第十三章  チケット

オフィスのざわめきが辺りを包んでいる。

お盆休みを前にして、みんなが仕事の調整におおわらわである。


パソコンの手を止めてため息をついたひとみは、チラッと課長席を見た。

青井が受話器を耳にあて話し込んでいる。


仕事をしている時の男は、表情もしまって頼もしく見える。

ひとみは昨夜の余韻をかみしめていた。


タバコの匂いがした。

あれほどイヤな匂いであったのに。


青井の腕をとった薄手のスーツにしみ込んでいた匂い。

男の匂いであった。


少し、自分でも大胆であったろうか。

初めて男と腕を組んで歩いたのである。


渋谷の騒がしい騒音の中で、二人の靴音だけが耳に残っている。

男の腕の温もりが、クーラーで冷えた後の素肌に心地よかった。


ライブハウスでの女性歌手の唄が頭に響いてくる。


※※※※※※※※※※※※※※※


寂しくはなかった。

いつもあんたに会えるって思うからね。

  

だけど、今の方が恐いよ。


※※※※※※※※※※※※※※※

 

そう、ひとみは恐かった。

今の幸せが明日の寂しさになる。


そんな気がした。


だから酔っ払いにからかわれた時、青井の戸惑いの表情を見た時、夢中でタクシーに飛び乗ったのである。

住所を告げた後、ずっと下を向いていた。


うしろを振り向くのが恐かった。

一瞬見えた、青井の表情が忘れられない。


顔を上げると、又、飛び降りて戻りたくなる。

あの時、自分を止める事は出来なかったであろう。


あのまま歩いていけば・・・。


※※※※※※※※※※※※※※※


青井が電話を終えて顔を上げると目が合った。

ひとみは慌ててパソコンに向かった。


青井はため息をつくと、書類に目を通した。

昨夜以来二人はしゃべっていない。


今までは毎日のように口喧嘩をしながら、一日をスタートさせていたのに、だ。


今もひとみの腕の温もりが残っている。

髪の香りが心地よかった。


どうして、腕を組んできたのだろう。

どうして、タクシーに飛び乗ったのだろう。


どうして、悲しい目をしていたのだろうか。

様々な想いが頭をかけ巡り、今日は仕事が手につかない青井であった。


そして、少し不機嫌な声で言った。


「おーい、山中君。

来週のチケットとれたかー?」


山中は書類を書いていた手を止めて、あわてるように言った。


「ええっ、それ・・・・

青井課長が、ご自分で手配されるって先週・・・」


青井はしまったという感じで、顔に手をあてた。


「あいたた・・・そういや、そうやの・・・

どないしょー、早川さん・・・?」


パソコンの手を止めて、こちらを見ていたひとみに哀願するように言った。


「ハイ、課長・・・なんですか?」

いぶかしげな表情で、ひとみが近づいてきた。


「あの・・・すまんけどな、

来週の土曜日発でドイツまで6人、席とれるか?

ビジネスやのーても、かまわんへんから・・・」


頭をかきながら青井が言うと、ひとみが目を開いて大きな声で言った。


「えー、もう十日もないじゃないですか?

今、夏休みシーズンで6人もなんて無理ですよぉ」


「そーやなー、しゃーないなー・・・。

俺が言うの、コロッと忘れてもーたんやからなぁ」


青井が消え入るような声で言うと、ひとみは真剣な表情で言った。


「とにかく、旅行会社や航空会社に手当たり次第、

電話してみます・・・」


それからは山中と二人で電話をかけまくった。


特にひとみは電話での問い合せだけでなく、心当たりの旅行代理店にも直接出向いて  余りのシートがないかとか、午前中いっぱい駆けまわってなんとか6席確保した。


「はい、課長・・・・。

一人がファーストクラスであとの3人がビジネス、

残りの2人がエコノミーですが、

土曜日の午前発のドイツ行きの便が6席とれました」


青井は拝むように両手を合わせて言った。

 

「いやー、すまんかった・・・。

ほんま、助かったわ。

やっと本契約結ぶとこまで来たのに、

これでチケットとれへんかったら、

パーになるとこやったわ・・・」


ひとみはやっと余裕の表情を見せ、腕を組んで見下すようにして言った。


「だから、課長はダメなんですよ。

俺が手配するなんて、

カッコつけないで山中さんに任せとけばよかったんですよ。

だいたい、ふだんから・・・」


やっといつもの営業二課に戻ったと、一同おなじみの光景を見てホッとした。

ただ山中だけは複雑な表情で眺めている。


ゴールデンウイークで、ひとみと初めてデートらしきものをしてから何かと理由をつけては誘うのだが、やはりいつものようにはぐらかされてしまう。

でも、3年間の片思いの中で、今度は何か違うような感じがしている。


今まではまだ、ひとみの幼さが恋愛に対して鈍感なところがあったのだが、この頃時折見せるふさぎ込んだ表情や、青井を見つめる燃えるような眼差しに、本気の恋心を感じるのであった。

特に青井の奥さんからの電話では、明らかに表情が変わっていた。


厳しい眼差しで丁寧すぎる程の応対をした後、訴えるような表情で青井に取りつぐ。

そんな光景を何度か目のあたりにして、山中は今では殆どひとみの事はあきらめていた。

 

ちょうど一カ月前に飲み会で、一緒になった新人の事務の女の子と付き合い始めたところであった。

素直な女性で山中に優しくつくしてくれる。


ただ、心残りなのは青井に妻子がいる事だ。

不倫の恋の泥沼に入っていこうとする、ひとみを引き留められない自分の力のなさが情けなかった。


尊敬する青井の事だから、よもやそんな事はないだろうと思うのだが、思い込みの激しいひとみの性格からすると、どうなるか分からないのである。

どんなにうまくいこうとも、不倫の恋は誰かが傷ついてしまう。


あの大ヒットした映画でも、主人公の二人は自殺してしまうのである。

そうはならなくても奥さんはどうなるのだ。


子供の将来は・・・・慰謝料だって大変である。 

二人は大きな十字架を背負って、これからの人生を歩いていかなければならない。

 

だめになったとしても、せっかくまとまりかけた二課のチームワークがバラバラになってしまう。

青井とひとみの絶妙なコンビネーションが今、二課を支えている。

二人の緊張感のある遣り取りが、周りを冷静に判断させ活気づかせているのだ。


危険な恋であった。


自分のような若輩者が青井に忠告できるわけがなかったが、今度の出張でそれとなく青井に話が出来ればと、山中は思うのだった。

来週の土曜日に二人は、クライアントや技術提携した企業の人達を連れてドイツへ発つ。


十日間の出張である。

今やりあっている青井とひとみの口喧嘩も、とうぶん営業部では聞けない。


窓の外を見ると夏の雲が盛り上がり、様々な形をつくっている。

ドイツの空は、どうであろうか。


山中は目を伏せると、書類の作成にとりかかった。


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