルクリックする。

 すぐ下の階では、爆発に係る捜査本部が敷かれ、署員総出で対応しているにも拘らず。この空間は、隔離されたと錯覚するほど静かだった。テレビが流す騒音はとても遠くに存在しているようで、遠野とすばるの呼吸だけが、生きている証を大きく深く刻んでいる。

『本日、午前五時三十分頃。K県F駅広場において、S県S市在住、職業『会社役員』の森山秋雄・三十八歳を、爆発物を体に装着させた状態で発見。県警において直ちに森山を確保するとともに、警備部機動隊爆発物処理班により、森山が装着した爆発物の撤去・処理を行った。午前七時五分、当該処理作業中に爆発物が破裂・爆発。この爆発により、森山及び機動隊爆発物処理班・道免宗一郎巡査部長が死亡。並びに周辺警戒中の警察官を含む五名の警察官が、負傷したものである。爆発物の撤去・処理については、複数の爆発物処理班の目視などにより爆発物の構造や形状を確認し、慎重かつ万全の体制で臨んでいたもので、今回の爆発については、撤去・処理における想定の範囲ではなかったものと思料される』

 遠野は、ゆっくりと目を開けた。

 県警の幹部の、事実のみを単調に伝える会見。一瞬静まり返ったテレビの音は、瞬時に記者の質問とシャッター音で一気に騒がしくなった。遠野は空いたもう片方の手でリモコンを握り、音量を小さくした。

(お偉いさんの言葉ってのは、本当……何にもな)

 市川から送られきたメールの内容と会見の内容を重ね合わせ、遠野は燻る憤りを押し殺す。

 爆発から三時間時間。K駅周辺は未だ封鎖され、騒然としていた。

 K警察署の窓から見える景色は、朝とは違う。

 緊迫感が抜け落ちた現場は色味を失い、爆発の後を鮮明に浮かび上がらせる。

 僅かに耳に入り、頭の中へと落ちていくテレビからの騒音。会見の一言一句が、すばるの記憶を深く抉り出した。

 直近の記憶と古い記憶。それが断面的に瞼の裏に現れては、爆発するようにすばるの脳裏に広がっていく。ひっくり返された全てのトラウマ。実際には聞こえない爆発音が耳鳴りを引き起こし、感じなかったはずの熱風が身を焦がしていく。いくら払っても消えない幻の火は、抵抗できないすばるの体をじわじわと燃やし尽くすようだった。それは、すばるのてっぺんから爪先までをも緊張か硬直させる。

 不意に重ねた自らの手が、異様に冷たい。自分で自覚してしまうほど、冷たく震える指先は無意識に暖かさを欲していた。

 すばるは、マウスの上に置かれた遠野の手を握った。

「すばる?」

「……少しだけ、このまま」

 力強いのに、異様に冷たいすばるの手。遠野は息が止まるほど驚いた。思わず、すばるの顔を覗き込む。俯いたすばるのその表情は、遠野からは確認することが出来なかったが、自分の中のトラウマに必死に抗うすばる様子に、遠野は胸が締め付けられる思いがした。

 脆く、触れたら砂になってしまいそうな不安定な華奢な体。泣き叫びもせず、自分の感情を押し殺し耐える姿。遠野は言葉をかけることなく、すばるの冷たい手をグッと握り返した。

「いいよ、すばる」

「ありがと……遠野さん」

 遠野は、俯いたまま手を強く握るすばるの隣に座りなおした。パイプ椅子が軋むほど深く腰掛けると、深く息を吸い目を閉じた。

(経験と違和感……か)

 遠野は再び、目を閉じた。

(頭ん中の経験と腹ん中の違和感、どう処理する?)

 自分のすべきことは、まだある。本庁がなんと言おうと、こんなところで立ち止まっている場合ではない。

(自分が迷うと、すばるもきっと……)

 遠野は自身の気持ちを鼓舞するように。未だ冷たいすばるの手を、遠野は包み込むようにギュッと握りしめた。

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