第1章 3
響子は自分のデスクでパソコンの画面に映ったHTML言語の画面とHTMLの書籍を交互に見ていた。彼女のパソコンの画面に映し出されているのは玩具部門のホームページのソースであった。ホームページの外注を依頼していたIT企業との契約が今月で終了するため、響子は商品のデータに関する内容の変更に関わっていかなければならない。
商品部情報課のなかで課長以外では、響子が最もコンピューターに長けていると、オリエンテーションのなかで認められるようになったので、HTMLの書き換えに彼女は関わっていかなくてはならなくなった。
今回の業務の抜本的な変更のために、宣伝部情報課より一人の男性社員が異動することとなった。池田旬一は25歳で、響子よりも3つ年上である。大学ではコンピューターを専攻してきたコンピューターの専門家である。宣伝部情報課はコンピューターに長けたものが集まった専門家集団のようなところであるが、旬一はそのなかでも飛び抜けていることは、まわりで誰もが認めていることであった。
響子は旬一が異動してきたその日にHTMLについての疑問点を彼に尋ねた。書籍から覚えただけの付け焼き刃の彼女の知識と違って、旬一の知識は実践に裏付けされた厚みのあるものであることが響子には感じ取ることができた。彼女はその日のうちに書籍だけではどうしても理解することの出来なかったことの殆どについて理解したり、手がかりを掴むことが出来た。
響子は、オリエンテーションの日以来初めて上川友梨と末永妙とでレストランへ夕食を食べに行った。友梨と妙はどちらも響子と同期であった。友梨は商品部企画課に妙は商品部顧客課に配属されていた。3人が行ったレストランは友梨が何度か行ったことがある彼女のお気に入りのレストランであった。
レストラン「フルッティ・ディ・マーレ」に3人が全員席に着くことが出来たのは夜8時30分頃であった。
「ねえ、素敵な店でしょう。駅の反対側に今まで行ったことがなかったんだけれど、急遽銀行に行かなければならなくなって。指定の銀行が駅の反対側に行かないとなかったものだから、入社してから初めて駅の反対側に行ったんだけれど、途中で素敵なレストランの外観を目にして。機会があったら入ってみたいなと思ったの。それで偶然入る機会があって入ったのだけれど。内装が素敵だったし。メニューがとても気に入ったものだったの。でもやはり問題は味なんだけれど。それが本当に飛び抜けた美味しさなの」
妙は友梨が話している間、目を丸くしてメニューを見ていた。
「わあ、全部カタカナで書いてあるけど、イタリア語かな」
「でも詳しい説明が書いてあるでしょう。それに写真が載っているでしょう」
「この説明を読んでいると、本当に食べたいって気がするわ」
「友梨のお薦め何?」
響子が妙が見ているメニューを隣から覗き込むように見ながら言った。
「そうね、ペシェ・アッラックア・パッツァがお薦めかしら」
「それではまずこれを頼んでみんなで食べてみない?」
響子がメニューの写真を見ながら言った。
「もうお腹ぺこぺこだからとにかくこれだけでも注文して食べようよ」
妙もメニューの写真を見ながら言った。
彼女たちはワインも注文した。ワインで乾杯したあと最初に注文した料理の味に、皆が一斉に最高の表情をしてお互いに顔を見合わせて頷きあった。
「情報課大変そうね。傍目から見ても分かるわ」
友梨が次の料理を注文したあと言った。
「玩具部門のホームページを自社ですべて抱えるようになったからね」
ワイングラスをテーブルに置いたあと響子が言った。
「半年の辛抱かしら。そこを乗り切れば後いくらか楽になっていくと思うわ」
テーブルに置かれたワイングラスを指で摩りながら響子が言った。
「宣伝部の情報課からコンピューターに関しては社内で五本指に入る程の専門家が移ったと聞いているけど」
友梨が口に含んでいたワインを飲み込んでから言った。
「そう、玩具部門のホームページの外注管理を自社管理に変更したので、急遽異動がきまったみたいなの。専門家ってすごいと思うわ。彼のお陰で悪戦苦闘していたHTMLをどうにか扱っていける気分になって来たような気がするの」
「でも響子ってすごいようね。HTMLの書き換えに実際に関わっているんだもね。私には呪文のようでちんぷんかんぷんだわ」
「そう私も響子はすごいと思うわ」
友梨が話し終わらないうちに妙も言った。
池田旬一が話題にあがると、三人の会話の話題は社内の男性社員の話題へと移り、やがて同期の男性社員へと移り、会話は盛り上がっていった。響子は会話を楽しんでいるうちに仕事のことも忘れてしまうくらいに愉快な気分になっていた。しかしそのような楽しい気分が時々一瞬途切れてしまうときがあった。彼女はそれが最初何であるか分からなかった。ワインのほろ酔い気分が冷めたときの所為であると思っていたが、どうやら全く違っていた。それは列車の中で経験したものであった。入社してから一月も経たない頃、朝の通勤列車の中で経験したあの異様な気配であった。
響子は異様な気配が気になりだして、心から会話を楽しむことができなくなってしまった。友梨と妙に気づかれないように会話の流れから外れないようにして、作り笑いを自然なものにしようと苦心した。異様な気配にたいする抗うことのできない思いに引き寄せられるように、一瞬後ろを振り向いた。彼女たちのテーブルの隣は数人の女性客が座っていたが、その隣のテーブルには数人の男性客が座っていた。彼女の脳裏にはその男性客の映像が残っていた。
響子はもはや会話に集中することができなくなってしまった。あの男性客たちの映像が時間の経過とともに頻繁に彼女の脳裏に映るようになってしまった。響子はレストランの内装を鑑賞するような振りをしてまわりをゆっくりと見回した。あの男性客の方を向いたとき、男性客のうちのひとりが首をもとの位置に戻したように見えた。響子にはその男性の横顔が残像として脳裏に焼き付いたような気がした。
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