第二十八章 日記帳

小鳥の声で、さゆりは目を覚ました。

カーテンを開けたままの窓から、朝の日差しが幾分強く女を照らしている。


まぶしそうに目を開け、時計を見た。

まだ5時であった。


だがさゆりは元気よく飛び起きると、顔を洗って身支度をした。

何しろスーツケースの中の物を、じっくり見たかった。


卓也や広子から買ってもらった、夢のような高価な品物が詰まっているのだ。

スーツケースを開ける前に、ふっと左手の重さに気がついた。


昨日、はめたまま眠った指輪が朝日に輝いている。

手を光りにかざしてみると、ブリリアンカットの大粒のダイヤがキラキラと光のシャワーを浴びせかけてくる。


ほうっと、ため息をつき暫く眺めた後、スーツケースの蓋を開けた。


品物を取り出すと、下の方に見慣れない本を見つけた。

手にとって開けてみると、男らしい角張った文字がびっしりときれいに並んでいる。


(何かしら・・・日記みたい。

男の人みたいな字だし、もしかしたら卓也さんの・・・?)


さゆりはベッドに座り直して、それを読みだした。

人の日記を読むのは少し気がひけたが・・。


何しろ卓也の事はローマでの数週間の事しか知らないのだ。

日記は今年の一月から始まっていた。


最初の方は会社の事と株の利益などが淡々と事務的に綴られている。

ひどく冷たい文章で、よくはわからないが楽しさが少しも伝わってこなかった。


人生に対して夢も希望も感じられず、さゆりの心を重くしていった。

これが二人きりでローマで過ごしてきた男の文章なのであろうか。


あれ程激しい愛をぶつけてきた想いが何にも感じられない。

ただ季節を描写する表現は目を引くものがあり、唯一さゆりの心を引き込んでいった。


読み進んでいく内に、さゆりは男を余計に愛しく思った。


男は本当に心の乾いた人生を送っていたのだ。

ワケはわからないが、ずーっと暗い闇の中をさまよっているように感じた。


だから出会った時、あれ程愛想もなく無口であったのだろう。


さゆりはため息をついて窓の外を見た。

今度帰ってきたら優しく抱きしめてあげようと思った。


そして再び本に目を落とすと戸惑いの表情を見せた。

それは卓也が仕事に追われ体調をくずし、入院したところからだった。


表現がうまいので、自分でも胃が痛くなる程苦しみが伝わってくる。

さらに続きを読んだ。


※※※※※※※※※※※※※※※


  5月5日(水) 晴れ


今日で入院して十日になるのにいっこうによくならない。

大事な実験データをとっている時なのに、はがゆくて仕方がない。

幸いゴールデンウイークなので良かったが、明日から会社が始まるというのに。


今日は子供の日か。

思えば小さい頃から貧乏で、あまりおもちゃとか買ってもらった記憶がないなあ。


柏餅は食べたけど・・・。

よく友達の見せびらかす、おもちゃを見てうらやましく思ったものさ。


母さんもつらかったろうな。

でも苦しかったからな家の家計は。

逆に今は何も欲しくない。


人生なんて何もかもむなしく思えてくる。

今はただ新薬を作る事だけが生き甲斐だ。


あとは金さ。


会社に入ってから寮から通っているし、三度の食事も社員食堂と寮で全てとっているからだいぶ貯まった。

株も細かく研究してるし、絶対借りたりせず堅実に自己資金でやってたから幸い損もせず着実に貯まってきている。


だが、それが何だというんだろう。

結局何にも使わず、週一回やるサッカーにかかるスパイク代ぐらいだ。


今年で三十歳になった。

俺の人生って何だったんだろう。


※※※※※※※※※※※※※※※


  5月6日(木) くもり


今日診察室に呼ばれてレントゲンを見せられた。

再検査だそうだ。

胃に影があった。


医者は、はっきり言わなかったが、あれはガンの影だ。

仕事柄、そういうのには詳しいからわかるんだ。


何てこった。どうする・・・。


何もない人生だった。

父と母が死に、特に苦労して大学にまであげてくれた母が死んで以来、人生に対して何の希望もなかった。


父が売れない小説家だったからこそ、反対の理系に進んだんだ。

あんなに一生懸命金を貯めたのに、結局使うひまもなく俺は死んでいくのか。


死ぬ?

そうか・・・そうだろう。


死ぬんだ・・・俺は。

この若さだ、アッというまにガン細胞は広がるだろう。


何て人生だ。

恋もせず、愛も知らずに死んでいく。


ただ、それが何だというんだ。

このまま生きていても、ただ食べて仕事をして疲れるだけの人生じゃないか。


でも・・・しかし・・・

死ぬんだ・・・俺・・・どうしよう・・・。


※※※※※※※※※※※※※※※


 5月7日(金) くもり


昨日から食事が喉を通らない。

検査が終わったから食べてもいいのだが、そんな気にならない。


あんなに大食漢だった俺が・・・。

入院中も、看護婦が呆れる程の食欲だったのに。


まあ、あれでもいつもの半分しか食べていなかったのだが・・・。


もう何もわからない。

何もする気がしない。


本を読んでも頭に入ってこない。


死んじゃうのか・・・俺。

うそだろ・・・冗談じゃない・・俺が何したっていうんだ。


神様・・・そうだったな、神様なんかいないんだ。

祈った事なんか一度もなかった。


いや、二度ある。

父さんと母さんが死んだ時だ。


あんなに祈ったのに二人ともあっけなく死んでしまった。


そうさ、神様なんていないのさ。

死んだら、ただ土にかえるだけさ。


ただ目の前が真っ暗になって、おしまいなのさ。

イヤだ・・・・死ぬのは・・・イヤだ・・。


    ※※※※※※※※※※※※


さゆりは日記を置くと窓の外を見た。


(卓也さん・・・まさか、そんな・・・)

顔から血の気がひいて真っ青になり、目はうつろで宙をさまよっている。


いてもたってもいられず、再び日記に目を落とした。


※※※※※※※※※※※※※※※


 5月8日(土) 晴れ


今日は病院を抜け出して街へ出た。

別にどこへ行くあてもなかったけど、ベッドの中にいると気が狂いそうだった。


あてどもなく川沿いに堤を歩いていると、路地を少し入ったところに小さな十字架のかかった屋根が見えた。

フラフラと近づいてゆくと扉があいていた。


まだ朝の早い時間なのか誰もいなかった。

正面に十字架にぶらさがったキリストがいた。


俺は中に入っていき、壊れかけた木のベンチに座った。

ふと横を見ると、朝の日差しがステンドグラスを通して中に入ってきている。


俺は息をのんだ。

きれいだった。


赤ん坊を抱くマリア像が、俺に優しく微笑んでいるようだった。

そのまわりを天使が飛びかっている。


俺の心の中で賛美歌が聞こえるようだった。


俺は十年ぶりぐらいで涙を流した。

母が死んで以来の涙だった。


俺はまだ生きている。

誰かを愛したいと思った。


愛される事などは無理としても誰かを愛せたら・・・。

せめて好きになる感情でも味わえれば。


そうすれば、少しは安らかに死んでいけるのではないだろうか。


今まで愛を否定していた。

愛から逃げていたのに死ぬ事がわかって初めて気がついた。


愛が欲しいって・・・。

空の青さがこんなに心にしみるなんて。


神様・・・勝手だよな。

都合が悪い時だけ頼るなんて。


でも・・・さ、これで最後さ。

どうせなら死ぬ時ぐらい誰かの名前を呼んで死んでいきたい・・・。


それが、たとえ実らぬ恋でも・・・。


   ※※※※※※※※※※※※


さゆりは目に涙をためて読んでいた。

卓也の気持ちや苦しみが痛いほどわかった。


それでもその後が気にかかり、読み進めていった。


それからの事は会社を辞めたり、お金を全てクレジットカードの口座に移したり、さゆりのローマ旅行のツアーに申し込んだ事などが書いてあった。


さらに日記は続く。


※※※※※※※※※※※※※※※


 5月14日(金) 雨


今日はローマ旅行への出発日だ。

今は夜で飛行機の中だ。

ローマには日付変更線を越えてるから土曜日の午後着くだろう。


いよいよだ。


そんなに都合よく恋の相手が見つかるわけはないだろうが、とりあえず病院にいるよりはいいだろう。

担当の医者が出張中に無理矢理、退院したけど今頃大騒ぎになってるかな?


でも仕方がない。


俺には時間がわずかしか残されていないんだ。

丁度うまいタイミングでキャンセルが出て、すべり込めた。


全ては明日からのローマで始まる。

全ては。


添乗員の女性はメガネをかけているのが珠に傷だけど、少しドキッとした。

看護婦さんとかには、何も感じなかったのに。


きっと旅の興奮で、そういうふうに見えたのかな。

サングラスをかけててよかった。


ジロジロと女の人を見るのは失礼だし、今までそんな事したことなかったから・・・。

今日はもう遅い、眠るとするか。


日本では雨だったのに、雲の上には満天の星空だ。

ペガサス座の四辺形が見える。


たしかあそこからアンドロメダ座が続いているはずだ。

小さい頃、星の好きな父に聞いたことをまだ覚えている。


明日は晴れるといいが・・・。


※※※※※※※※※※※※※※※


 5月15日(土) 晴れ


ローマに着いた頃、すっかりいい天気になっていた。

日本とはずい分離れているから当然かもしれないが、さい先がいい。


バチカン市国のサンピエトロ広場では沢山のハトが舞って気分が高まった。

『ローマにようこそ』と言った吉長さんの声が印象的だった。


何か気になる人である。


ただ、高田というオジさんが、やたらとあの子にまとわりついている。

俺もあれくらいズーズーしければいいのに。


これって恋なのかなあ・・・わからないな、したことないんだから。


※※※※※※※※※※※※※※※


それから、こと細かくローマ旅行の事が綴られていた。

卓也の文章は読みやすく、きれいな字で整然と並べられている。


さゆりは思わず引き込まれ、笑ったり顔を赤くしたりしていた。


真実の口で、高田に驚かされて卓也の首に抱きついた事や広尾のオバ様軍団、バールでのサッカー観戦・・・さまざまなことが楽しく展開していくのだが、時折、死を覚悟した文章を読むと胸がしめつけられる思いがした。


その後、4人で旅するようになってから、明らかに文章は変わっていった。

明るくなり、希望に満ちている。


とりわけ、さゆりに対する日々つのっていく思いを読み進むうち、さゆりはすぐそばに卓也がいるような気さえするのだ。

二人が初めて結ばれたシーンも細かく描写されていて、身体の奥が熱くなってしまう。


とうとう最後まで読み進み、日記は卓也と別れる前夜のところで終わっていた。


※※※※※※※※※※※※※※※ 


 5月22日(土) 晴れ


明日で、さゆりさんと別れる。


早いものだ。

一週間は無限に続くかと思えた時もあったのに。


それでも神様に感謝したい。

夢のような旅を続けられたのだから。


もう、思い残すことはない。

ただ一つ気がかりだったのは、今日さゆりさんにプロポーズしてしまった事だ。


もちろん自分の本心だけど、残されたさゆりさんの事を思うと辛い。

そう、君はこの日記を読んでいてくれていますか?


僕はこれを君のスーツケースにしのばせておきます。

たぶん今日本でこれを読んでくれていることだろう。


もしかするとサッカーの試合のあと、僕が電話してから読んでいるかもしれない。

それならそれでいいんだ。


ごめんね・・・さゆりさん。

僕は君の声を最後に聞いたら死んでいきます。


クレジットカードの残りは500万円ぐらいになってしまったけど、通帳と印鑑を入れておきます。

僕から半年連絡がなければ、死んだと思って下さい。


もしかしたら新聞に載っているかもしれない。

日本人がホテルで自殺したってね。


睡眠薬を日本から持ってきていたんだ。

そういえば君に飲まされたね、睡眠薬。


今度は一ビン全て飲むつもりさ。

一緒にいて楽しかったことを思い出しながら・・・ね。


頼むから、もしこれを読んでいても電話に出ても泣かないでほしい。


でも無理か・・・。

泣き虫だものね、さゆりさんは。


本当にごめんね、うそをついていて。

真実の口の神様も、きっと大目に見ていてくれたのかな。


僕は呉服屋の御曹司でも何でもないんだ。

天涯孤独なただのサラリーマンなのさ。


ただ人より余分にお金を貯めていたんだ。

君に会えてよかった。


どうか僕の事は忘れて・・・いや、ごめん・・・こんな言い方は卑怯だよね。


でも信じてくれ、僕はきっと君を見ている。

死んでからも、どこからか必ず。


そして、生まれ変わってでも君に会いにいくよ。


どうか・・・。


何を書いてもダメだね。

結局、君を悲しませるしかないのかな。


でも愛している、さゆりさん。

世界中で一番、君を・・・。


さようなら・・・。


ごめんね・・・。


泣いちゃあ・・・だめだよ。


※※※※※※※※※※※※※※※


日記はそれで終わっていた。

かすかに、涙のあとのしみがあるような気がする。


さゆりは目から大粒の涙を流している。

心の中で叫んでいる。


(バカ・・・卓也さんのバカ・・・。


何が泣き虫よ・・・

こんな大事な事黙ってて・・・・

どうして・・・本当なの・・・?


私をだましているんでしょう・・・?


私が嫌いになって・・・

私と別れるために、こんな作り話をかいたの・・・?)


でも、さゆりには分かっていた。

卓也が嘘をつくような男ではないことを。


それに一つ一つの想い出が思い当たる事ばかりであった。


毎日、必ず胃薬をのんでいた卓也だった。

楽しく会話をしていても、時折遠くを見るような目になっていた。


どんな時でも死と隣合わせにいたのだ。

それなのに澄んだ瞳で、さゆりを見つめていた。


そうなのだ、さゆりが好きになったのも、あの真剣な眼差しに惹かれたからなのだ。


サングラスをとってからの卓也の視線は、確実にさゆりの心の中に入っていった。

一日一日しみ込むように心地よく、さゆりの心を支配していったのだ。


日記を胸に抱きしめ、窓の外の空を見上げたさゆりは、いつまでも涙を流すのであった。 

卓也はまだローマにいる。


どうすればいい。

どうすれば連れ戻すことができるのだ。


(神様・・・)自分も祈りなどした事はなかったが、心の底から願った。


男を返してほしいと。


男のぬくもりを、もう一度この手にしたいと思った。


どうか奇跡が起きて下さいと懸命に祈る。

初夏の日差しがふりそそぎ女の影を濃くベッドに映している。


ツバメが窓を素早くよぎった。

神様の返事なのだろうか。


誰にもわからない。


ただ、わかっている事はあと数時間後に男から電話が入り、そしてその後、永遠の旅にたつことだけなのだ。


神様・・・。

女はもう一度、空を見上げて祈った。


ツバメが又一羽、よぎっていった。

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