第二十章  吸殻入れ

JR新宿駅南口の前を、ひとみは歩いていた。


うつ向いて、ゆっくりと。

青井が1メートル後をついている。


宴会場をあとにして、最初のうちは背すじを伸ばし早足で歩いていたが、一度振り返り青井の姿を見つけると、急に足取りが重くなってしまった。

線路の上をはしっている橋のたもとまで来ると、ひとみはもう一度振り返り、橋の手摺に寄りかかるように青井を見た。


JR東日本と高島屋のビルが、線路を挟んでそびえ立っている。

行き交う車のテールランプが幾重にも重なって、ぼんやり二人を写し出している。


青井はタバコを取り出すと火をつけ、思いきり吸い込むと白い煙をはいた。


「どうしたんや。

約束どおり、うとうたやないか・・・

何、おこっとんのや・・・?」


怒ってなど、いなかった。

ただ、こうして黙っていないと涙がこぼれそうだった。


すぐさま青井に抱きつき、好きだと叫び出しそうだった。

てっきり音痴だと思い、ハラハラさせておいて、あんなにうまいとは・・・。


でも、うれしい嘘であった。

ひとみは涙ではらした目を重そうに開いて、青井を見つめている。


「どうして・・・

嘘、ついてたの・・・?」


青井はタバコを持ったまま、橋の手摺にもたれて遠くを見つめるようにして言った。


「昔・・学生時代、本気でシャンソン歌手、

目指した時あったんや・・・。

専攻もフランス語やったしな。

京都のライブハウスでも、ようバイトで歌とってな。


銀パリにも時々出さしてもろたわ・・・。

そんでも、やっぱ、この世界、厳しいんでの。


家も貧乏やったし、今の会社に入ったんや。

入社、2年目の時やったかな・・・?」


※※※※※※※※※※※※※


「青井と僕が上司と一緒に、あるクライアントを接待したのさ」

田坂が優子と二人で歩きながら言った。


「あの頃、カラオケもまだ今みたいに曲が多くなくて、

ビデオもない店がほとんどだったんだ・・・。

演歌ばかりでね。


僕も歌いづらかったな・・・。

それで青井の番になってアイツ『マイ・ウェイ』を唄ったんだ。


そしたら、わりと大きめの店だったんだけど、

店中の人が感動して大うけだったんだ。


でも、うちの上司はハラハラしてたんだ・・・。

その曲っていうのがクライアントの十八番だったからね。


商談はタマタマうまくいかなくて、

別にアイツのせいでもないのに・・・。


責任感じたのと、やっぱり店で浮いちゃうのがイヤだったんだろうな。

あの頃は今みたいにうまい人も少なかったからね。


いつも自分ばかり、うけるようじゃ営業として失格だって、

自分で封印しちゃったんだよ・・・。


それからはアイツ、『六甲おろし』と『メダカの学校』

しか唄わなくなったんだ。 


しかも、わざと調子をはずしてね・・・」


「でも・・・」

と、優子が言った。


「何故、今回唄ったのかしら・・・?」

「おそらく、早川さんの為だろう。」


田坂が優子の肩を抱いて言った。


優子は、その優しさに包まれながらも、ひとみの切ない思いを察すると素直に浸れなかった。

田坂に相談しようにも、事が事だけに軽はずみには言えないでいる。


優子はもどかしそうに田坂の腕の中で悩んでいた。


※※※※※※※※※※※※※


「でも、どうして・・・?」

ひとみが、ためらいがちに青井に言った。


だが、途中でやめると又うつ向いて黙ってしまった。

青井はタバコを手摺でもみ消すと、ポケットから携帯の灰入れを取りだし、それに入れた。


中に入っている数本の吸殻をしばらく見つめていたが、小さくため息をつくと蓋を閉めポケットにしまった。

ひとみは、その仕草を見てつぶやいた。


「けっこう、まじめなんですね・・・」

青井は照れくさそうに、頭をかいて言った。


「まー、しょっちゅうや、ないけどな・・・。

こんなんに気ぃ使うより、やめた方がええんやろけど」


ひとみは微笑むと、青井の右腕を両手でかかえるようにして、頭をもたれさせた。


タバコの匂いがする。

ひとみはふっと唇の端を上げ、心の中でつぶやいた。


(そうやって、いつも、

知らないところで気を使ってるのね・・・。

だから、初めはよく見えないんだ。

不器用な・・・人)


青井はひとみの腕の温かさを、受けとめている。

何本かの電車が駅を出入りしていた。


線路を伝わる音が心地よく響いてくる。

ひとみは男の腕に頬をすり寄せながら、何かを待っていた。


自分で言ってしまえば壊れてしまいそうな危うい言葉を・・・。

二人は、ようやくそれとわかるところまで近づいてしまった。


ただ覗き込むと深い谷底に落ちてしまいそうで、中々踏み出せないでいる。

そこに落ちれば、どうなるのだろうか。


甘美な幸せと引き換えに、どんな苦しい現実が待っているのだろうか。

夏の暑さが、女を勇気づけている。


夜の闇が、男を駆り立てていた。

車のヘッドライトが二人を照らし一瞬逆光に目がくらんだ時、女が背伸びをし、男が腕を伸ばした。


さっきの歌が、二人の頭の中をかけ巡っている。

遠く離れていた魂が何千年もの時を越え、やっと出合ったかのように二人のシルエットを重ねている。


タバコの味がする。

男の味であった。


甘い香りがする。

女の香りであった。


どのくらいの時間が経ったのであろうか。 

女はつま先だった足をおろすと、倒れるように男の胸に飛び込んだ。


男は思っていたよりも、か細い女の肩に壊れ物を抱くように優しく手を添えた。

二人の鼓動が同じ時を刻む。


血液さえも溶け合うように、流れていく気がする。

今この瞬間、女は男の物になっている。


別れの不安があってもいい、今はこのまま抱きしめていてほしかった。

男はついに踏み越えてしまった事に、怯えていた。


こんなに危うく壊れてしまいそうな天使を奪ってもいいものだろうか。

まるで自分が獣に狙われる野兎のように心を震わせている。


ただ、この甘い香りにもう少し溺れていたかった。


ひとみは、ずらすように顔を上げると目に涙を滲ませている。

女の無言の命令に、男は逆らえなかった。


そして遂に、女より先にその言葉を口にした。


「好きや・・・」


女は夢にまでみた言葉を射止めると、勝利の余韻に浸るようにして静かに目を閉じた。

男は女に操られるまま、可愛い唇に自分を重ねた。


津波が怒濤のように、二人に押し寄せてくる。

立ち止まる事は許されなかった。


このまま、どこまで流されていくのだろうか。

空に見える星達でさえ、都会の光で霞んでいる。


ゆっくり二人のシルエットが分離し、つなぎ合った手だけを頼りに女は体重をあずけていく。

女は幸せをかみしめるように微笑むと、潤んだ目から涙を一雫こぼし、ささやくように言った。


「今日は・・・うれしかったです。

私、こんなうれしい事、生まれて初めて・・・。

課長・・・愛しています・・・」


青井は何も言えず、吸い込まれるように女の目を見つめている。

手に感じている重みが、窮屈そうに伝わってくる。


「私・・・帰ります。

ありがとうございました」


男は黙って女の手を取り、支えている。

女はゆっくり身体を起こすと、惜しむように手を離した。


そして手を上げてタクシーを止めると、そのまま乗り込んでいった。

男が見守る中、住所を告げ窓越しに微笑んだ。


男も微笑みを返したが、タクシーは素早く発車して、女に届いたかどうかわからない。

ズボンのポケットに手を入れて、男は車を見送った。


やがて車のテールランプが見えなくなると、タバコを取り出して火をつけた。

白い煙が顔の周りを漂って、今までの事を遠い過去のものにしていく。


それでも女の柔らかな唇の感触が、生々しく残っていた。


「愛しています」

と、女は言った。


「好きや」

と、男は言った。


今夜はこの二つの言葉が頭をかけ巡り、無限の旅への水先案内人になるだろう。

せめて、今夜だけはいい夢を見たいものだ。


男は力なく笑うと、ゆっくりと駅の方へ向きを変えて歩き出した。

今夜は電車で帰ろうと思った。


あまり早く、家に着きたくはなかった。

又一本、駅に電車が入ってきた。


緩いカーブを、ゆっくり時間をかけて曲がっていく。

今日は金曜日である。


月曜日まで、長い休日になると男は思った。

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