第42話 アイの証明

 春江(はるえ)が出かける支度をしていると、いつの間にか怖い顔をした弘一が立っていた。

「またあの道にいくのか?」

「ええ、当たり前じゃないの。真(まこと)の月命日だもの」

「いいかげん家事をしたらどうだ。もう三回忌も済んだんだぞ」

 言われて、初めて気がついた。

 家の中には、ゴミ袋の山、洗っていない食器。

 いつのまに、こんなに溜まっていたのだろう。

 でも、いい。少しぐらい汚くても死んだりしない。真のように、車につぶされたりしない。

「あなたはどうせこれから遊びに行くんでしょ」

 弘一はますます面倒くさそうな顔になる。

「遊びって。仕事のつきあいだよ」

「あなたは、真がかわいくないのよ!」

 かわいそうな真。たった一人ぼっちで、痛い思いをして亡くなって。父親にも悼(いた)まれないで。浮かばれないに違いない。

 春江がそう言い放つと、弘一は怒ったようにどこかへ行った。


 友人二人と一緒に映画を観終わり、ショッピングモールを出たとき、外はすっかり暗くなっていた。

「うおー、暗え~」

「なんだか入った時は明るかったから、なんだか時間ワープしたみたいだよね」

 野村と水谷が口々に言う。

 観ている間、雨が降っていたのだろう。秋の空気は寒いくらいに冷えていた。濡れた路面は砕いたガラスをぶちまけたようにぎらついている。

 僕たちは、駅に向かって歩き始めた。車が歩道の横を通るたび、白い光が僕たちを照らし出した。

 繁華街だけあって、人通りが多い。

 遊びに来ているらしい女の子二人組や、派手な服の男が通りすぎていく。

「しかし、あのシーン怖かったよな。ほら、風呂場のドアにうっすらと幽霊の影がさあ」

 自分で言いながら、野村が大げさに体を震わせた。

「というか、音で脅かすのはやめてほしいよ。怖いのと驚くのは違うだろ」

 僕は怒ったように言った。

「まあ、確かに一理あるね」

 水谷が応える。

「あれ」

 不意に、交差点で野村が足を止めた。

「どうした」

 僕が声をかけると、野村は交差点の案内標識を見上げていた。白地に青い文字で『〇〇通り』と書かれているなんの変哲もないものだ。

「いや、この通りさ、確か……」

 野村はバッグの中からスマホを取り出し、何かを調べ始めた。

「やっぱりそうだ。ほら、これ」

 差し出された画面は、心霊スポットを紹介するサイトだった。

 黒いバックに、赤い文字で『〇〇通り』と書かれていた。ご丁寧に、まさしく今僕たちが立っている交差点の写真が添えられている。

「え?」

『ここでは、三年前、少年がここで交通事故に遭い、命を落としました。それ以来、サンダルを履いた足のみの霊がよく目撃されるといいます。』

 ホラー映画を観た直後でなくても、見たいとは思わないサイトだった。

 ましてや取り上げられている場所でだなんて!

 サワリ、と肩の後ろを何者かになでられた気がした。思わず体がこわばる。

 周りを行く人達の足音も、自動車のエンジン音も、すっと遠ざかっていく。見えない分厚いガラスで霊と囲まれ、世界と分断されたようだった。

 自分の息が、こめかみの辺りで響く。

 視界の端(はし)、見られるギリギリの場所に誰かが立っている。

 サンダル、ふくらはぎに傷跡のある足、膝上までの茶色いズボン。そのすべてが半透明で、車道との境の白い柵が透けて見えている。つま先から上に行くにつれてその姿は薄くなり、膝から先はほとんどみえない。どう見てもただの人間ではない。

 噂通り、少年の霊? でも、あれはどう見ても……

 動けなかった。霊の力で金縛りにあっているというよりは、ありえない物を見た衝撃が、僕の体を硬直させていた。

「お、おい」

 体を揺さぶられてよろめいた途端、取り囲むガラスが崩れた気がした。切り離されていた世界が一気に戻ってくる。

 だが、野村と水谷は、僕ではなく歩道の先を見つめていた。

 一人の女性が、こちらに歩いてくる。

 髪は一応束ね、アップにしているものの、所々ほつれている。目は泣き腫らしたように真っ赤で、クマもひどい。頬は青白くこけている。ふらふらとした足取りがおぼつかない。

 その様子は文字通り幽霊のようで、少し恐怖を感じるほどだった。

 女性は、僕たちの前にたどり着くと、車道の方を向いてしゃがみこんだ。そして静かに手を合わせる。

 僕たちは、互いに交わした視線だけで会話をした。

『あの少年の母親だ』

『ああ、そうだろうな』

 言葉にすれば、こんな感じだろう。

 しばらく手を合わせた女性は、立ち上がろうとして大きくよろめいた。

「あ、だ、大丈夫ですか」

 やさしい性格の水谷が声をかけた。

「あ、はい、だ、大丈夫です」

 女性はうっすらと浮かんだ涙を隠そうともしなかった。

「あの……どなたか亡くなったんですか?」

 デリカシーのない野村がド直球に聞いた。

「お、おい!」

 思わず奴の肩を肘でつつく。

 僕たちのやりとりに気付かず、女性はぼつぼつと語り始めた。

「ええ、私の息子が……塾から帰るときに、信号無視の車にひき殺されて」

 今まで面白半分にサイトを見ていた後ろめたさとか、女性に対する同情とか、少年に対する冥福の祈りとか、どう言葉にすればいいのか分からなかった。

 だから、僕は深く頭を下げた。少しでもそういった気持ちが伝わるように。

 けれど女性の心はすっかり過去に戻っていて、僕の姿は目に入っていないようだった。

「かわいそうに。あんなひどい死に方をして…… 痛かったでしょうね。父親にも忘れられて」

「え……」

「知っていますか? ここでは、真の幽霊が出るんですって」

 はは、と女性は疲れたような、自嘲(じちょう)気味な笑い声をあげた。

「当然よね。あの子は父親にも忘れられちゃったんだから」

「忘れられたって、そんなこと……」

「本当よ。真の葬式が終わったら、いつもみたいに仕事をして、月命日の時も飲みにいって」

 女性は前髪に指を突っ込んで、顔をゆがめた。

「私が責めたら、『いつまでもめそめそしても仕方がないだろう』なんて。あんな冷たいだとは思わなかった。もう……一緒に暮らすのも無理かも知れない」

 いきなりそんな踏み込んだ所まで、アカの他人に語るなんて。僕は少し驚いた。抱えきれない想いを誰かに聞いて欲しかったのだろう。

 彼女は食いしばった歯の間から、言葉を絞り出す。

「平気で遊びにいったりして。真が恨んで出てくるのも当然よ」

「は、はあ」

 野村がそっとスマートホンを背中に隠した。おもしろ半分で幽霊について書かれた画面を。

「でも」

 僕は思わず口を開いていた。

「さっき、僕が見た幽霊の足は、子供のものではありませんでしたよ」

 その場の全員の視線を感じ、僕はしまったと思った。余計な事を言ってしまったと。

 こんな事、野村と水谷は信じてくれないだろうし、下手したら女性を傷つけてしまうかもしれない。

 でも、今さら待ったはできない。覚悟を決めて説明を始める。

「その、さっき、足が見えたんです。半透明の。サンダルを履いて、短いズボンをはいていて、そして、そう、ふくらはぎに傷跡がありました」

 何か思い当たることがあるのか、女性は両手で口を覆った。

 野村が、疑わし気な視線をむけてくる。

「いや、本当だって。こんな状況で嘘なんてつかないよ。でも、子供の足じゃなかった。どう見ても、中年の男の足だった」

「それ、それ、きっと夫のだわ」

 震える声で彼女が言った。

「あの人もふくらはぎに傷があるし、真が事故にあったとき、その恰好をしていました」

「え? じゃあ、ひょっとして旦那さんは……」

 水谷の言葉に、彼女は首を振った。

「いえ、まだ生きているわ。ついさっきまで連絡があったもの」

「え? じゃあなんで旦那さんの幽霊が――」

「ひょっとしたら、生霊なのかもしれない」

 野村は、ぼそりと口を開いた。

「旦那さんは、真君のことを忘れたわけじゃなかったんだ。むしろ、生霊が事故現場に来るくらい思っていたんだよ」

 なんだか、色々と納得できた気がした。

「そうか。でも、いつまでも悲しんではいられないから、いつも通りに振る舞おうと」

 きっと、辛くなかったわけではない。でも、前を向こうと思ったのだろう。

「そう、そうだったの」

 女性はそこで言葉を切ると、胸の奥から深い息を吐いた。

 そして、ほんの少し微笑んで見せた。

 野村が小声で聞いてきた。

「あれ、じゃあ、真君は?」

 僕は、真君のお母さんに聞いた。

「真君、事故の当日サンダルを履いていましたか?」

 彼女は首をふった。

「だったら、もう成仏したんじゃない?」

 僕は、安心させるように野村に微笑んでみせた。本当は、真君のお母さんをために。

 例のサイトには、『サンダルを履いた足のみの霊』としか書いていない。それが旦那さんの生霊のことだとすると、他に霊はいないことになる。

 このサイトの管理人は、信憑性を高めるために幽霊の目撃情報と実際に起きた事故の犠牲者を結び付けたかったのだろう。でも、目撃情報があるのは大人の足。なのであえてそこをぼかしたのだ。

「そう、そうだったのですね」

 女性がうつむいた顔をあげた時、彼女の表情はほんの少し明るくなったようだった。

「もう一度……もう一度あの人と話しあってみた方がいいみたい」

「そうした方がいいと思います。僕が言うのも生意気ですけど」

 僕がそう言うと、女性は薄く微笑むと、一つ礼をして去って行った。

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