第4章 4

 応接室の扉を開けると、響子はすでにテーブル席に座っていた。テーブルを挟んで響子と相対して陽介が座り、譲治は陽介の右側に、章星は陽介の左側に座った。響子と相対して座る中で複雑な思いが胸中を巡った。複雑な思いだが、前回事情聴取をした時とは状況は違っていたが、本質的には共通している面があった。前回事情聴取をした時は、信頼していた人から銃を向けられた被害者としての、極度な傷心の中にいる響子と言葉を交わした。瑠津絵と瓜二つの響子と、初めて言葉を交わすことができる、という幸せに浸りたい、という抑えきれない願望の意識と、眼の前にいる殺人未遂の被害者としての響子の前で、その願望に対して感じる罪意識、という二つの矛盾した意識からくる複雑な思いがあった。

 今回は、前回の事情聴取で響子が言い忘れたことを聞き取るための事情聴取で、実質的には前回の補足的なものであった。

 事情聴取が終わった後、響子から請われたことは、思いもよらぬことであった。響子が列車の中でストーカーに遭っているということであった。そしてそれが、列車だけのことで、じっと見つめられていることであった。それを聞いた時陽介は一瞬微妙な恥じらいのような思いがあった。瑠津絵と瓜二つの響子をじっと見つめて、ストーカーに間違えられていたことを思うときの思いである。今回の響子の被害者意識はストーカーに対するものであること、陽介が響子と相対して話すのが初めてではないこと。このような感じでの二回目の事情聴取における複雑な思いであるが、相手の不幸な状況によって幸せな状況が与えられているということがある。そういう面で最初の事情聴取と共通しているのかもしれない。

 

 響子との事情聴取が終わった後、陽介と譲治と章星の三人で話し合った。旬一との件は、言い忘れたことを記録するだけのことだったので、何の問題もなかった。問題だったのは、事情聴取が終わってから、響子から非公式に出されたストーカーの被害届けである。

 譲治と章星は、響子のストーカー被害の訴えに、無関心であるどころか、かなり同情している様子であった。譲治と章星が、かなり同情するのには理由があった。二人とも身近にストーカーの被害者がいるからである。

 譲治は新婚時代に妻の香織が、ストーカーの被害に遭っている。彼らが結婚してから入居したアパートに、同じ階の隣に、一組の男女の入居者がいた。女性は看護師で朝から夜遅くまで働いていることが多かった。男性は会社を辞めて、司法書士試験の勉強をしているということだった。アパートに引っ越した次の日に、香織は隣の住居者のところへ挨拶に行った。司法書士試験の勉強をしているという男性が出てきた。彼はアパートに関することで、管理人が教えていない情報について、教えるので中に入ってお茶を飲んでいくように彼女を誘った。もちろんその誘いは断ったが、香織は第一印象で要注意すべき人物であると思ったようだ。香織の第一印象は的中したようで、その男は、ほとんど毎日どうでもいい用事で彼女のところへ来るようになった。香織は彼が来ても、インターホーンだけで応じるようにし、絶対ドアを開けて彼と面と向かって会うことのないようにした。

 突然、彼は、香織のところに来ることがなくなった。どうやらもう諦めたのだろうと香織は思った。ある日スーパーマーケットに買い物に行った時のことである。その男が買い物をしていた。その男は、香織が彼がいるのに気づいた時、あたかも初めて香織がいることに気づいたような顔をしていた。そして香織に挨拶の言葉だけでなく必要のないどうでもいいことを話題にして話しかけた。しかしその日香織が彼とスーパーマーケットで会ったのが、偶然でないと気づくまで、さほど時間はかからなかった。というのは、香織がスーパーマーケットに行くと、いつも必ず彼がいるのであった。そして挨拶だけで終わらず、どうでもいい話題で話しかけるのである。

 これは何か手を打たなければ、永遠と続くように思えた。このことがいつまでも続くとしたら、それはやがてストレス以上のものになり、耐えられない苦痛になっていくのは間違いないだろうと思えてきた。香織は、譲治にそのことで相談することにした。

 香織にとって、耐え難い苦痛なことであるが、第三者から見れば、ただいつでも必ずスーパーマーケットで一緒になるというだけである。事実関係だけを見るととてもストーカーとして訴えることが出来るようなものではない。譲治としては余計な軋轢を起こして、こじれた関係にはしたくはない。まして彼は警官である。彼は隣の住居人である。今住んでいるところで平和に暮らしていくには、わざわざ不必要な接触を増やして、問題を拗らせたくない。二人で散々長時間話した末、転居することにした。

 章星の場合は、妹の瑞恵がストーカーの被害に遭っている。瑞恵は大学生であるが、バイトをしている。バイトをし始めた時、職場に、ある年上の男性がいた。瑞恵は、働きはじめた時、何も分からなかったので、彼に聞いた。彼は嫌がらずに普通に教えてくれた。ある日彼は瑞恵を食事に誘った。働き始めた頃教えてもらったということもあって、一度ぐらいはいいだろうと思って、彼と食事に行った。彼は食事の時、瑞恵に交際を迫った。瑞恵にとって彼は異性として意識したことさえないくらいの男性であったので、条件反射的に断った。数日後、彼はまた瑞恵を食事に誘った。今度は即答で断った。その後彼は機会あるごとに瑞恵を食事に誘った。その度に瑞恵は断った。職場の上司に相談しようと思ったが、バイト先は他にもあるので、バイトを辞めることにした。バイトを辞めてから、数日後である。彼から頻繁に瑞恵の携帯に電話がかかるようになった。電話の用件は食事の誘いであった。その度断るのに疲れたので、彼の電話番号を、迷惑番号に登録した。それから数日後、彼女の携帯に彼からのメールが頻繁に入るようになった。彼からのメールが証拠となりストーカー被害として警察に被害届を出すことができ、彼のストーカー行為をやめさせることができた。しかし、このことで瑞恵が被った精神的な苦痛は、計り知れないものであった。瑞恵の精神的な苦痛が癒えるのに要した時間は決して短くはなかった。

 このように、譲治と章星には身近にストーカーの被害者がいたので、響子の状況が即座に理解でき、深く同情してくれた。

 陽介と譲治と章星が話していく中で、共通意見として、すぐに明らかに見えたことは、第三者的に客観的な現象として認識出来ることは、ストーカーの加害者が、実際にしていることは、列車の中で響子をじっと見続けているということだけであった。そのことだけでストーカーの犯行として訴えることは、到底不可能なことのように思えた。だが第三者的にストーカー行為に見えるような行為でなかったとしても、響子にとっては、とても耐えられるような苦痛とは言えないものであった。列車の中で彼は響子をずっと見続けている。たとえ車両の中で移動しても、彼の鋭い視線は彼女を追い続けている。列車の乗車時間を変えても、駅の入り口でずっと待ち伏せしている。この容易には第三者から認識し難い行為を彼女だけで証明しようとしたら、不可能に近いであろう。だが、この第三者からは認識し難い行為のゆえに、響子は、毎日耐え難い精神的な苦痛を被っている。今回、旬一に関する事情聴取と言う接点があったので、響子はこのことを陽介に話す機会を持つことができたのであるが、もしそうでなかったなら、彼女にとってこのことは、前途に立ちはだかる撃退しようのない怪物となっただろう。

 ストーカー行為として、彼を訴えることが、非常に困難であることを共通理解したところで、陽介と譲治と章星が話し合っていく中で、思いついたことは、そのストーカーの加害者に対して、響子が被っているのと同じ精神的苦痛を与えてあげたらどうかということであった。ストーカーの加害者を、陽介と譲治と章星で、交代で尾行監視していくのである。三人で一人を尾行監視していくので、24時間尾行監視していくことが可能である。三人とも職業柄尾行監視は手慣れたものである。しかし、今回の尾行監視は実質尾行監視ではない。尾行監視をする標的にわざと気づかれるように、尾行監視するのである。

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