第23話 夏の校舎

 細川が、なつかしい小学校の正門前に立ったのは、たまたま営業の関係で近くに来たからだった。太陽が沈みかけ、紅色に染まった空の下、記憶の通りの校舎が立っている。ちょっとした呟きなど消してしまうほど大きなセミの声も記憶の通り。

 今時の子は塾で忙しいのか、そもそも外遊び自体もう流行らないのか、校庭には男の子が一人、ぼんやりとブランコに腰掛けているだけだった。

 視線に気づいたらしく、少年が顔をあげた。光の加減で、顔が塗り潰されたような影となり、表情は見えない物の、どうも笑ったらしい。

 靴底で砂利を鳴らし、少年は校舎にむかって駆け出した。そのとき、彼の手からポトリと何か落ちたように見えた。

「ちょっと!」

 聞こえないのか、少年は玄関の闇に消えていく。

 しかたなく門を乗り越え、少年が落とした物を拾いに行く。地面に伸ばした手を止める。円いコインのような物は、血痕だった。白く乾いた砂に吸い込まれ、茶色っぽいシミになっていた。

 少し迷ってから、校舎の中に入る事にした。少年のケガが心配だったのもあるが、何より久しぶりに中を見てみたかったのもある。もし誰かに見つかっても、血がたれていたから心配だった、と言えばそう強くは咎められないだろう。

 昇降口に入り、ガラス戸を閉めるとセミの声が一気に遠ざかる。古いワックスの甘い匂い。靴を脱ぎ、靴下のまま廊下へ進む。窓の形に切り刻まれた夕日が床に四角い模様を描いてた。その光が明るい分、隅は濃い闇に沈んで見えた。

 壁には、ずらりと生徒の描いた自画像が並んでいる。歪んだ輪郭の中に描かれた、左右非対象の目が、むかいの壁にむけられている。

 また血の跡を見付け、それをたどって階段を登って行った。前を走る少年の背がチラリと見える。その緑色の縞のシャツに、見覚えがある気がする。どこかで会ったかな? この学校に来ると言う事は、近所に住んでいるのだろうが。

 締め切られた校舎の中は暑く、少し歩いただけでも汗が吹き出してきた。そういえば、こんな暑い日はよく下敷きをうちわにした物だった。いたずらっ子が誰かの下敷きを取り上げて……

 子供用の低い手すりをつかんでいた手が、急に柔らかい物に触れ、ぎょっとする。茶色いペンキが禿げた鉄の棒に、赤いリボンが結び付けられていた。何かのおまじないなのか、落とし物を拾った人が落し主に気付いて欲しくてくくったのか。そういえば、俺がここに通っていたときも、このリボンはここにあった気がする。まさか、数十年も外されずこのままだったなんて。

 不思議なくらい少年には追い付かず、どんどん上へとむかっていく。このまま、屋上に着いてしまいそうだった。

(まずい)

 自分でもその理由がわからないままそう思う。しばらくしてから、何がまずかったのか思い出した。

 学校の七不思議の一つ、十三階段。

 三階から屋上につづく十二段の階段。夕暮時、嘘をついた子、宿題を忘れた子、悪い事を一つでもした子がそれを登ると、なぜか一段増えて十三段になっているという。そしてそれは絞首台へと続く段の数。登り切った者は、その罪が裁かれる。

 バカらしい。今何歳だ? そう思いながらも、つい数えてしまう。

 一、二、三。

 いくら日の長い夏とはいえ、夜が来ない事はありえない。眩しいほどだった日が沈み、少しずつ闇が濃くなっていく。また、血がポツンと落ちていた。

 四、五、六。

 どこか窓が開いていたのか、ぬるい風が吹き付けてきた。廊下に貼って飾ってあった物がはがれたのだろう。『夢』と書かれた習字の半紙が飛んできた。短冊に切った金色の折紙が右上に貼ってある。

 そこにある名前を読み、思わず小さく悲鳴をあげた。思わずちぎりとる。自分の物だった。手が震え、紙がカサカサと鳴る。そう。これは確かに自分が書いた物だ。小五の時、この字で入賞した事はよく覚えている。でも、なぜ今これがここに? その隣に張られている作品。そこに書かれている名前は、覚えがある気がする。たしか、クラスメイトにそんな名前の奴がいたような……

 七、八、九。

 現実に鳴っているのか、記憶で鳴っているのか、ぱたぱたと、教室を走りまわる音。そして下敷きを振り回す音。

『返してよ~』

 ふいに、過去の記憶がよみがえった。

 よく緑色の縞のシャツを着ていた彼。もう名前も覚えていない。弱くて泣き虫で、イジメがいのある奴だった。

 十。

『返してったら!』

 奪われた下敷きを取り戻そうと、両手を挙げているせいでがら空きになったミゾオチに蹴りを食らわす。倒れた彼の襟首を、仲間全員、交替で引きずりまわした。

 十一。

 台所で、母さんが言った言葉。

『まさか、クラスのお友達が自殺するなんて。原因はわからないんでしょ? かわいそうに、まだ子供なのに』

 十二。

『あいつがバカで助かったよ。遺書に名前でも書かれちゃ面倒なことになったもんな』 

 ぱたん。靴下を履いた足は、十三段目を踏むことなく、屋上前の踊り場についた。

「ハハッ、ハハハ!」

 笑って、手に持った半紙を丸めて放り投げる。

 よく考えれば、同姓同名の奴ぐらいいるだろう。それに、リボンだって昔からあるおまじないだったら、今の子が同じ事をしていてもおかしくない。

 少年の姿はない。きっと屋上へ出ていったのだろう。いくら何でも不用心すぎる。学校も、鍵ぐらいかけておくべきじゃないか。

 戸にむかい、一歩踏み出した右足が、やわらかい物を踏んだ。

 自分の足が、子供の腹を踏みつけていた。そう。まるで、十三段目の階段のように。

 緑の、縞のシャツがめくれ、不気味な青白い色の腹が見えていた。驚くほど細い首。明らかに血の通っていない、粘土のように青灰色の顔。唇が開き、口の中の闇がのぞく。

 飛びのこうとした足を、鉄の罠のように強く、細い両手がつかんだ。

 挙げたはずの悲鳴は、ひきつれた喉の中で断ち消えた。


 セミの大きな声のせいで、浦西は携帯にむかって大声を挙げなければならなかった。

「もしもし、細川の車みつけましたので、乗って帰ります! 自殺の原因? 知りませんよそんなの!」

 ハンカチで汗を拭く。なんでこんな暑い日に、同僚の尻拭いをしないといけないのか。自殺だなんて同情しないでもないけれど、もう少し涼しくなってからすればいいのに、と彼は冷たい事を考えた。

 さっと見回した空き地は、強い日差しで乾ききり、白く輝いている。校庭用の砂を厚く敷かれ、長年踏み固められてきた土はさすがに堅すぎるのか、雑草はちらほらとしか生えていない。

「変だっていうなら、大体ここ、何年も前から空き地だったんですって。学校が統合されて、ボロボロだった校舎も全部取り壊されたらしくて」

 空き地に、警察が書いた×印が残っていた。

「もとは校庭だったから、ここ、結構広いんですよ。一番近くの建物から助走つけて飛び降りても、あそこに落ちるなんてできるわけないって警察も言っていました。まるで空を飛んだか、でなきゃそう、無いはずの校舎から飛び降りたみたいだって……」 

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