第5章 1

 黒川誠司は、大学に入学するまでは、特に異性に興味を持つことがなかった。というよりは意図的に興味を持とうとして来なかった。それはまず幼少期の経験がそうさせてきたということがあるかもしれない。

 彼の家族構成は、両親と姉三人からなる六人家族である。父は大企業の中間管理職で、出張も多く、帰りも遅いので、家で誠司が父を見ることはあまりなかった。そのため専業主婦の母と姉たちとで家にいることが多かった。そのため幼少期の多くの時間は、異性ばかりの中にいたと言えるかもしれない。それで、幼稚園に入るまでは、遊びといえば女の子がするような遊びを一緒にしていることが多かったと言えるかもしれない。またこのような状況に拍車をかけたのは隣近所の両隣の家族が女系家族であることであった。両隣の家の子供が3姉妹の家族と二人姉妹の家族であった。近所から遊びに来る子は女の子ばかりで、隣近所との交流による変化は、ただ女の子が増えるだけの環境の変化であった。

 娯楽やショッピングで街中に行く以外で、同性に会える機会が持てるようになったのは、幼稚園に入園してからのことであった。誠司が入った幼稚園は、男の子の園児が比較的少なかった。誠司のように数人の姉妹の中で一人だけの男の子であったり、一人っ子の男の子というのが多かった。そういうわけで、一般的な男の子が持つ、荒々しさとか、粗野な性格を持つような男の子はあまり見かけなかった。

 小学校に入学して初めて、女子と同じ数の男子がいる集団の中で生活する機会を持つことができるようになった。男子ばかりの集団というのは、誠司にとって新鮮な経験であった。男子だけの遊び、男子だけの会話、男子だけの世界。学校へ行くことが、毎日楽しくなり、楽しみにもなった。

 家にいる時は、母親と姉たちの異性の中にいる誠司が、一旦外に出て学校へ向かうとスイッチが入るようになった。そのスイッチが入ると、異性である女子に対して無感覚になってしまうのである。女子の集団の存在が、誠司がいる男子の集団とは異質なものに思えてしまうのである。時に、女の子の集団に出くわす時、あたかも空気のような存在に感じてなのか、その前を何の感動も感覚もなく素通りして行くのである。それは家で姉たちといるような感覚である。

 誠司は中高一貫の男子校に入学した。完璧な男子だけの学園生活は、誠司にとって、期待以上に、楽しい6年間であった。しかし、そのような誠司にとって寂しさを感じる時があった。

 友人たちの間で、急に声の調子を変えたり、小声になったりして話題を変える時がある。その話題は必ずと言っていいほど異性に関するものであった。彼らが異性に対して感じるときめきが理解できなかった。それで誠司は何人かの友人にそのことを聞いてみた。その時恋愛という言葉の意味を誠司は、本当には理解していなかったことに気がついた。彼は恋愛についての書物を書店で購入したり、図書館で借りてきたりして、その意味について知りたいと思った。

 書物から恋愛について書いてある内容を読む中で、人は成長の過程で異性に対して恋愛感情を抱くようになっていくが、中には同性に対して恋愛感情を抱く人、恋愛感情を経験することなしに生涯を終える人がいると書いてあるのを読んだ。誠司は、今まで女性に対して恋愛感情を抱いたこともないし、同性に対して恋愛感情を抱いたこともないので、恋愛感情を経験しないで生涯を終える部類に入るのだろうと、そのことの詳しい理由について考えずに、なぜか納得した。

 誠司は自分についてのその見解が間違いであるのに気がついたのは、大学に入学してからのことであった。通学途中の列車の中である女性を見かけたときのことであった。彼は今まで経験したことのない感情の高まりを経験した。体全体が熱くなるのを感じた。心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。彼はそのことが何なのかわからなかった。なぜそうなるのかわからなかった。やがて、列車の中でその女性を見るたびにその感情が湧き上がることに気がついた。その女性を見かけた日は自宅に帰っても、心臓の鼓動がいつまでも響いていた。彼女の顔が、目を瞑ると浮かんでくる。食事が喉を通らなくなる時もあった。

 彼女を列車の中で見かけなかった日は、見かけた日よりも辛くなることを知った。その日は体全体が冷たくなり、心臓が全く鼓動していないのではないかと思ってしまう。勉強どころかあらゆることに意欲が持てなくなってしまう。食欲はあるが何を食べても美味しいと感じない。

 彼女を見かけなかった翌日に、彼女を見かけた時の嬉しさは、言いようのない嬉しさであった。その日は彼女はロングシート前の吊革を掴んで、友人と雑談を楽しんでいた。彼は反対側のロングシート前の吊革を掴んで、彼女に背中と背中を向かい合わせる形で立っていた。彼女たちの会話の内容がはっきりと聞こえた。列車に乗っている間彼女たちの会話をずっと聞いていた。彼は目を瞑って、彼女の顔を思い浮かべながら会話を聞いていた。彼女の話し声を聞いているのは、美しい音楽を聴いているように心地よかった。

 彼女が友人と会話する中で、彼は知りたいと思っている情報を得ることができた。それは彼女が、乗り降りする駅名である。彼は彼女の自宅の最寄りの駅と通っている大学の最寄りの駅名を会話の中から突き止めた。彼は毎日駅で待ち伏せして彼女の乗る車両に乗ることを考えた。彼女に気付かれないように、駅では離れたところで彼女を待ち伏せすることにした。改札口を通る時も気づかれないように一定の距離を保って通ることにした。乗る列車の車両も気づかれないように、最初は数両離れた車両から乗り込み、列車が停車するごとに彼女が乗っている車両に近い車両へと移っていった。最後に彼女が乗っている車両と同じ車両に乗り込み、ずっと彼女を見つめることにした。

 彼女を毎日見ないと、生きていけないと感じるほどに日々その思いの辛さが増していくのを感じた。だからこのような仕方でも、毎日彼女を見ることができなければ、彼は毎日を送ることができないほどになってしまっていた。彼は彼女が友人と乗っていて会話をしていて、その時聞いた情報の中で、彼女が彼より2、3歳くらい年上であること知った。彼はそのことを知ってから、自分をできるだけ年配に見せたいと言う欲求に囚われた。それで自分の年齢をできるだけ上に見せたいと思い。そのような服装にしたいと思った。中年が被るようなハットを被り、中年が履きそうなズボンを履き、中年が着そうなシャツを着、中年が着そうな上着を着た。上着の襟はできるだけ高く上げて、若すぎる顔が見えないようにした。

 彼女が、友人と話しているのを、聞こうと彼女と背中と背中を向けて近くに立っていた時とは違って、彼女をじっと見るときは、ある一定の距離を保つようにした。彼女をじっと見ていることが彼女に気付かれてしまわないように注意しなければならないと思ったからである。

 列車の中で彼女を見つめている間というのは、彼にとって至福の時であった。頭に血が上ったような状態になり、他に何も考えられない。彼女の通っている大学の最寄りの駅に列車がいつまでも到着しなければといつも思いながら彼女をじっと見つめ続けている。彼が降りる駅は彼女が降りる駅の何駅も先の駅である。彼女の後について行って改札口から出て行くまで見ていたいという願望にかられる。曜日によってはそれくらいのことで時間を潰しても、いくらでも講義の時間に間に合う。でもそれを一度でもやってしまうと、毎回そうしてしまうことは目に見えて明らかである。それに毎回彼女の後を改札口が見えるところまでついていくことをしたら、間違いなく彼女に気付かれてしまうだろう。だからそのようなことは一度たりともしようとは思わなかった。彼は大学の友人に自分のことではなく、知人のこととしてこのことを話してみた。

「馬鹿だね、君のその知人は。機会を狙って話しかければいいだけのことじゃないか」

その大学の友人は、笑顔で話した。

「僕もそう言ったんだけど。でもそいつは僕に聞くんだよ。話しかけるって言ったって、何でもないのに、電車の中で突然知らない人に声をかけるわけにはいかないだろうって」

誠司は作り笑いを浮かべて言った。

「その娘にぞっこんならば、姑息な手を使ってもいいんじゃないの。例えば女物のハンカチを用意して、彼女の近くにさり気なく落としておく。そして偶然自分が見つけたかのように拾って、彼女に彼女のものではないか尋ねる。彼女はもちろん自分のものではないと答えるだろう。そうしたら駅で係りの人に落とし物だと言って渡しておきますと答える。次回彼女に会った時、彼女に挨拶して、それからハンカチを駅で係りの人に渡したことを話せばいいじゃないか。その後は、列車で会うたびに、彼女と挨拶して、何かたわいのないことをその度に話せばいいじゃないか。そのうち少なくともその女性と友達ぐらいにはなれるんじゃないか」

「なるほど。そいつにそう言っておくよ」


 誠司は、早速いかにも見るからに女性ように見えるハンカチを買った。いつものように彼女を駅で待ち伏せして、同じ列車に彼女が乗った車両から何車両か離れた車両に乗り込んだ。列車が停止するたびに、彼女が乗っている車両に近い車両に移っていった。やがて彼女が乗っている車両に乗り込んだ。

 ロングシート席の前にある吊革を掴んで彼女は乗車していた。乗降口の通路を隔てたところにあるロングシート席の前に来て誠司は吊革を掴んだ。

 発車予告の音声がホームで響いた後、乗降口のドアが閉まった。列車はゆっくりと走り出した。

 誠司は乗降口の通路を隔てたところのロングシート間の通路の方を見つめた。誠司には彼女しか目に入らなかった。

 彼女は一方の肩に掛けていた鞄を他方の肩に掛けた。吊革を掴んでいた手も持ち替えた。その瞬間彼女は彼の方を見たような気がした。誠司は気のせいだと思い彼女を見続けていた。 

 彼女は向きを変えて、後ろのロングシート席の前に移動して、そこにある吊革を掴んだ。

 誠司が、彼女が見えるように、向きを変えた。誠司は彼女のことを見続けていた。

 彼女は一方の肩にかけていた鞄を他方の肩に掛けた。その時吊革を掴んでいた手を持ち替えた。その瞬間彼女は彼の方を見たような気がした。

 列車が停車した。いつも彼女が降りる駅ではなかったが、彼女はドアが開くと同時に走り出すようにして、乗降口を通り抜けて、ホームの人混みの中に溶け込むように紛れ込んで行った。

 その翌日彼女は同じような行動をして、彼女がいつも降りる駅ではない駅のホームで降りた。そのようなことが何日か続いた。

 ある日、誠司はいつものように駅で彼女を待ち伏せして待っていた。その日、彼女はいつまでたっても姿を現わすことがなかった。その翌日も彼は駅で彼女が姿を現わすのをずっと待っていたが姿を現わすことはなかった。その翌日も・・・その翌日も・・・

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