第3話 元勇者、生誕

 アリスが言っていた人生の焼き直し……。

 

 ――無理だろう、いかんだろう。

 とりあえずこれから独り立ちするまでの数年間のことを考える。……本当に嫌だ。死にたい。

 

 だって中身は二十才の大人なんだよ?

 

 こうして嘆いている間も柔らかい布に包まれ、人肌の温もりに抱かれて、睡魔が頭を支配しようと迫ってくる。

 赤ん坊の性に逆らうべく、しっかりとまだ見えぬ目を見開いて喝を入れる。 

 ……眠い。


「――なんだこれ? 開かんぞ?」


「あなた、それは外びら――」


 突如耳をつんざく音。

 今まで胎内にいた俺の鼓膜には響きすぎる音に今度こそ眠気が吹き飛ぶ。


「何もできなくて申し訳ないレイズ! うおッ!? ちっさ! やっば! ……えっと……えと、えー……トーマ!」

 

 大破した部屋の扉と共に入ってきた男はトロッカス。騒々しさしかない馬鹿親父はこの頃から健在のご様子。ぼやけていて輪郭すら不鮮明だが。


「……あなた? その名前はただの思いつきかしら? 考えておいてって言ったわよね? あとドアは直しといてね?」


 先ほどまで聖母と見紛みまごうほどの声音をしていたレイズは一転して抑揚を失くす。トロッカスを黙らせる唯一の人物にして俺の母さんだ。


 まあ、その姿は俺からはほとんど見えず、雰囲気からしか分からないが……。


「もちろん! お、思いつきではない! 英雄伝トゥーマ・レイリアから借りたきちょーな名前だ!」


 母さんに怒られそうなときの親父の口の達者さも健在で何よりだ。この保身術がなければ早々に夫婦仲は分かたれていただろうとは、俺の見解である。


「あら、とてもいい名前じゃない。トーマ……。呼びやすいし、男の子にはうってつけの名前でちゅねー」


 くすぐったいからやめてくれ。マズい、笑いそうだと思っていたら時すでに遅し。

 口角はしっかりと上がっていた……泣きたい。

 だって中身は二十才。


「いい名だろう。そう思うだろう!?」


「あなたはさっさと扉を直してね?」


 なんだかんだ言って相性がいいんだなと、改めて思わなくもない。


 俺の名が奇しくも百年前の勇者にちなんでいると分かったのは、一眠りしてからのことだった。魔王を、己が命を賭して討ち滅ぼした『英雄』……生前を思い返せば、なんと皮肉の利いた名前だろうか。


 ***


 今、俺は大変な問題に直面している。

 俺は初めての、一才の……否、より正確に言うと二十一回目の誕生日を迎えていた。魔王に嬲り殺されるまであと十九年。

 ……勇者になるまであと何年だろうか?

 俺に課せられた使命は来る災厄、勇者ルートを回避すること。

 だがしかし……こちとらまだ発話も十分にできていない。


「――まっま! とろっ!」


 ……これが一年の成果だ。今年で実年齢二十一才の俺がやってのけたことだ。

 俺が「まっま」と言って股をけば、おしめを替えてほしいという合図。

 俺が「とろっ」と言って親父が赤ちゃん言葉でばぶばぶ近づいてきたら、この不自由な赤ん坊の体に対する怒りとストレスを発散するために親父の顔面を蹴りつける合図。


 二人とも親になってまだ一才だ。ゆえに心は大人、体は赤ん坊の俺がしっかりとリードせねばなるまい。


 今では腹が減ったときの泣き方も会得済みだ。コツとしてはできるだけ低く、泣き喚くのではなく静かにグズる感じで泣くと、汁気でぐちゃぐちゃの薄味離乳食が貰えるのだ。しかし、これだけ分かりやすく泣いても、親父の耳にはどれも同じに聞こえるらしい。耳垢でも詰まっているのではないだろうか。


 ……これが一年の成果だ。何度でも言おう、これが御年おんとし二十一才の成果である。


 立ち上がることもできるようになった。これは必死に寝返りや親父を蹴り続けることで鍛えた俺の脚力の勝利である。戦利品である。歩くに至らないのは蝶よ花よと可愛がられ、滅多にベッドから出してもらえないからだ。親ばかどもは俺が怪我をするのをよほど恐れていると見た。……勘弁してほしい。

 

 ちなみに直立を習得の最中に発見したことだが、俺はおそらく見た目も寸分違たがわず一緒なのだ。

 ガラスに映った己の姿を見るまで、本当に同じ世界なのか疑わしいものだったが、勇者時分同様、親父譲りのくすんだ茶髪と母親譲りの寝不足と見紛う目つきの悪さは、この幼子の頃からはっきりと分かるほどに色濃く遺伝している。


 勇者というステータスがなければ極悪人面と間違われるほどだ。またその人生に直面するのかと思うと、今からげんなりしてくる。

 

 気を取り直して――。

 

 先のことはともかく、母乳を早々に卒業できたのはとても大きな成長だ。

 抱きかかえられ、非情にも抵抗できぬ体にゆっくりと迫りくる黒ずんだ乳首、親父も夜中にチュウチュウしているだろうそれを咥えねば食いっぱぐれるという袋小路に精神ストレスが急上昇して、二度目の人生初の早すぎる胃痛に悩まされたのは記憶に新しい。

 そう考えると、色々な努力の積み重ねが俺をここまで急激に成長させたと言える。

 だが、しかし、それでも、なおだ。

 いずれも赤ん坊の次元を超えられていない。勇者にならないための情報収集は、対策は何一つできていない。それもこれも――。


「一才のお誕生日おめでとー! これはママとパパからのプレゼントでちゅよー」


「俺のお小遣いが半分入ってる貴重な本だ! 大事にしてやってくれ!」


 俺に向かって二人で絵本を差し出してくるこの親ばか二名のせいだ。

 絵本は千年前の初代勇者エデンが主人公の物語。この世界は、この一家はどうにも勇者に毒されているらしい。

 曰くこの世界、勇者多すぎ問題。


「まだ文字も読めないし、早すぎるのだろうけど、読み聞かせっていうものを一度やって見たかったのよ」


「俺はほとんど文字が読めん! 俺みたいにはなるなよ! 苦労する!」


 今夜ようやくささやかな夢が実現できると胸をおどらせる母さんと、情けない姿を前面に押し出してそれでも豪快に笑って俺の頭を乱雑に撫ぜる親父。

 二人とも自分のことのように楽しそうだ。主役は俺のはずだが、俺もまた二人の笑顔を見て喜びを感じる。


 ……子供も案外悪くないと思える、嫌で嫌で仕方がない時間だ。本当に。


「まっま! とーたん! ありゃーとぅ!」


「え、おい!? 聞いたか!? 今、トーマが偉大なる父上って――」


「ばっぶぶうぶ」


「言ってねぇよばーか。控えめに言って死ねですって」


 貧困な語彙力しか持たぬ俺の真意を代弁してくれた母さんにはあとでリップサービスをせねば……。

 大の大人が、今年で二十一才の大人が絵本をもらうなんてとは思うが、しかし同時に二十一才にもなる大人が礼を欠くわけにもいくまい。

 本邦初お披露目の『ありゃーとぅ』と、今後、金輪際、後生口にすることはないであろう『とーたん』。なけなしの語彙を盛大に使って子供らしく。


 勇者時分に親孝行も、ありがとうすらまともに言えなかった俺が、魔王軍から親を守れなかった俺が、今できる精一杯の恩返し。


 怒号と悲鳴と血しぶき、それら全てと無縁の温かみ溢れる空間が一生続けば――。


 ***


 ――と思った時期が俺にもありました。

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