第十七章 ネクタイ
キーボードを叩く手を休め課長席を見やると、ひとみは今日、何度目かのため息をついた。
皮張りの椅子の主はまだ現れない。
青井と山中が出社するのは、明日なのである。
一日が、ひどく長く感じられていた。
長い長い、十日間であった。
やはり待つのはイヤだと思った。
別れの不安を抱こうと、男のそばにいたかった。
早く帰ってきて、と願う。
不精髭でもいい、ネクタイがよれていてもいい、タバコ臭い服で私を抱きしめて、と叫びたかった。
又、ロビーにでもいって男の匂いを想い出そうかと思っていると、営業部の扉の方から懐かしい声が聞こえてきた。
「いやー、疲れたのー。
おー、こーしてみると、懐かしいもんやのー・・・。
たった十日間、ドイツにいっとっただけやのに・・・」
青井が大きなスーツケースを引き摺りながら、山中と入ってきた。
二課のフロアにいる全員が、二人を囲み話している。
「まーまー、とにかくちょっと休ませや。
なあ、山中・・・」
そう言うと、青井は自分の椅子にどかっと座った。
皮張りの椅子は、やっと主人を取り戻していた。
ひとみが熱いお茶をお盆にのせ、まず山中の席に置いた。
「ありがとう・・・早川さん」
山中が懐かしそうな顔で礼を言うと、旨そうにお茶をすすった。
そして青井の席の方に回ってお盆ごとお茶を置くと、湯呑みを取ろうと差し出した青井の手を軽くぴしゃりと叩いた。
「痛っ・・・。
な、何すんねん・・・?」
青井はびっくりして、顔を上げた。
ひとみは頬を膨らませ、大きな声で言った。
「何言ってるんですか・・・。
今日出社されるなら、
電話の一本ぐらい入れてくれてもいいじゃないですか。
みんなメスレとの契約の事で、
すっごく心配してたんですから。
社運をかけたプロジェクトでしょ、これは・・・」
「そ、そんな事、言うてもやなあ・・・」
盗み見るようにして、そーと、お茶を取ると旨そうにすすった。
「あー、旨い。
やっぱり日本のお茶が一番や・・・。
そうそう、早川さんの入れてくれるお茶が・・・な」
青井の言葉に顔を赤らめ、それを隠すように、わざと大きな声でひとみは言った。
「お世辞言ってもだめですよ。
わかってるんですか。
それに・・・何ですか、その不精髭は。
出社するんだったら、髭ぐらい剃ってきたらどうなんですか。
山中さんなんかきれいにしてるのに・・・。
それにネクタイだって又、ねじれてるし。
ちょっと立ってみて下さい・・・」
青井は渋々立ちながら言った。
「あのなあ、俺かて疲れて休みたいところを、
こうしてがんばって出社したんやぞ。
もうちょっと、いたわりを・・・」
青井が話している間、ひとみはネクタイを結び直していた。
タバコの匂いがする。
青井の匂いである。
一瞬、ひとみはこのまま、この大きな胸に飛び込みたくなる衝動にかられた。
青井は急に黙り込んだひとみに戸惑いながらながめていたが、次の瞬間、ひとみはネクタイをギュッと上に結び上げた。
「ぐえっ、く、くるしい・・・
何、すんねん?」
「いいんです、これぐらいきつくしめないと又、
すぐねじれちゃうんだから。
だいたい、課長はいつも・・・」
やっと二課らしい光景が見られて、課員達はみんな安心したように自分達の席についた。
やはり青井がいないと、二課は気の抜けたようになってしまう。
「わかった、わかった。
もう、それぐらいでカンニンしてくれ・・・。
おう山中、常務に報告しにいくぞー・・・」
そう言うと、逃げるようにして青井は部屋を出ていった。
ひとみはそれを見送ると、くすっと笑い、自分の席に座った。
身体の周りに、まだ青井の残り香が漂っている。
帰ってきたのである。
ひとみは心の中の泉に、その言葉を投げ込んでしまった。
(あなたが・・・好きです)
もう心の中の波紋は、消えることがなかった。
投げられた言葉は溶け込んでいく。
恋の色に染まった水の色は、もう元に戻ることは出来ない。
ひとみは決心するように、大きく息をつくとキーボードを叩く音を強めて、猛スピードでデータを入力していくのだった。
窓の外には高層ビルと青い空。
いつもと変わらぬ風景である。
ただ、徐々に膨れ上がる入道雲だけが嵐の予感をさせていた。
8月も、もうすぐ終わる。
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