3 嫌悪すべき男

 その辺りに木はなかった。わずかに生えた柴やススキが、雪の中からなんとか頭を出している程度だった。黒茶色に汚れた、朽ちかけのカカシだけが、そこがまだ人間のいる国だと教えているようなものだった。

 雪はどんどん強くなり、吹雪になってきた。山道となると、何もかもが白に沈む。

 灰色の横風の中を、橙色の光が左右に揺れながらやってくる。ギイコロギイコロと車輪がきしむ音も近づいてくる。馬の荒い鼻息と、一定の調子で歩を刻む音もいっしょだった。

 影もあらわれた。車輪のついた大きな箱──馬車だった。二頭の馬が輓いている。着物や獣皮の塊のようなのが声を発し、鞭をくれていた。橙色の光は、その箱の角にぶらさがっていた。

 車体には家紋が描かれていない。箔で、丸に州浜。内からは、男女の愉しげな笑い声が洩れでていた。

 峠に差しかかろうとしていた。先は葛折りになっている。その一つめを曲がったあたりで、人影が前に立ちはだかった。三度笠を目深にかぶり、真っ黒な合羽を羽織った小男だった。

 着ぶくれの御者は手綱を引いて馬を止めた。目を細めて小男を見つめる。

「おい」小男が声をかけた。馬車を指さし、「これ、峠の向こうまでか?」

「そうだが」大声だった。訊ねかえす。「おめえはどこのどいつだ」

「しがねえ博奕打ちだ」小男も大声でかえした。「そいつ乗り物だろ? 乗っけてくれ。峠を下るまででいい」

「俺はかまわねえがよぉ」

「なんだ」

 馬車の中から声があがった。

「おいどうした」すこし高い、太い声だった。「なんかあったか」

 御者は振りかえって、「妙な渡世人さんが乗っけてくれって」

「渡世人?」

「へえ」御者はこたえた。「峠の向こうまで乗っけろって」

「なんでもいい、乗っけてくれ!」渡世人が口をはさんだ。「この向こうに、遠縁のモンがある。そいつに会いに行くだけだ」馬車の横にまわる。

 窓にかかった幕から、男が顔をだした。人の倍ほどある大きな顔をした、うっすら青い坊主頭の大入道だった。海苔を貼りつけたような眉をひそめ、黒目がちな丸い目で、渡世人の爪先から頭までをにらんでいる。

「ナニモンだてめえ」大入道がいった。見てくれのわりに高い声だった。

「やくざモンだ俺は」小男がこたえた。首をかしげ、大入道の顔を見つめた。「おまえ、大窯の宇山うざんか?」

「ああそうだ」うなずく。眉間のしわがすこし緩んだが、訝しげな表情にかわりはない。「そうだが、なんだ、会ったことあったか?」

「〈カラス〉だ」小男がいった。「半年ほど前、阿梨曽奈ありぞなの火鳥でいっしょに出入りに参加した」

「〈カラス〉?」眉間のしわがまた深くなった。「あ!」しわがいちどにほぐれた。好意ある表情になる。「〈カラス〉か! 生きてやがったか!」笑い声になる。「なにしてんだ、こんなところで」

「山賊狩りだ」小男は馬車の前のほうを指さした。白い死体がいくつか転がっていた。橇に乗っている。「邏卒に渡しゃ、小遣い稼ぎにはなる」

「いい商売だな」

「まさか。スズメの涙だ。莫迦らしくなってくる。馬すら雇えねえ」

「そりゃご愁傷様だな。貧乏はやくざの友だ」

「生かしといた奴に橇を牽かせてたんだが、そいつもくたばりやがった」大入道のほうを向いたまま、もういちど前のほうを指さし、両手をひろげた。「もうどうしようもねえ。あれと心中なんて御免だ」

「再会を邪魔してすまねえが」御者が口をはさんだ。「吹雪に追いつかれちまう。さっさと決めてくれねえと、みんなあのホトケと心中だぞ」

「わかってる、焦るな」大入道がかえした。小男のほうを見て、「待ってろ、いま訊いてみる」

「ああ」

 大入道の顔が車内に引っこんだ。吹雪はすぐそこまで来ていた。声が洩れてくる。

 ──ということなんですがね、どうでしょ?

 ──あれは、大丈夫なのか?

 ──てぇ言いますと?

 ──急に襲ってきたりはせんだろうなと言っとるのだ。だからおまえは救いようのない莫迦だというのだ。

 ──へえ、そりゃあ。野郎は分別もわきまえてりゃあ、読み書きもできる奴でさあ。そこんところの心配は無用ですぜ。この宇山を信じてくだせえや。

 ──ふぅむ……まあよかろう。

 馬車の戸が開いた。大入道の巨体がひり出てきた。

 笑みを浮かべ、「良いってよ」死体のほうを指さし、「載っけんの、手伝うぜ」

「おう」

 三人は死体を馬車の上に載せようとした。小男と大入道が下から持ちあげ、御者がそれを引きあげる。死体は逆さまだ。

 馬車の中、芸者風の女が幕をそっと開いた。目は意地悪げな色が浮かんでいる。窓に、目を剥いた、凍った男の顔が逆さに貼りついていた。男は力なく揺れている。女はみじかく悲鳴を洩らした。

 馬車から声があがった。「待て」

 大入道と小男は手を止め、声のほうを振りむいた。

 開いた戸から、男が姿をあらわした。額が大きくつき出したカニのような顔をした中年男で、頭頂は禿げあがっている。官服ふうの洋服を着ているが、似合っていない。手は前装式小銃エンフィールド・カービンを握り、小男に銃口を向けていた。

 カニ男は続けた。「死体ホトケは載せるな」銃口で地面をしめす。「すぐに下ろせ」

「俺の義兄あにきぶんだ」大入道が耳打った。「鎌田の吾作ってんだ。湯田の藪下親分のとこで代貸してる」

「ほう」小男は吾作を見つめた。

 目の裏に、いくつかの人影が浮かぶ。

 吾作は続けた。「この吾作様に、汚ねえホトケと旅をしろと言うのか、このイカレポンチが」小さい口の両端には泡が浮かんでいる。「どうしてもってんなら、いますぐてめえを風穴のあいたホトケにして、そこらに埋めて肥やしにしちまうぞ」

 小男は口を結んだまま、笠の下から目を光らせていた。

「なんとか言ったらどうなんでえ、ええ?」

「おい、〈カラス〉」

 小男は唇の隙間から息をついた。うなずいて、うつむく。「わかった」また息をついて、御者を見あげた。「すまねえ、そいつは捨ててくれ」

 御者は小さな声で悪態をつき、死体を蹴落とした。

 馬車はふたたび動きだした。

 小男は大入道の隣に。向かい側の右手に吾作が坐り、その隣にはけばけばした女が坐っている。女は嘲りのまなざしを、吾作は訝しげな目と銃を小男に向けている。

「おい」女が小男に訊ねた。声には目と同じく、嘲りの色がある。「なんで笠とらねえんだい? 失礼じゃねえかよ」

「そうだ」吾作がうなずいた。銃口で小男の笠をつついた。「そりゃなんだ、俺様にゃあ、礼儀はいらねえってか」

 小男がつぶやいた。「見れた面じゃねえんでな」

「なに?」女がいった。紅を塗りたくった唇が吊りあがり、黄色い歯がのぞく。「おう、みせてごらんよ」脚をのばし、小男の膝頭を蹴る。「みせてみろよ。てめえの汚ねえ面おがんでやるよ。みせろ、みせろよ」

 小男の身体が揺れる。うつむいたまま、口を開かない。

「まあまあ、姐さん。そのへんで」大入道が止めに入った。女は舌打ちして脚をもどした。「その、なんだ、〈カラス〉よ」小男にいった。「ちっとぐれえなら、みせてもいいんじゃねえか? てめえに減るもんはねえんだし」

 小男は鼻を鳴らした。「そうだな」両手を首元にやり、三度笠の紐をといてゆく。「減るのはあんたがたの寿命くれえだ」

「なに?」吾作が眉をひそめた。

「どういう──」女が喰ってかかろうとした。が、言葉は出なくなった。

 三度笠をはずし、小男は顔をあげた。

 醜い──そう表現するほかない顔だった。顔の右半分──額の右側から目尻を通り、顎の下までにかけてが、ただれている。右耳も欠けている。鼻はねじ曲がり、唇は血の気がなく薄い。左の頬にはえぐったような大きな疵痕がある。眉はほぼなく、目は細く、窪んでおり、瞳は無感動に沈んでいる。

 醜男は、ニッと微笑んだ。

 女は唇を垂らしたまま、言葉をうしなっている。目と息は恐れに震えていた。

「わかった、もういい」吾作は顔をそむけ、小男に向かって左手を振った。「笠はかぶったままでいい」

 小男は鼻を鳴らし、笠を目深にかぶり直した。「満足していただけたようで」

 空気が重く冷たくなった。

「あー、なんですな」大入道が口を開いた。「この宇山に匹敵するくれえの醜男もいたもんですな」喉から笑いをひねり出す。

 吾作と女も笑った。ひきつった声で、なんとか搾りだしたような笑いだった。

「好きでこんな面になったんじゃねえや」唇だけを動かし、小男がいった。抑揚のない声だった。

 正面の二人は笑いをおさえた。ひきつった笑みだけが口元にのこった。

「そ、そらあ」大入道がとりなした。「誰しも、好きこのんで醜男なんぞに生まれねえさ」ためらうような目で隣をみる。小男は無感動なようすでうつむいている。「あー」口を結び、舌で唇を湿らせる。口を開け、顔を隣に向ける。「それより、なんでおめえ、この先に用があるんでえ? なんもねえ糞溜めみてえなトコだぜ」

「なにもないとは失礼だな、宇山」吾作がいった。目には安堵の色がある。「この吾作さまの縄張り《シマ》だぞ」

「あいや、これはとんだ失礼を」大入道は微笑み、右手で額をピシャリと叩いた。

「この先には」小男が口を開いた。車内のまなざしが集まった。「この先には、知り合いがいる。旧い知り合いだ。むかし、とても世話になった。ようやく居場所をつかんだんで、礼を言いに行く」すこしだけ顔をあげて、「で、あんたがたは? やくざがシマを離れるなんざ、何かあったってことだろ」

「それは、だな」大入道がいおうとした。が、口をつぐんだ。吾作の顔をみて、「兄貴、どうしやしょ」

「ふうむ」吾作は呻き、目を伏せ、左手で顎をさすった。「こいつは、できるのか?」左手を顎から離し、こめかみのあたりで前後に振る。「その、腕っぷしだ」

「そりゃあ、もう」大入道がうなずいた。「強えのなんの」

「そうか」

「ちょいと、あんた」女が吾作にいった。良人の肩に手をおく。「こんなどこの馬の骨ともわからないのに、一〇万みすみすくれてやるってのかい?」

「一〇万?」小男の目が、正面の二人に向いた。

「この、アマ!」吾作が銃身で女の鼻頭を殴った。女は手で顔をおさえ、泣きだした。「ボケ! 洩らしやがって! 黙ってろとあれほど」繰りかえし頭を叩き続ける。

「兄貴!」大入道が腰を浮かし、太い腕で吾作をおさえた。「姐さん死んじまう」

 吾作は息荒く、女を睨み続けた。

「一〇万か」小男がつぶやいた。夢みるような目で天井を見つめている。「大したカネだ──おい」そのまま、もみあう三人に呼びかける。吾作と大入道が振りむいた。「その話、くわしく聞かせろ」

 吾作は喉を荒く鳴らし、肩を上下させていた。低い声でこたえた。「まあ、いいだろう」顎を引いて唾を飲みこみ、続ける。「先月くれえだ。〈蒲生屋〉の大旦那が、手下のやくざ衆を集めて、伊村寛治いむらかんじって野郎を連れてこい、とお達しになられた。生き死には問わねえ、とにかくそいつだと判るものを持ってこい、持ってきた奴には一〇万圓をくれてやる──そういう話だ」

「その伊村って野郎は、何をしでかしたんだ?」小男が訊ねた。「一〇万圓ぶんも」

「知るか」吾作は鼻を鳴らした。「とにかく、大旦那はお怒りだった。それもかなりだ。そいつはそれだけのことをした、そういうことだ」

「なるほど」小男は鼻から息をついた。「一〇万か」口角を吊りあげ、小石のような歯をのぞかせる。「銀貨一枚にもならねえあのゴミ《山賊》どもとはわけが違うな」

「ホントなら、おめえみてえな渡世人部外者にたのむことじゃねえんだが」大入道がいった。「なにせどこにいるかもわからねえ野郎だ。人手が足りねえ。おめえも手伝ってくれねえか? 用が済んでからでいい。一万は約束する」

「いや、ぜんぶもらう」

「何?」吾作がいった。片眉をあげて、「そりゃおめえ、法外だ」

「それに」小男は続けた。「もう用は済む」

「そりゃどういう──」

 小男の合羽が揺らいだ。隙間から手と、八角形の筒がのぞき、火と乾いた雷音を吐きだした。

人影のひとつがはっきりする。吾作だった。

吾作の喉に穴があいた。くぐもった声と血が噴きでる。女が叫んだ。

「おめ──」大入道も叫ぼうとする。

 小男は身体を右にひねり、右拳を大入道の顔面に叩きこんだ。大きな顔がへこみ、鼻と口から血が出る。

 小男の腰があがる。右手を大入道の顔に向ける。握っていたのは、拳銃──コルトM1851ネイヴィー──だった。撃鉄は起こしてある。指が引鉄を圧する。ふたたび乾いた音が響き、大入道の左目がえぐれ爆ぜた。大窯の宇山は死んだ。

 女は遮二無二わめいていた。顔じゅうに血肉がこべりついている。小男は銃口を女に向けた。親指がゆっくりと撃鉄を起こす。輪胴が回転する。目は無感動だが、唇はめくりあがり、犬歯がのぞいていた。ためらいもなく引鉄を圧する。女も死んだ。車内は血の池になった。

 馬車が止まった。外から御者が声をかける。「なにがあった」

「なんでもない」小男がこたえた。「料金ぶん走らせてくれればいい」ゆっくりと腰を下ろす。息をつき、「ゴミがゴミになっただけだ。なんでもない」

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