第2章 1
真っ赤に染まった町並み。真っ赤な光が煌めく窓ガラス。滑るような赤い光を反射させている無数の屋根。路上で滑るように光る輝き。車のヘッドライトの光を赤く染める輝き。家並みを丸ごと飲み込んでしまうほどに大きく輝いている真っ赤な太陽は、下半分を町並みの彼方に見える地平線の中に沈めている。
窓から見える夕焼けに染まった町並みの風景は、何処かのホテルの部屋の窓からのものだったら、岩城陽介にとって申し分のない風景になるに違いなかった。この部屋から見える夕日は美しいから、今日一緒に見ようと言っていた岩城瑠津絵は、静かな寝息を、廊下で微かに響く足音の中に溶け込ませるように眠っていた。
今ここが病室ではなく、ホテルの部屋だったらと、どんなに望んだとしても、世界は、彼の前に冷たい現実を突きつけるのである。
前回この病院から夕日を見たのは、踊り場の窓からであった。その日瑠津絵が検査をすべて終えた後、踊り場のソファーに座って待っていた陽介の背後の窓を指さした。町並みが真っ赤な夕日に染まっていた。窓から差し込んでくる赤い光が、瑠津絵の笑みを浮かべた顔を照らしていた。
瑠津絵の顔を照らしていた赤い光が、良きことへの前兆であると信じたかった陽介であった。陽介の心の片隅には、日増しにその重さを増していく不安があった。その重さは検査結果報告当日にピークに達していた。
診察室で結果報告を聞いた後、瑠津絵は無表情のまま暫く固まったように体を動かさないで、医師が画面に映した画像を見つめていた。陽介は目頭に溜まった涙が溢れ出るのを必死に堪えていた。
陽介は瑠津絵の家に挨拶に行った時のことを思い出した。瑠津絵の両親は、瑠津絵が陽介と結婚することに反対していなかった。ただ、陽介の仕事が警官であることに一抹の不安を抱いているだけであった。中堅企業の会社員と専業主婦という平凡な家庭の中で瑠津絵は育った。瑠津絵の両親にとって警官職のイメージは、公務員ということもあって、経済面での心配はなかった。しかし、経済面や身分の安定以外の心配があった。複雑に変化しつつある日本社会の中で、犯罪も複雑に変化してきた。そのような社会の中で、警官の仕事が以前よりも身体を危険に晒す場面が増えてきたように思えてならなかった。瑠津絵の両親は口に出すのは憚ったが、できれば身の危険に晒される可能性の少ない部署に、移ってくれることを願っていた。警官の妻イコール寡婦というイメージが微かにチラついてしまうのを抑えることができなかった。
そのような不安とは裏腹に、瑠津絵の余命宣告を知らされた時、瑠津絵の頭に最初に浮かんだのは、自分たちに何か落ち度はなかったかということであった。彼らは瑠津絵がお腹にいるときから今に至るまでのことを事細かに振り返ったが、何も思い当たることはなかった。それでも彼らは陽介に謝りたい気持ちを抑えることが出来ずに、具体的なことはなにもいえないのに言葉に出して自分たちの気持ちを伝えた。陽介は医師からの説明を事細かに再現して彼らに伝え、彼らには何の落ち度もないことを納得させた。
真っ赤な太陽は完全に沈んでしまい。窓から差し込んでいた赤い光は、跡形もなくなってしまった。町並みを包んでいた赤い光は、全く姿を消してしまい、代わりに黒い闇が町並みを覆っていた。家々の窓から灯りが次々と煌めいていた。町並みはまたたく間に街の灯の渦に包まれていた。
瑠津絵の微かな寝息の音が止んだかと思うと、彼女の瞼がゆっくりと開かれた。開いた瞼から覗いた瞳に、ベッド脇の椅子に腰掛けて窓外を見つめている陽介の姿が映ると、彼女の唇が動いた。
「あら、来ていたのに、全然気が付かなかったわ」
「ぐっすり気持ちよく寝ていたから、起こす気になれなかったよ」
「ごめんなさい」
「何言ってるんだよ、謝ることじゃないよ。それよりも、瑠津絵が言っていたように、ここから見える夕日は本当に美しいね」
「そう、あんなに美しい夕日を見たのは初めてだわ。陽介にも是非見せたいと思ったの。見られて良かったわ。でも今日よく見られたわね」
「内勤に移ったから、時間休が取りやすくなってね」
「私のために仕事まで影響しちゃったわね。折角刑事の仕事がしたくて警察官になったのにね」
「いいかい、そんなことは全然考える必要はないんだよ。仕事をする時間は僕にとってこれからいくらでもあるんだ。でも瑠津絵といられる時間は限られているんだ」
「夕日も綺麗だけれど、街の灯もとても綺麗だわ」
陽介は顔を上げて窓外を見た。夜の暗い闇の中で街の灯がダイアモンドのように輝いていた。陽介が夜景にうっとりとしていると、街の灯の煌めきの中に瑠津絵の微かな寝息が溶け込んでいった。瑠津絵が息を引き取ったのはそれから三ヶ月後のことであった。
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